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「イチノセ――のあと、なんて読むんだ、それ」
数学のプリントに名前を書きこんでいると、前方から声がした。
顔を上げると、日焼けした真っ黒な顔に並ぶ大きな目が、ぎょろりと上から俺を見下ろしている。相手の肩の位置は、俺よりずっと高い。
「なんて読むんだ?」
俺の前の席に座る坊主頭の巨大な男は、俺のプリントをのぞきこんで同じ台詞をくり返す。
「郁」
再びプリントに目を落として、俺はわざと投げやりに答えた。
「ふーん。女みたいな名前だな」
言い捨てると、興味を失ったように前を向く。広い背中に視界を遮られる。
なんだ、こいつ。
雛条第一中学に通うようになって、まだ二週間しかたっていない。席は出席番号順で、俺は前から二番目。一番は目の前にいるこいつ──クラスでいちばん背の高い、有村健吾。
入学式の日、出席番号順に並ばされた瞬間から、最悪だと思った。
これから一年間も、このばかでかい丸刈り男の後ろに並ばされるのかと思うと、気が滅入る。おまけに教室の席に着いたら、ぬりかべみたいな有村の背中で黒板は見えないし。
俺はふてくされたように横を向いて、窓の外を見た。線路沿いの桜並木はすっかり花を落として、春の陽光の下で緑の葉を茂らせている。
雛条第一中学は、雛条駅から徒歩十分の線路沿いにある。一年と二年の教室はその線路に面していて、窓を開け放っていると、電車が通るたびに教師の声がかき消される。
「そうだ、市之瀬」
黒板に向かっていた数学の教師が、いきなり俺をふりむいて言った。
「放課後、職員室に来い」
教室中の目が、一斉にこちらを向いた。
一瞬、何かしたか? と考える。数学の担当は青木という若い男性教師で、隣のクラスの担任だった。呼び出しを受ける心当たりはまったくない。
前の席の有村が、肩越しにちらっとこちらを見て、小さく舌打ちした。
なんなんだ、こいつ。
放課後、職員室に青木を訪ねていくと、青木は授業中とはまったく違う豪快な笑顔を見せて、「おー、来たか!」と大げさに両手を広げて出迎えた。
「おまえ、陸上部に入らないか?」
いきなり、顔を輝かせて言う。
「昨日の五十メートルのタイムな、あれ県内でもトップクラスだぞ。まあ、手動計測だし、百メートルで測ってみないとわからんけどな」
昨日というのは、全校で行われたスポーツテストのことだ。青木は陸上部の顧問で、たまたま昨日のスポーツテストのとき、俺が走るのを見ていたらしい。
「あー、すみません。俺、クラブに入る気はないです」
走るのは好きだけど、毎日練習なんて、そんなめんどくさいことやってられるか。
「おまえなあ。こんなことできるのは今だけなんだぞ。大人になったら、やりたくてもできないんだからな」
いやいや、大人になってもやりたくないし。
「学校で勉強だけして帰るなんて、つまらないだろ? 大会に出て、新記録なんか出してみろ、一生自慢できるぞ」
青木は意外としつこくて、それから一時間近くも、説経だか勧誘だかよくわからない話を延々と聞かされた。
とりあえずこの場を逃れるために「考えてみます」と言っておいた。どうにか会話を切り上げて職員室から脱出しようとすると、「あー、それから」と呼び止められる。
「おまえの髪、それ脱色か? パーマか?」
「地毛です」
俺はよろめきながら職員室を出た。廊下でぐったりしていると、肩を叩かれる。
ふり返ると、ジャージ姿の熊井梨都子が立っていた。そういえば、熊井は即行で陸上部に入ったんだった。
「話、終わった?」
どうやら、顧問の青木に用があって、ずっと待っていたらしい。
「ああ……まあ」
「市之瀬も、陸上部に入るの?」
「入らねえよ」
「なんで?」
「めんどくさい」
あははは、と熊井は大きな声で笑って、「だろうねー」と言った。
「まあいいや。市之瀬との勝負は体育祭までおあずけってことで。でも、もう追いつけないかな。悔しいけど」
俺は呆れた。まだこだわっていたのか。
「おまえ、本当に負けず嫌いだな」
熊井はむっとして、「市之瀬だって勝ちたいでしょ?」と反撃した。
「去年のリレー。二位だったとき、ほんとは悔しかったんじゃないの? 紗月ちゃんがいなくなって、残念だったね。負けなしの無敵コンビだったのに」
加島の名前が出たとたん、俺は何も言えなくなってしまう。
