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* * *
雛条駅を出たバスは、市内を東西に横断する柿問街道を東に向かって走り、柿問峠の手前で右に曲がった。
ここから雛条高校前まで、柿問川に沿って急勾配の道が続く。苔むしたお地蔵様が、道路脇の斜面にひっそりと鎮座しているような道だ。
重たい車体を押し上げるようにして、バスはゆっくりと坂道を上っていく。
バスのエンジンが苦しげにうなる。
私は思わず不安になって、吊革を握ったまま体をそらし、大きなフロントガラスの向こうに続く細い上り坂を見る。入学式から一週間、バスにはまだ慣れることができない。
ふと見ると、斜め前に、私と同じく片手で吊革を握り、体をそらして前方をうかがっているショートカットの女の子がいる。
バスの中は、雛高の制服を着た学生であふれていた。男子は黒の詰襟、女子は濃紺のブレザーに赤いチェックのスカートだ。
彼女はとりわけ小柄だったので、背伸びをしてもフロントガラスは見えないだろう。
彼女はあきらめたように姿勢をもどすと、ふいにこちらを向いた。目が合った瞬間、日焼けした顔がにっこりと笑う。つられて、私も笑い返してしまった。
バスが回転地に入り、ゆっくり止まった。
道路脇に設けられた回転地は舗装されていなくて、土の表面がむきだしだった。「雛条高校前」と書かれた停留所の錆びたポールは斜めに傾ぎ、ポールの根元のひだまりには、ハコベやオオイヌノフグリが茂っている。
バスは私たち生徒を全員降ろすと、回転地を出て軽やかに坂道を下っていった。街道まで引き返して、そこから神尾山地の東麓に向かうのだ。
私は木立に囲まれた校舎を見上げて溜息を落とした。
バス停から校門まで、徒歩約十五分。また、上り坂だ。
周囲を緑に囲まれた、静かな環境。付近の住宅事情など一切心配無用。グラウンドの広さは県内一。学舎としては最高ともいえる立地条件。
ただ、この学校を建てた人は、毎日ここに通う生徒のことを本気で考えなかったにちがいない。
校門までの坂道の両側には桜の木がずらりと植えられていて、それはみごとな桜並木になっている。だけど、とっくに桜前線が通り過ぎてしまった今は、毛虫要注意の葉桜だ。
こんなにしんどかったっけ?
通い始めてから一週間たっても、毎朝そう思ってしまう。道の脇に咲いているタンポポの可憐な姿に、ほっとする余裕すらない。
ようやく坂の上の校門にたどり着いたときには、うっすら汗がにじんで、息がきれていた。
ひと息ついて、私は山に囲まれた校舎に向かって歩き出す。
四月の半ば、芽吹き始めたばかりの木々は、まだ淡くたよりない色をしていた。
ソメイヨシノはすっかり散ってしまったけれど、山桜はまだ少し花が残っていて、ところどころ薄色に染まっている。枝いっぱいに白い花を咲かせているのは、今が盛りの辛夷だ。
ウグイスが鳴いている。
澄んだ鳴き声が、山に響いて空に抜ける。
山の斜面を覆う笹の葉がかさかさと音をたてるたび、風が吹き抜けたことがわかる。
日に日に春の音が深まっていくのがうれしい。
でも今は、まだ少し肌寒かった。汗が引くと、澄んだ風がいっそう冷たく感じられる。山の上はやっぱり気温が違うのだ。
昇降口で上履きに履き替え、二号館の四階の突きあたりにある一年二組の教室に入ると、まだ誰も来ていなかった。席に着いて、カバンの中から本を取り出す。
入学式直後、与えられた出席番号順の席は、窓際の後ろから二番目。二号館の東側は、体育館とテニスコートに面していた。その向こうに見えるのは、澪入山の頂。
窓を開けると、心地いい風が入ってきた。湿り気を帯びた、土と緑の匂いがする。いい匂い。
「おはよう」
ふいに声をかけられて、びくっとする。顔を上げると、背の低い、色黒の女の子が立っていた。男の子みたいに髪を短く切っている。
「あ」
ついさっき、バスの中で目が合った女の子だ。私はうろたえるあまり返事を忘れる。彼女のほうは、私がクラスメイトだということに気づいていたのだ。
「いつもこんなに早いの? 加島さん」
