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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第5章 変わったね
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 * * *



 もう忘れよう。


 市之瀬くんの言うとおりだと思った。

 私は今も小学生のときのままだ。楽しかったあの頃が忘れられなくて、いつまでもあの頃の思い出にしがみついたまま、現状を受け入れようとしていない。


 東京の中学に通っている間も、私はひとりの殻に閉じこもって、後ろばかり向いていた。友達ができなくて当然だ。

 市之瀬くんは、私のいない新しい環境で、私の知らない新しい友達と出会って、私の手が届かない新しい自分を手に入れたんだ。

 彼はもう、私が知っている市之瀬くんじゃない。


「四時間目の体育って、最悪だよねー。お腹ぺこぺこで死にそう」


 お腹を抱えて前のめりに歩く亜衣と、私は体育館にある更衣室に向かっていた。

 さっき昼休みのチャイムが鳴ったばかりなのに、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下には、もう学食に向かう生徒があふれている。

 雛高の学生食堂は、二階建の体育館の一階部分にあった。一階には学食のほかに、武道場、用具室、更衣室、運動部の部室がある。

 ふと、足に何かがあたった。見ると、テニスボールだった。


「なんでこんなところに?」


 私が拾い上げたテニスボールを見て、亜衣が言う。


「先に行ってて。これ、用具室にもどしてくる」


 私はテニスボールを持って引き返した。

 体育館の角を曲がると、用具室の重い鉄製の引き戸がわずかに開いているのが見えた。誰かが扉を閉め忘れたのかも。

 ちょうど人ひとり分開いたそのすきまから、私は薄暗い用具室の中に入った。埃っぽい、土と石灰の匂いがする。


「……だけ」


 耳がとらえた小さなささやき声に、私の体は瞬時にすくむ。

 用具室の奥に、誰かがいる。

 目の前には物を積んだ高い棚があって、視界を遮っている。暗い奥のほうまで、はっきりとは見えない。


「私のそばにいて」


 心臓の鼓動が耳もとで大きくなった。

 ここにいちゃいけない──私は瞬間的にそう判断した。

 なのに、私の目は棚のすきまから見えた横顔をとらえて離さず、体は血が固まってしまったみたいに動かなかった。

 全身の感覚が否定する。その光景を。


 市之瀬くんと、知らない女の子だった。

 暗がりでもはっきり見える、彼女の白くてしなやかな腕が、市之瀬くんの首にからみつく。そしてゆっくりと市之瀬くんの頭を引きよせる。

 見たくないのに、動けない。氷の海に閉じ込められたみたいに全身が固まって、冷たくなっていく。


 埃っぽい用具室の暗がりで、二人の唇が自然に重なるのを、私は目の前で見ていた。

 自分の意志では動けなくなってしまった体を残して、意識が逃れようとする。遠くへ。

 長い、とても長い時間が過ぎて、ようやくふたりの唇が離れると、彼女はそのまま市之瀬くんの胸に顔をうずめた。


 そのときになって、氷塊から解放された私の心臓は目覚めたように動き出し、苦しいほどに早鐘を打った。それでも、足に根がはったように動けない。

 痺れた手から、テニスボールが落ちた。

 こっちを見た市之瀬くんと、目が合った。


 音をたててボールは転がり、それで封印が解けたように、私の体は自由になった。

 逃げるように用具室を出たとたん、勢いよく転んで、膝をすりむいた。よろめきながら立ち上がって、なんとか一号館の校舎の中に逃げこむ。

 足を引きずりながら廊下を歩き、一階にある保健室の扉をノックする。返事がない。扉を開けると、中には誰もいない。


 派手に転んだので、大きくすりむいた膝から血が出ていた。おもわず目をそらす。血とか傷口とか、見たくない。

 椅子に座って、傷口を見ないようにして適当に消毒薬を塗っていると、涙が出てきた。染みるし、痛いし。でも、痛いのは、膝の傷じゃない。


 ガラッと扉の開く音がした。養護教諭の湧井わくい先生がもどってきたのかと、私はカーテンの端から顔を出した。

 入ってきたのは先生じゃなかった。市之瀬くんだった。


 なんでここに来るわけ?

 心の中で猛抗議する。市之瀬くんは私の前に立つと、呆れたように深い溜息を落とした。


「転んでケガしたくらいで、泣くなよ。小学生か」


 誰のせいだと思ってんの。

 私は横を向いて、市之瀬くんが立ち去るのを待った。でも、市之瀬くんはその場から動かなかった。また高いところから溜息を落として、私の前に跪くと、傷の手当てをはじめた。


「走って逃げるからだろ。バカだな」


 逃げるでしょ、普通。あんなの見たら。

 すぐ目の前にいるのに、市之瀬くんは私と目を合わせようとしない。骨張った手で、器用に私の傷の手当てをする。

 大きな肩。大きな手。大きな足。

 そりゃそうだよね、と私は心の中で自分にいい聞かせる。

 彼女くらい、いるよ。


「よし。終わり」


 大きな絆創膏を貼った私の膝を見ていた市之瀬くんが、ふいに顔を上げた。

 今度はちゃんと、目が合った。

 全然違う人みたいに見えた市之瀬くんは、近くで見ると、少しだけ昔の面影が残っていることに気づく。

 まっすぐに私を見る奥二重の目とか。すらっとした鼻筋とか。なめらかな頬骨とか。


「……ありがとう」


 私が小さな声でお礼を言うと、市之瀬くんは何も言わずに視線を落として、立ち上がった。


「傷はたいしたことないから。大丈夫」


 ぶっきらぼうにそう言って、市之瀬くんは私に背を向けると、保健室を出ていった。

 扉が閉まると同時に、また涙があふれてくる。

 どうして“大丈夫”なんて言うんだろう。

 どうして、たったひと言で、私はこんなに心が軽くなっているんだろう。


 変わったなんて、嘘だ。

 市之瀬くんは、変わっていない。あの頃と同じ。

 あの頃のまま、何も、変わっていない。

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