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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第4章 もう二度と会えない
21/88

 * * *



 教室の窓を開けていると、蝉の声がうるさい。


 線路沿いの桜並木は、今日も蝉の大合唱と化している。

 かと言って、窓を閉め切るなんて自殺行為ともいえる恐ろしい真似もできず。

 教室の中はサウナ状態で、じっとしていても汗が流れ落ちる。あまりの暑さに、朝からみんな口数が少ない。

 有村健吾を除いて。


「なあ、頼むよ。ちょっとだけ。一日だけ」


 朝からずっと、健吾は休憩時間になると俺の机の横にへばりついて、同じ台詞を繰り返している。ただでさえ暑くてイライラしているのに、うっとうしくてたまらない。

 俺は健吾を無視して顔をそむけ、窓の外を見る。俺の席は窓際のいちばん後ろという、誰もがうらやむ特等席なのだ。


 夏休みまであと二週間。

 期末テストも終わり、残すは終業式のみ。集中力なんて、とっくに夏空の彼方に消えてしまっている中学二年の俺たち。


 風はそよとも吹かない。

 窓から見える澪入山の緑は今日もごきげんなほどあおあおとして、快晴の空の下で直射日光を浴びている。

 あー、見ているだけで暑い。


「一生のお願い。なっ。なっ。頼むよ、郁」


 下の名前で呼ぶなとあれほど言ったのに、健吾はちっともやめようとしない。


「おまえ、前回も一生のお願いって言ったよな」


 俺が睨み返すと、健吾は白々しく目を見開いて、真っ黒に日焼けした顔に驚きの表情を浮かべる。


「ええっ、うそ。俺、そんなこと言った?」


 わざとらしい。演技が下手すぎて突っこむ気にもならない。


「今度こそ、ホント。これが最後だから」

「嫌だ」

「そんなこと言わずにさあ」

「部員でもないのに、なんで俺がわざわざ夏休みに出てきて、野球部の練習試合に出なきゃいけないんだよ?」


 まったく、冗談じゃない。


「だから、三年の先輩が引退して、メンバーが足りねえんだよ」

「一年がいるだろ」

「無理だって。相手、全国大会の常連校なんだよ。何度もお願いして、やっと練習試合を引き受けてもらったんだぞ」

「知らねえよ。だからってなんで俺が……」

「前回は出てくれたじゃん」

「あのときは、ただの紅白戦だったし」

「紅白戦も練習試合も一緒だって!」

「違うだろ」


 即答すると、健吾は大きな体を折り曲げるようにして、がくんとうなだれた。


「なあ、頼む。ほかに頼めるやつ、いないんだよ。本当に困ってるんだって」


 ああ、もう。

 俺は溜息まじりに「しょーがねーなー」と嫌々言った。半分、やけくそ。暑くて抵抗する気力が失せた。

 とたんに、健吾は満面の笑みに変わる。


「ありがとう郁クン! このご恩は一生忘れません!」


 いや、忘れるだろ。

 心の中で突っこんで、席を立つ。この暑苦しい男から離れよう、今すぐ。


「あれ?」


 健吾がふともらす。


「おまえ、また背が伸びた?」


 俺はふり返り、苦々しく「まあな」と答える。

 やっと百六十センチに届きそうなところまできたけれど、目の前にいる暑苦しい男は俺より十五センチも高いところから見下ろしているのだ。


「あ、もし練習に参加したいんだったら、いつでも大歓迎。夏休み中、俺たちほとんど毎日練習してっから。富坂にも言っておくし」