名前を呼ばれてさらに焦る。こっちは、彼女の名前を覚えていない。
「私は野球部の朝練を見学しようと思って。あ、私、野球部のマネージャーになるつもりなんだ」
「そ、そうなんだ」
やっとのことで、言葉を返す。
「加島さんは、もう決めた? クラブどこに入るか」
「あ、うん。美術部」
「へー。文化系かー」
そう言いながら、あどけない顔で私が開いている本を遠慮なくのぞきこむ。
「それ、なんの本? 小説?」
「……ううん。西洋絵画についての本」
「そんなの読むんだ。おもしろい?」
「うん、まあ……」
「どんなところが?」
私は早くこの会話を終わらせたかったのに、彼女はなかなか質問をやめてくれない。
「たとえば……この、フェルメールの『画家のアトリエ』という絵だけど、フェルメールが描く絵はどれも深い沈黙の底に沈んでいるの。この絵に描かれている画家とモデルはきっと無言で、仮になにか会話を交わしていたとしても、私たちには絶対に聞こえない。そういうふうに描かれてる。それは光の表現による視覚的効果と──」
あ、また。私ってバカ。こんな話、本気で聞きたがる人いないのに。
「へええ。おもしろそう。私、推理とか謎解きとか大好きなんだ。読み終わったら、貸してくれる?」
彼女は好奇心で輝く目をまっすぐ私に向けて、そう言った。
「……うん。いいよ」
「じゃあ、朝練の見学に行ってくる!」
元気よく手を振って、彼女は教室を飛び出していった。
彼女の名前は松川亜衣といった。見た目どおり、快活でほがらかな性格の女の子。
中学時代は野球部に所属していて、男の子に混ざって選手として活躍していたと言う。驚きだ。
「これでも敏腕ピッチャーだったんだよ」
彼女が冗談まじりに自慢するとき、ちょっとだけ悲しそうに見えるのはなぜだろう。
「ほんとかよ。でまかせ言ってんじゃねえの? つか、自分で言うか?」
そのことに気づいているのかいないのか、同じクラスで野球部の有村くんは、松川さんが自慢しているのを聞くと必ず茶化す。
「ほんとだもん。嘘だと思うなら、私と同じ三中出身の子に聞いてみれば?」
「嘘だったらどうするよ?」
「だからほんとだって言ってるでしょ」
松川さんも、なぜか有村くんが相手だと喧嘩腰になる。
「もし嘘だったら、どう責任とんの?」
「しつこいなっ。嘘だったらあんたの言うこと、なんでも聞いてやるわよ!」
有村くんはにたあーっと笑って、勝ち誇ったように胸を張る。
「その言葉忘れんなよ、松ぼっくり!」
有村くんは、彼女のことを「松ぼっくり」と呼んでいた。
「小学生みたいなあだ名で呼ばないでよ、恥ずかしいっ」
松川さんは怒っていたけれど、有村くんは全然気にしていないみたいで、「だって、おまえほんとに松ぼっくりに似てんだもん」とか言いながら、おもしろそうに背の低い松川さんの頭をぽんぽんと叩く。
有村くんの身長は百八十センチを超えていて、松川さんとの身長差は三十センチ以上。有村くんが松川さんのことを“小学生の弟”みたいに扱っていることは、誰が見ても明白だった。
ふたりを見ていると、ずっと前からの知り合いみたいに思えるけれど、そうではないらしい。松川さんは三中出身で、有村くんは一中出身なのだ。会ったばかりの男の子とすぐに仲良くなれるって、すごい。
松川さんは、私がおそるおそる本を貸してから数日後に、「この本、すごくおもしろい。昔の絵って、いろんな謎が隠されてるんだね」と言った。
「なになに? 加島さん、どんな本読んでるの?」
私と松川さんが話していると、有村くんはよく首を突っこんでくる。
「あんた本なんか読まないでしょ。野球バカでしょ」
「なんだよ、ひでえな。おまえこそ松ぼっくりのくせに」
「なにそれ、意味わかんない」
ふたりの口喧嘩を聞いているのは楽しいから、私はあえて止めないことにしている。
松川さんは男女の区別なく誰とでもすぐに仲良くなって、一緒にいると、いつのまにか私まで自然とその広い輪の中に溶けこんでいる。
「加島さん、彼氏いる?」
昼休みにお弁当を食べているとき、いきなり松川さんが聞いた。
「まさか。いないよ」