「そういえばこの前、紗月ちゃんから手紙が来てさ。紗月ちゃん、陸上部じゃなくて美術部に入ったんだって」
やっぱり、俺は黙っている。
「紗月ちゃんが陸上部に入ったらさ、全国大会の決勝で再会するっていう超ドラマチックな展開もありえたのにさー。残念」
俺は唖然として熊井を見上げた。そんなこと、考えつきもしなかった。
俺が返事をしないのを無視されたと勘違いしたのか、熊井は不機嫌な顔つきになって俺を見下ろし、「ま、好きにすれば」と言い残して職員室に入っていった。
本心では、熊井からもっと加島の情報を聞き出したいと思っていたのに、結局大したことは聞けずじまいだった。
加島は元気でやっているのだろうか。
陸上部ではなく美術部に入った、というのは納得できる。加島は絵を描くのが本当に好きそうだったから。でも、走るのも好きだと言ってたっけ。
「私、あんまり勝ちたいとは思わないんだけど、先頭を走るのって、気持ちいいね。風を追い越していく感じが、すごく好き」
五年のとき、リレーの練習をしている最中にめずらしく加島から話しかけてきて、そんなことを言った。いつもの、あの静かなやさしい声で。
そうなんだよな。
記録とか、勝ち負けとか、そういうんじゃない。
足が地面を蹴る、ただそれだけの単純な動きなのに、別の生き物になるような、あの感じ。
たったひとりで、風の先頭を切って走るときの、あの静かな感じ。
それが気持ちいいという、ただそれだけなんだ。きっと、加島も、俺も。
あいつ、今どうしているんだろう。
中学で、うまくやっていけてるんだろうか。
ぼんやりと考えごとをしながら教室にカバンを取りにもどり、そのまま校舎を出た。グラウンドではサッカー部やハンドボール部や野球部が、練習に励んでいた。
野球部の部員が数人、外野で球拾いをしていた。みんな体が小さいので、新入生だとすぐにわかる。だがその中に、あきらかに新入生らしくない、ばかでかい体の部員がひとりいる。
有村健吾だった。
有村も、俺が気づくのと同時に、こちらに気づいたようだ。
ふん、という声が聞こえてきそうなくらい、わざとらしい目のそらし方をする。
なんなんだ。
そのとき、急に昨日の記憶がよみがえった。
スポーツテストの五十メートル走は、出席番号順にふたりひと組で走った。つまり、俺と有村は同じ組で走ったわけで。そして結果は──。
「おまえ野球部だろ。市之瀬に勝つのは無理だとしても、せめてもうちょっと速く走れるようにならないと、レギュラーになれないぞ」
「いいんスよ。俺、キャッチャー志望なんで」
後ろで担任教師に憤然と言い返していたのは──有村の声、だったような気がする。
一か月が過ぎた。まだ、席替えはない。
中学に入って初めてのテスト──中間試験が終わって、今日は球技大会。めまぐるしいほどつぎつぎと行事がやってくる。
種目は、男子がバスケットボール、女子はソフトボールだった。チーム分けはホームルームにくじ引きで決めたのだが、最悪なことに俺は有村と同じチームになってしまった。
ついてない。ほかの三人も、やる気のなさそうな連中ばかり。俺もだけど。
一回戦の試合が始まる直前、有村がさりげなく俺の隣に立つ。
「青木の誘い、断ったんだって?」
なんのことかと思ったら、例の陸上部への勧誘のことらしい。
「超感じわりィな、おまえ」
吐き捨てるように言うと、さっと俺から離れてコートに向かう。
有村に嫌われているらしいことはわかっていたけれど、はっきり言われたの初めてだ。
なんか、腹が立ってきた。
試合が始まった。
ボールは味方の手に渡っていた。まるまると太って人の良さそうな顔をしたそいつは、両手でボールを持ったまま、ぼんやりしている。あっという間に、相手チームにボールを奪われてしまう。
試合開始から一分もたたないうちに、あっさりシュートを決められてしまった。
「こらあ、市之瀬!」
ひときわ大きな甲高い声が、体育館に響きわたった。
声のした方向を見ると、コートの周りに集まっている見学者の中に、熊井がいた。前列でひとりだけ頭が飛び出しているから、すぐにわかる。
「真面目にやりなさいよ!」
恥ずかしいことを大声で叫ぶな、と俺は目で訴える。
でも、もしかしたら。
熊井が加島に出す手紙の中に、今日のことを書くかもしれない──そう考えて、俺は即座に気持ちを入れ替えた。不純な動機だけど、男ががんばる理由なんてそんなもんだ。
俺はボールの行方を追い、同時に、味方の位置を確認する。右にひとり、前にふたり。有村は?