 にこにこと、うれしそうに話す健吾に「ハイハイ」と適当にうなずいて、俺はうんざりしながら教室を出た。

 昼休みはまだ十五分くらい残っていたので、北側の渡り廊下に向かう。あそこはあまり人が通らないし、校舎の影になっていて涼しいから、教室の中よりはましかもしれない。


 ところが、予想外に人がいた。

 しかも男女ふたり。

 ひとりは同じクラスの住友窓花すみともまどか。もうひとりは野球部の……たしかショートを守っていた、三組の浜野数樹。


 ふたりとも、突然俺が現れたことに動揺していた。ふたりの間に漂う空気が、これ以上ないくらい緊迫していた。あんなにうるさかった蝉の声が、なぜかぴたっと止んでいる。


 先に逃げたのは浜野のほうだった。住友に「じゃあ」と言い残して、足取り速く去っていく。

 かなり、相当、まずい場面に出くわしてしまったらしい。


「あ、ごめんね」


 住友は涙の浮いた目を隠すように、俺を見て健気に笑った。

 教室にいるときの印象とずいぶん違ったので、とまどう。


 住友窓花は、高校生といっても通るくらい大人びていて、教室でもどこか浮いていた。

 クラスの男子にはもちろんのこと、女子たちにも、自分から話しかけることはしない。たいていいつもひとりで、静かに本を読んでいる。


「かっこ悪いとこ、見られちゃったな」


 そういって、住友はごしごし目をこする。


「あ、話聞いてた? 誤解しないでね。かずくん……浜野くんとは、そういう仲じゃないから。ただの幼なじみだから。私が勝手に告白して、一方的にふられただけだから」

「……別に、なにも聞いてないけど」

「えっ。あ、そっか。なんだ。やだなーもう。私、ひとりでぺらぺらしゃべっちゃって、バカみたいじゃん」


 赤い目をしたまま、住友は笑った。

 わざと明るい声でしゃべっているのがわかって、なんとなくいたたまれない。こういう場合、どんな行動をとればいいのか、まったくわからない。


「あ、何も言わなくていいから、うん」


 住友のほうが俺を気遣って、そう言った。


「でも、もうちょっとだけ、ここにいてくれる?」


 一匹の蝉が、すぐ近くで鳴き始めた。それにつられるように、どんどん蝉の声が増えていく。

 住友は渡り廊下の手すりに体をあずけ、身を乗り出すように連なる山を見つめている。


 たぶん俺よりも身長が高い。やせているけど胸は大きい──これは男子の間ではかなり有名。

 制服のスカートから伸びたすらりとした足がまぶしくて、俺は思わず目をそらす。


 住友から少し離れたところに立って、手すりにもたれて白っぽい空を見上げる。

 蝉の声が、空に吸いこまれるような気がした。




 野球部の練習試合は、八月の初めに行われた。


「本当に、これっきりだからな」


 試合開始前、俺はしっかり健吾に念押ししておく。健吾はへらへら笑って、「わかってるって」とミットをはめた左手をふる。全然わかってないように見えるのはなぜだろう。


「安心して見物してろって。絶対、レフト方向には打たせねえから」


 今日の俺に与えられたポジションは、レフトである。ちなみに健吾はキャッチャー。


「やっぱり市之瀬はいいヤツだなあ」


 俺たちの会話に割って入ってきたのは、三年が引退してキャプテンになったばかりの富坂信太郎だ。


「あれほど嫌がってたくせに、夏休みに入ってからほとんど毎日顔出して、部員の誰よりも遅くまで残って練習するんだもんな。前回の紅白戦のときもそうだったけど、嫌々やってるくせに手を抜かないところが、すごいよな」