「そっかー」
「松川さん、いるの?」
「いるわけないでしょー」
子供みたいに、ぷうっとふくれる。
「このクラス、彼氏持ち多いんだよ。加島さんはかわいいから、すぐにできそうだよね。あ、それとも好きな人いるの?」
入学式の日からずっと、私はひとりの男の子を探している。そのことを、松川さんは知らない。
入学式当日、小学校で同じクラスだった汐崎くんに会った。学級委員長をしていた、しっかり者の汐崎くん。
それから隣のクラスには諸見里さんがいた。体育の授業は一組の女子と合同だから、最初の体育の授業のときに諸見里さんが先に私に気づいてくれて、そして教えてくれた。
市之瀬くんが、この学校にいることを。
それ以来、ずっと探しているのに、会えない。
四月の空は、澄みきった水色だった。
日に日に明るさを増す日射しが、固い木の芽をやわらかな新緑に変えていく。のどかな風景の中を、風は穏やかに吹き渡る。もうすぐ五月になろうとしている。
一時間目の授業中、何げなく窓の外を見ると、ひとりの男子生徒がゆうゆうとテニスコートの横を通ってこちらに歩いてくる。急ぐようすもない。
この時間に登校?
一時間目が始まって、すでに三十分たっている。しかも、校門とは逆の方角──裏庭のほうから歩いてきた。
態度だけじゃなく体も大きいから、上級生に違いない。おまけに茶髪だ。
窓からじっと見ていると、ちょうど彼が窓の下を通りかかったとき、突然こっちを見た。
私はあわてて顔をひっこめ、それからちょっとずつ顔を近づけて、もう一度窓の下をのぞいてみた。まだ見ている。しかも窓の下で立ち止まって、怖い顔でこっちを睨んでいる。
私は窓から体を離して、授業に集中した。顔を覚えられていたらどうしよう、と内心びくびくしながら。
昼休みが終わる十分前、私と松川さんは本館にある社会科準備室へ向かっていた。
四時間目が終わった直後に、廊下で偶然会った世界史の宇藤先生から、五時間目に使う地図を教室に運ぶよう頼まれたのだ。
「こういうことは、日直の仕事なんだけどなあ」
廊下を歩きながら、松川さんがぶつぶついった。
「松川さーん」
その時、後ろから誰かの呼び声が追いかけてきた。ふり向くと、同じクラスの女の子だった。
「担任が探してるよ。ノート提出してないの松川さんだけだって」
「あ、しまったぁ」
松川さんはぱちんと自分で自分の額を叩いて、顔をしかめる。
「いいよ、こっちは私が行くから」
「ほんと? ごめん、加島さん」
松川さんは顔の前で両手を合わせ、小走りに教室へもどっていった。
社会科準備室は、本館の三階にある。準備室の扉を軽くノックして、扉を開けた。
「失礼します」
声をかけて中に入ると、部屋の奥から話し声がする。
背の高い茶髪の男子が、窓際の先生の机のところで、こちらに背を向けて立っているのが見えた。
「おう、すまんすまん。そこに出してある三本だ」
生徒の影から、机の前に座っていた宇藤先生が首だけ出して笑いかけた。上下ともジャージ姿で、おまけにがっしりした体格をしているから、見た目だけだと体育教師に見える。
私は入り口の横にたてかけてある、ロール状の地図へ手をのばした。
「だいたいおまえは遅刻が多すぎる。それからその髪、どうにかしろ。パーマもカラーも校則違反だって知ってるだろ。――おい、もうひとりはどうした?」
最後のひとことは、私に向けられた台詞だった。私は自分の身長よりはるかに高い地図三本を目の前にして、どうやって運ぼうかと思案していた。
「あ、あの、ちょっと用事ができて……」
「そいつはひとりじゃ無理だぞ。結構重量があるからな。おい、おまえ手伝ってやれ。遅刻した罰だ」
宇藤先生の言葉に、私はぎょっとした。
「いえっ、あの、平気です! ひとりで運べますから!」
私は全力で拒否する。先生、ひどい。あんな、見るからに悪そうで怖そうな上級生に、手伝ってもらいたくないです。
いそいで三本の地図をかき抱くと、ずしっと地図の重みが肩にのしかかってきた。あまりの重さに思わずよろめく。
突然横から伸びてきた腕が、二本の地図をさらうように私から奪い取った。