相手ゴールの下で、大仏みたいに涼しい面をして立っている有村が見えた。
俺に協力する気はさらさらない、ということか。勝手にしろ。
俺はボールを奪い、一気にゴールを攻める。ゴール前のディフェンスは固くて、なかなか抜けない。
ゴール前に来ると、相手チームのディフェンスは夕暮れの影法師みたいにでかく見える。味方もゴールも見えない。頭から押さえこまれるような感覚。
何度もボールを奪って攻めながらも、ゴール前で立ち往生してしまう。ディフェンスに囲まれたまま無理やり打ったシュートは、的はずれな方向に飛んでいく。
攻めているのはこっちのはずなのに、相手はやすやすとこちらのディフェンスを潜り抜けてシュートを決める。三本も決められた。こっちはゼロ。
俺は再びボールを奪い、相手コートに攻めこむ。味方のふたりがついてくる。いつでもパスしてこい、という態勢。だがやはり、ゴール前にきてディフェンスに阻まれる。
目の前に立ちはだかる敵は、ひとりだった。残りの四人は? ひとりはコートの中央、残りの三人はすでにこちらのゴール下に向かっている。
なるほど。
俺にシュートは決められない、と。
覆いかぶさるような人の影。長い腕がコースを遮る。ゴールは見えない。どこにも投げられない。
「市之瀬!」
その声を聞いたとたん、体が勝手に反応していた。
ディフェンスの上からゴールを狙おうとして背伸びをしていた俺は、瞬間的に身を縮めた。
視界が開いた。
坊主頭が見える。ばかでかい体をコートの床に押しつけるように屈めて、両手を広げているのが見える。誰もいない。
鋭いバウンドパスを投げた。有村がキャッチしたのが見えた。そこからたった三歩で、有村はやすやすとゴール下に入ってしまう。
邪魔する者は誰もいなかった。俺にくっついていた相手チームのディフェンスが、ようやく有村の存在に気づいて、そちらへ走り出したところだった。遅い。
有村のシュートはきれいに決まった。悔しいが、完璧なシュートだった。
直後、有村と目が合った。一瞬、白い歯が見えたような気がしたが、気のせいだろう。自分も笑っていたような気がするが、これもたぶん気のせい。
それから後は、俺たちの独壇場だった。
有村の行動が、手にとるようによくわかった。声をかける必要すらなかった。俺がいてほしい場所に、あいつは必ずいる。そして俺からのパスを、あいつは一度も取り損なったことがない。
自分がもうひとりいるような、そんな不思議な感覚。
俺たちのコンビネーションはみごとに冴えわたり、試合の行方は逆転した。
気持ちがよかった。こんなことは、初めてだ。
その後、俺たちのチームは準決勝で負けてしまったのだが、俺と有村の活躍はたった一日で全校に知れわたることとなり、翌日にはふたりともバスケ部の顧問に勧誘されるはめになった。
その日を境に、俺と有村はなんとなく一緒にいることが多くなった。