「そうなんだよ、こいつ、意外といいヤツなんだよ」


 健吾が軽く同意する。おまえが言うな。


「実はさ、俺、最初はちょっと不安だったんだよな」


 富坂が太い眉を指で撫でながら、言いにくそうに話す。


「市之瀬って全然しゃべらないし、なんかいつも不機嫌そうだし。部員ともめたりケンカになったりしないか心配で」

「あー、こいつがしゃべらないのはただ単にめんどくさいからっていうだけで、不機嫌そうに見えるのはもともとそういうつまらない顔だから。実はめったに怒らない」


 不愉快に思うことは多々あるけどな、オイ。


「うん。今はもう、そのへんのとこ、ちゃんとわかってるから。大丈夫」


 富坂は笑いながら俺を見て、また笑う。


「ま、頼むよ。期待してるぜ」


 立ち去りかけた富坂が、ふと前方を見て足を止める。


「なあ、おい。あれ、おまえらのクラスの住友じゃないか?」

「あ、ほんとだ」


 三塁側にある藤棚の下のベンチに、住友が座ってこちらを見ている。


「なんでいるんだろ? 夏休みなのに」

「あ、それは俺が……」


 説明しようとしたとたん、ふたりが猛然とふり返った。


「なに、おまえ!?」

「住友とできてんの!?」


 ふたり同時に叫ぶ。違う、と言っても聞いていない。「いつのまに!」とか「いつからだ!」とか「どうやって!」とか、つぎつぎと鼻息の荒い質問が襲いかかってくる。


「だから、違うって」


 あの日から、俺と住友は、たびたび休み時間に渡り廊下で会うようになった。もちろん、偶然。少なくとも俺のほうは。


「実はね、ここに来たら市之瀬くんに会えるかなあと思って、毎日来てたんだ」


 何度目かの偶然のとき、住友はそう言った。そして、「お願いがあるんだけど」と言い出した。


「あのね、夏休みに野球部の練習試合があるでしょ? 私と一緒に、その試合を見学してほしいんだけど」


 俺は、住友が言っていることの意味が、まったく理解できなかった。理解はできなかったが、返答はすぐできた。


「悪いけど、俺、その試合に出ることになってて……」

「えっ、ウソ。だって市之瀬くん、野球部じゃないよね?」

「そうなんだけど……」


 事情を説明するのがめんどうで、俺は言いよどむ。すると、住友は明らかにうれしそうに顔をほころばせて、「ラッキー」とつぶやいた。


「そのほうがいいかも。ふたりで見学って、ちょっとわざとらしいかなーって思ってたんだ」


 ますます、意味がわからない。


「えーと、つまりね。そのときにね、私と仲がいいふりをしてほしいの」


 ようやく話が見えた。

 ふられた男へのあてつけというわけか。


「いいよね? 付き合ってって言ってるわけじゃないんだし。ちょっとだけ、仲がいいふりをしてくれればいいだけだから。ね?」


 意外と押しの強い住友に迫られて、なんとなく断ることができず……結局、こういうことになってしまったのだ。

 健吾と富坂には、浜野へのあてつけ、という部分は話さずに、住友が純粋に練習試合を見たがっていた、ということだけ話した。


「いやあ、これは恋の始まりですね」

「すがすがしいなあ」


 ふたりは適当なことをいって、勝手に盛り上がっている。

 住友は藤棚の下のベンチにちょこんと座って、試合が始まるのを待っている。

 彼女は制服ではなく私服だった。胸のふくらみがはっきりわかるノースリーブの白いブラウスに、太股が露わなミニスカート。


 見ると、部員たちが全員彼女を気にしているのがわかる。俺たちだけじゃなく、相手チームまでも。

 炎天下。夏休み。まわりはむさ苦しい男ばかり。野球なんかどうでもいい。その気持ちは痛いほどよくわかる。


 俺と目が合うと、住友はにっこりして手をふってきた。

 この状況で手をふるか。

 浜野が見ていることは、たぶん計算済みだ。約束なので無視するわけにもいかず、俺はひかえめに手をふり返す。

 全員注目。背中に視線が突き刺さる。


 妙な空気の中、試合が始まった。

 相手は全国大会の常連校という強豪チーム。技術も練習量も違うが、選手の身長も体格もまるで違う。ばかでかい健吾が、普通に見えてしまう。


 当然ながら、試合の結果は予想できた。ところがその予想が外れた。

 もっとボコボコに打たれるかと思ったら、ピッチャーが意外とふんばり、四回裏までともに得点なし。

 さらに信じられないことに、六回裏に三番の富坂がヒットで出塁、四番の有村が一二塁間を破るタイムリーを放ち、先に点が入ってしまった。

 残すは最終回となる七回のみ。この回を守り切れば、俺たちの勝ち。


「奇跡だ」

「勝っちゃうかも」

「ありえねえ」


 口々に言いながら、全員ポジションにつく。

 しかし、そこは全国レベルの強豪チーム。こんなド田舎の中学に完封などされてはたまらない、と思ったのだろう。最終回、選手たちの目の色が変わった。

 連続ヒットでたちまち塁が埋まる。味方も負けてはいない。内野フライでワンアウト。あとふたり。


 こんな場面にかぎって四番にまわる。バッターボックスに立つ選手は、健吾よりも大きい。気迫もすごい。ピッチャーは完全に飲まれてしまっている。

 あ、打たれる。

 たぶん、全員、そう思った。


 問題は、打たれた球がどこに飛ぶかだ。とっさに、嫌な予感。

 こういう場合、予感はたいてい的中する。

 打者のバットが回転すると同時に渇いた音が鳴り響き、空高くボールが飛ぶ。ショートの後方、レフトとセンターの真ん中に向かって。


 レフト方向には絶対打たせないんじゃなかったのかよ!