「一年二組の教室だからな。頼んだぞ」
宇藤先生の笑いを含んだ声を聞くより先に、背の高い男子生徒は軽々と二本の地図を抱えて、さっさと廊下に出てしまった。
私は残された一本の地図を両手で抱え、急いで彼の後を追いかける。
「あのっ、あの、すみません。手伝わせてしまって」
ようやく追いついた背中にそう言ったものの、彼はふりむく気配も見せず、どんどん歩いていってしまう。私はもたもたしながらも、懸命にその後をついていく。
雛条高校の校舎は、いわゆるコの字型に建てられている。
コの上の部分が本館、右側が一号館、下が二号館と呼ばれていて、いずれも鉄筋コンクリート造四階建。昇降口は、一号館と二号館を結ぶ渡り廊下の途中に設けられている。
一、二年生の教室は二号館にあり、職員室は本館、美術室や音楽室などの特別教室および三年の教室は、一号館にあった。
敷地も広いけれど校舎も広くて、おまけにどの校舎も似たようなつくりなので、たまに方向感覚を失って自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。正直に言うと、もう何度か迷ってしまった。
どのコースを行くつもりだろ。
私は前を歩く上級生の背中を追いかけながら、不安に陥る。
社会科準備室のある本館から、二号館の端にある教室までは遠い。
渡り廊下を通って二号館へ入るコースと、一号館を通って二号館へ入るコース、もしくは中庭を通って二号館に向かうコースがある。
中庭を横断すれば距離的には近いけど、そのためにはいちど一階まで下りなくてはいけない。
私としては、この殺人的な重さの地図を抱えて階段を上り下りするよりは、多少遠くても廊下を歩くほうが楽だった。そしてできれば、三年生の教室がある一号館は、通りたくない。これは新入生としては、ごくまともな心情だと思う。
だから、私の前を歩く上級生が、中庭を突っ切るのでもなく一号館を通るのでもなく、渡り廊下を使うコースを選んだときには、心からほっとした。
もしかして、気を遣ってくれたのかな。
ふとそんなことを考えたりもしたけれど、彼の歩調はあいかわらず速くて、後ろからついていく私のことなど、おかまいなしだった。
もうちょっと、コンパスの差を考えてほしいよ。
心の中でひそかにこぼし、ようやく一号館に入ったとき、彼が少しだけ歩調をゆるめた。そして私が追いつくのを待って、ふりむかずに低い声でぽつりと言った。
「おまえ、案外薄情なんだな」
私はあわてまくった。
なんのこと? 地図を運ばせたこと? だからいいって言ったのに。すみませんって謝ったのに。
教室のそばまでくると、廊下にいた有村くんがこちらに気づいた。
「あれ、郁。何してんだ?」
……かおる?
彼は、持っていた地図を二本とも有村くんに押しつけると、肩越しに私を見下ろした。
ふわんとした、くせのある茶色い髪。
押しよせてくる、感覚と記憶の波。一瞬で、熱い感情の渦に巻きこまれる。
「俺はひとめでわかったのに」
冷たい顔で、冷たく笑う。高いところから私を見下ろす目は、もっと冷たい。
「……市之瀬くん?」
確かめる時間さえ与えてくれない。彼は私の横を素通りして、行ってしまう。さっきと同じ、遠慮のない歩幅で。
「ふたりって、知り合い?」
有村くんが横から聞いているけれど、質問の意味が頭に入ってこない。
本当に、本当に市之瀬くん? あの人が? あの、市之瀬くん?
全然知らない人、みたいだった。
私の記憶の中の市之瀬くんは、今でもまだ小さなかわいい男の子のままで。四年も経っているんだからそんなはずないのに、ずっとその面影を探してた。
探しても見つからないはずだ。
「加島さん?」
はっとするのと同時に、持っていた地図を放してしまう。有村くんがすばやくキャッチしてくれた。有村くんは三本の巨大な地図を片手で抱えこんで、心配そうに私を見ている。
「あ……ごめん。えーと、なんだっけ」
「郁のこと、知ってんの?」
有村くんが不思議そうな顔をしている。説明しなきゃと思うのに、言葉が浮かんでこない。なんて言えばいい?
