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* * *
もう忘れよう。
市之瀬くんの言うとおりだと思った。
私は今も小学生のときのままだ。楽しかったあの頃が忘れられなくて、いつまでもあの頃の思い出にしがみついたまま、現状を受け入れようとしていない。
東京の中学に通っている間も、私はひとりの殻に閉じこもって、後ろばかり向いていた。友達ができなくて当然だ。
市之瀬くんは、私のいない新しい環境で、私の知らない新しい友達と出会って、私の手が届かない新しい自分を手に入れたんだ。
彼はもう、私が知っている市之瀬くんじゃない。
「四時間目の体育って、最悪だよねー。お腹ぺこぺこで死にそう」
お腹を抱えて前のめりに歩く亜衣と、私は体育館にある更衣室に向かっていた。
さっき昼休みのチャイムが鳴ったばかりなのに、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下には、もう学食に向かう生徒があふれている。
雛高の学生食堂は、二階建の体育館の一階部分にあった。一階には学食のほかに、武道場、用具室、更衣室、運動部の部室がある。
ふと、足に何かがあたった。見ると、テニスボールだった。
「なんでこんなところに?」
私が拾い上げたテニスボールを見て、亜衣が言う。
「先に行ってて。これ、用具室にもどしてくる」
私はテニスボールを持って引き返した。
体育館の角を曲がると、用具室の重い鉄製の引き戸がわずかに開いているのが見えた。誰かが扉を閉め忘れたのかも。
ちょうど人ひとり分開いたそのすきまから、私は薄暗い用具室の中に入った。埃っぽい、土と石灰の匂いがする。
「……だけ」
耳がとらえた小さなささやき声に、私の体は瞬時にすくむ。
用具室の奥に、誰かがいる。
目の前には物を積んだ高い棚があって、視界を遮っている。暗い奥のほうまで、はっきりとは見えない。
「私のそばにいて」
心臓の鼓動が耳もとで大きくなった。
ここにいちゃいけない──私は瞬間的にそう判断した。
なのに、私の目は棚のすきまから見えた横顔をとらえて離さず、体は血が固まってしまったみたいに動かなかった。
全身の感覚が否定する。その光景を。
市之瀬くんと、知らない女の子だった。
暗がりでもはっきり見える、彼女の白くてしなやかな腕が、市之瀬くんの首にからみつく。そしてゆっくりと市之瀬くんの頭を引きよせる。
見たくないのに、動けない。氷の海に閉じ込められたみたいに全身が固まって、冷たくなっていく。
埃っぽい用具室の暗がりで、二人の唇が自然に重なるのを、私は目の前で見ていた。
自分の意志では動けなくなってしまった体を残して、意識が逃れようとする。遠くへ。
長い、とても長い時間が過ぎて、ようやくふたりの唇が離れると、彼女はそのまま市之瀬くんの胸に顔をうずめた。
そのときになって、氷塊から解放された私の心臓は目覚めたように動き出し、苦しいほどに早鐘を打った。それでも、足に根がはったように動けない。
痺れた手から、テニスボールが落ちた。
こっちを見た市之瀬くんと、目が合った。
音をたててボールは転がり、それで封印が解けたように、私の体は自由になった。
逃げるように用具室を出たとたん、勢いよく転んで、膝をすりむいた。よろめきながら立ち上がって、なんとか一号館の校舎の中に逃げこむ。
足を引きずりながら廊下を歩き、一階にある保健室の扉をノックする。返事がない。扉を開けると、中には誰もいない。
派手に転んだので、大きくすりむいた膝から血が出ていた。おもわず目をそらす。血とか傷口とか、見たくない。
椅子に座って、傷口を見ないようにして適当に消毒薬を塗っていると、涙が出てきた。染みるし、痛いし。でも、痛いのは、膝の傷じゃない。
ガラッと扉の開く音がした。養護教諭の湧井先生がもどってきたのかと、私はカーテンの端から顔を出した。
入ってきたのは先生じゃなかった。市之瀬くんだった。
なんでここに来るわけ?
心の中で猛抗議する。市之瀬くんは私の前に立つと、呆れたように深い溜息を落とした。
「転んでケガしたくらいで、泣くなよ。小学生か」
誰のせいだと思ってんの。
私は横を向いて、市之瀬くんが立ち去るのを待った。でも、市之瀬くんはその場から動かなかった。また高いところから溜息を落として、私の前に跪くと、傷の手当てをはじめた。
「走って逃げるからだろ。バカだな」
逃げるでしょ、普通。あんなの見たら。
すぐ目の前にいるのに、市之瀬くんは私と目を合わせようとしない。骨張った手で、器用に私の傷の手当てをする。
大きな肩。大きな手。大きな足。
そりゃそうだよね、と私は心の中で自分にいい聞かせる。
彼女くらい、いるよ。
「よし。終わり」
大きな絆創膏を貼った私の膝を見ていた市之瀬くんが、ふいに顔を上げた。
今度はちゃんと、目が合った。
全然違う人みたいに見えた市之瀬くんは、近くで見ると、少しだけ昔の面影が残っていることに気づく。
まっすぐに私を見る奥二重の目とか。すらっとした鼻筋とか。なめらかな頬骨とか。
「……ありがとう」
私が小さな声でお礼を言うと、市之瀬くんは何も言わずに視線を落として、立ち上がった。
「傷はたいしたことないから。大丈夫」
ぶっきらぼうにそう言って、市之瀬くんは私に背を向けると、保健室を出ていった。
扉が閉まると同時に、また涙があふれてくる。
どうして“大丈夫”なんて言うんだろう。
どうして、たったひと言で、私はこんなに心が軽くなっているんだろう。
変わったなんて、嘘だ。
市之瀬くんは、変わっていない。あの頃と同じ。
あの頃のまま、何も、変わっていない。