 心の中で毒づきながら、俺は全力疾走でボールを追いかけ、落下地点へ向かう。走りながら、ボールが落ちてくる方向へ思いきり左腕を伸ばす。


 届かない? いや、届く!

 グラブの先にボールがおさまる感触が、左手から全身に伝わる。


「バックホーム!」


 誰かが叫ぶ声が聞こえ、その瞬間に俺は投球体勢に入っていた。

 三塁ランナーは、ホームを狙って走り出している。


 ばかでかい体でホームベースを守っている男が、ミットをかまえている。助走をつけ、そのミットめがけて、力いっぱい投げた。

 俺の手を離れたボールは、まっすぐに、健吾がかまえるキャッチャーミットに吸いこまれていった。


「アウト! ゲームセット!」


 その声を聞いた瞬間、俺はその場にへたりこんでいた。




 試合が終わってグラウンド整備をしている間も、部員たちは興奮がさめないようすだった。


「市之瀬、おまえ本気で野球部に入らないか?」


 富坂が真剣な顔でいう。


「絶対に嫌だ」

「なんでだよ、もったいない。最後の打球、完全にレフトの守備範囲超えてたぞ。どんだけ足速えんだよ。しかも、あんな神がかり的な返球しやがって」

「まぐれだ、まぐれ」


 俺が逃げようとすると、健吾が背後から現れて逃げ道をふさぐ。


「俺、前から思ってたんだけど。郁って、絶対ツキを持ってるよな」

「あ、それは俺も思う。市之瀬がいると負ける気がしない」

「なんかさあ。勝利の女神にエコヒイキされてるっていうかさあ。……正直、ムカつくけどな」


 知るか、そんなもん。

 そのとき、「市之瀬くーん」という、この場にそぐわない甘い声が響いた。

 藤棚の下にいる住友が、立ち上がって大きく手を振っている。

 まだいたのか。


「ほんと、ムカつくよな」


 健吾がそう言って、俺の背中を肘で強く押した。

 住友が笑いながら手招きしている。横を見ると、ショートを守っていた──最後の打球に追いつけなかった浜野が、仏頂面をして俺を見ている。

 しかたなく、俺は住友のほうへ歩いていった。


「今日は、本当にありがとう。おかげですっきりしちゃった」


 住友は満足そうな笑顔を浮かべていた。少しほっとする。


「ヤな女だと思ったでしょ?」


 そう言って、住友は俺に歩みよる。俺は「別に」と答えながら、一歩下がる。


「だってさ。もう、今までの関係にはもどれないんだもん。仲のいい幼なじみのままだったら、ずっと一緒にいられたかもしれないけど。もう、無理だから、絶対。だから、これくらい、許されるよね?」


 そんなこと、俺に聞かれても困る。


「それでね」


 一瞬だけ目をふせたあと、住友はねだるような視線を俺に送る。


「もうちょっとだけ、続けてくれない? 仲がいいふり」


 意味がわからない。不吉な予感にとらわれながら、俺は一応聞いてみる。


「もうちょっとって、どのくらい?」

「そうだなあ……クリスマスまで、くらい?」


 長すぎるだろ!

 絶句している俺を見て、住友はくすくす笑いながら「冗談」と言った。俺がかぶっている野球帽を手に取って、自分の頭に乗せる。それ、けっこう汗臭いと思うけど。


「ふりじゃなくて、本当に仲よくするのだったら、いい?」

「……は?」

「これから、よろしく」


 野球帽を俺の頭にもどし、ぐいっとつばを下げて俺の視線をさえぎる。


「じゃあ、また二学期にね」


 俺が帽子をかぶりなおして前を見たときには、住友はもう俺に背を向けて走り去っていた。

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