ぼんやりしている私を見て、有村くんが先にいった。
「俺たち、同中だったんだよ。クラスもずっと一緒で」
「あ……そっか。私は……小学校のとき、同じで」
それを聞いて、有村くんの顔が明るくなった。
「へー、そうだったんだ。びっくりしたでしょ、あいつ、えらい大きくなっちゃって。あ、ひょっとしてわかんなかった?」
「……うん」
ゆっくりと、混乱していた心の中と頭の中が落ち着いてくると、自分の言動がよみがえって、後悔と恥ずかしさが嵐のように押しよせてきた。
さらに、市之瀬くんが残していった台詞を思い出して、全身が固まる。
今朝の、窓の下にいた人だと、私はようやく気づく。
どうしよう。今さらながら、ひどいことをしてしまった気がする。
「あ、謝ったほうが、いいかな」
不安が声に出てしまった。有村くんはあっけらかんとして、「謝らなくてもいいんじゃない?」と言う。
「……でも」
怒っているみたいだった。
冷たい、低い声。身長も、声も、私に対する態度も、全部、知らない人になっていた。
「怒ってないよ、あれは」
有村くんは自信ありげにそう言って、私に向かってにっこり笑う。
予鈴が鳴った。難なく地図を抱えて、有村くんは先に教室に入っていく。
私はまだ、今起こった出来事が現実とは思えなくて、夢を見ているような気持ちだった。
市之瀬くんは、廊下ですれ違っても、私と目を合わせようとしなかった。
もう一度、ちゃんと話がしたい。
そう思って、今度学校で市之瀬くんに会ったら、勇気を出して私から声をかけようと決めていた。それは、私にしてみれば、決死の覚悟とも言えるほどのもので。
それなのに。
まるで、目に入れたくもないと言うかのように、市之瀬くんは私を見ない。
市之瀬くんは四組で、私たち二組とは教室のある階が違う。廊下で偶然会うこと自体ほとんどないのに、その希少なチャンスさえも、ことごとくつぶされる。
無視されてるよね、完全に。どう見ても。
有村くんは怒っていないと言ったけれど、やっぱり、気づけなかったことを怒っているとしか思えない。
謝る機会くらい、与えてくれたっていいのにと思う。せっかく久しぶりに会えたのに、そんな冷たい態度をとらなくても。
それとも……久しぶりに会えてうれしいと思っているのは、私だけ?
暗い気持ちで教室を後にし、私は昇降口に向かった。今日も一日、あっけなく終わってしまった。
昇降口の前で、廊下の壁に掲示されている部活動黒板に何やら書きこんでいる汐崎くんを見かけた。
「あ、加島さん」
近づくと、汐崎くんがすぐに気づいて笑いかけてくれる。
目の前に立つと、汐崎くんもずいぶん背が伸びていた。男の子だから、当たり前か。
でも、怖い感じはしない。笑うといっそう細くなる目も、生真面目そうな広いおでこも、真っ黒で硬そうな髪も、昔のまま。あの頃と同じ優しい感じが伝わってくる。
「何してるの?」
汐崎くんの手に白いチョークが握られている。黒板を見ると、いちばん左端に『郷土史研究会』と書かれていた。
「実はさ、新しいクラブを作ったんだけど、人数が足りなくて、集めてるところなんだ」
「新しいクラブ?」
クラブって、入るものじゃないの?
「そう。郷土史研究会。その名のとおり、地元の歴史を研究するのが主な活動内容」
「それを……汐崎くんが作ったの?」
入学式から、まだ数週間しかたっていないのに?
「ほかに、興味を引く部活がなかったから」
汐崎君は、少し照れたように頭をかきながら言う。
思い出した。汐崎くんて、昔からすごく地元愛が強い人だった。
それにしても、入学したばかりで新しいクラブを作るなんて、すごい。
「日本史の先生がとりあえず顧問を引き受けてくれることになったんだけど、五人以上集まらないと正式な部として認めてもらえないんだ。それで……どうかな。加島さん、入る気ない?」
「えっ、私?」
私は驚いて目を見開く。
そのとき、汐崎くんの背後の廊下を、市之瀬くんが歩いてくるのが見えた。
「わ、私は……その、もう美術部に入部しちゃったから」
「あ、そうなんだ」
汐崎くんは、あからさまにがっかりした表情になる。
「そうかー。残念だな」
「……ごめんね」
「いや、いいんだ。もし興味がありそうな人がいたら、教えて」
「うん」
市之瀬くんは私たちに気づいているはずなのに、目を合わせようともせずに素通りする。
「あっ、市之瀬」
気づいた汐崎くんが声をかけると、市之瀬くんは数歩先でふりむいて、見るからにうざったそうに私たちを見た。
「あのさ、俺、新しいクラブ作ったんだけどさ、おまえの知ってるやつで、郷土史に興味持ってそうなやついない?」
汐崎くんって、意外と積極的だなあ。
「さあ。わかんね」
市之瀬くんはそっけなく答えると、さっさと背を向けて下駄箱に向かう。
「あーあ。なかなか集まらないもんだなあ」
汐崎くんが溜息をこぼす。
あれ。だけど。
「どうして市之瀬くん本人を誘わなかったの?」
私が聞くと、汐崎くんは一瞬不思議そうな顔で私を見た。そしてすぐに「ああ、そっか。加島さんは知らないんだっけ」と、納得顔で言う。
「あいつは、部活はやらない主義なんだよ。中学のときも、あちこちから声がかかってたんだけど、全部断ってたんだ。助っ人で試合に出ることはあっても、正式な部員にはなりたくないらしい」
「……そうなんだ」
「もったいないよなあ」と、汐崎くんがつぶやく。私は「そうだね」と答えた後で、少し笑った。
「でも、市之瀬くんらしいかも。小学校のときも、運動神経抜群なのにおとなしめで、全然体育会系らしくなかったもん」
すると、汐崎くんが「うーん」と複雑そうな声をもらした。
「市之瀬がおとなしいっていう点については同意しかねるけど、確かに体育会系ではないな。勝負事に熱くなるタイプじゃなさそうだから」
汐崎くんはそう言いながら、黒板に「部員募集中! 希望者は一の五 汐崎まで」とチョークで書きこむ。
汐崎くんが立ち去ったあと、私は靴を履き替えて昇降口を出た。校門に向かう市之瀬くんの姿が見えた。
私は走って、市之瀬くんの後ろ姿を追いかけた。校門の手前で、ようやく追いつく。
「市之瀬くん」
声をかけると同時に、私は市之瀬くんにかけよった。市之瀬くんは、まだ何か用があるのかと言いたげな冷たい目で、私を見た。
くじけそうになったけれど、なんとか勇気を奮い起こす。このチャンスを逃したら一生話しかけられないかもしれない。
「さっきの話、すごくない? 汐崎くん、ひとりで新しいクラブ作ったんだって。そういえば汐崎くんて、あのころから地元が好きだったよね。でも部員が集まらなくて苦労してるみたい。私を誘うくらいだから、よっぽど困ってるんだろうね」
緊張しすぎだ。
息継ぎをするのも忘れて、私は一方的にしゃべってしまう。
どうすれば、市之瀬くんとの間にできた四年間の空白を埋められるのか、わからなかった。
時間を縮めることができるとしたら。
一瞬でも、あの頃にもどることができるとしたら。
汐崎くんには悪いけれど、きっかけになってもらおうと思ったのだった。
だけど、市之瀬くんは無反応だった。黙って私の話を最後まで聞いて、ひとこと、冷めた声で言った。
「おまえ、バカじゃねえの?」
私は言葉をなくして、凍りついたように棒立ちになる。
頭の中が真っ白になって、市之瀬くんの疎ましそうに私を見下ろす顔を、ただ見ていることしかできない。
息が苦しい。ショックのあまり、呼吸が浅くなっていた。私は市之瀬くんの顔から目をそらして、ゆっくりと息を吐き出した。
「……市之瀬くん、変わったね」
喉の奥から絞り出すように、私は言った。
頭上で、かすかに笑う気配がする。
「あたりまえだろ。いつまでも小学生のままでいるとでも思ってたわけ?」
笑いを含んだ低い声が、冷ややかに響く。
「四年もたてば少しは成長したかと思ったけど、おまえって、全然変わってねえな」
呆れ果てたように、突き放した口調でそう言って、市之瀬くんは私に背を向けた。
私はうつむいたまま何も言えず、風に揺れる桜の梢の音に紛れて遠ざかる足音を聞いていた。




