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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第4章 もう二度と会えない
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 * * *


 六年の一学期の終わり頃、夏休みにクラスで澪入山に登ろうという話が持ち上がった。

 参加するのは、先生を含む大人が六人と、クラスの生徒ほぼ全員。


 俺は登山なんてどうでもよかったから適当に理由をつけて欠席するつもりだったけれど、加島が参加するとわかったので行くことにした。

 俺と加島を含めて、クラスの半分以上が澪入山に一度も登ったことがないとわかると、汐崎は「雛条市民として一度は登るべきだ」と息巻いた。


 ところが当日の朝、加島は現れなかった。

 がっくりきた。

 加島がいないんじゃ、参加した意味がない。


 登山道の入り口は、澪入山のふもとにある雛条神社だった。

 俺たちは二列になって、そこから澪入山の頂上へと続く代表的な登山コースを登り始めた。下のほうの道はなだらかで、きちんと整備されているので歩きやすい。


 森の中には、ふだん目にしないものがたくさんあふれている。

 学校の校庭や公園に生えている木は、たいていまっすぐに立っているけれど、森の木は斜めだったり、曲がっていたり、折れていたり、ときには寝そべっていたりする。


 ふわふわの緑の苔が、木の幹や地面を覆っている。

 枝と同じくらい太い根っこがもりもりと土の上に出ていて、歩きづらい。

 魚の骨みたいな形をした草──シダ植物というらしい──がたくさん生えている。

 誰もいないのに、草むらでかさこそと音がする。

 蝉が鳴いているのに、うるさいと感じない。


 山の道は、頂上へ近づくにつれて、だんだん細く険しくなっていった。

 小川にかかる粗末な板を渡しただけの橋を渡り、大きな岩のすきまを通りぬけ、上へ上へと続く丸太階段の急斜面をひたすら登り続ける。


 頂上にたどりついたときには、汗まみれになっていた。

 山頂は小さな広場になっていた。

 はるか下に、ミニチュアの町が広がっている。地平線の近くに、たくさんの高層ビルが立ち並んでいるのが、白くかすんで見えた。


「あれは上滝の市街地だよ」


 俺の後ろで、汐崎が指をさしながらみんなに説明している。いつもより声が高い。


「ここは澪入城の本丸があったところなんだ。下のほうに石垣が残っていて……」


 全員が頂上にたどりついたことを先生が確認して、弁当タイムになった。

 俺は汐崎の後を追った。汐崎は見晴らしのいい場所で、リュックから弁当箱を取り出そうとしていたところだった。

 まわりに大人の姿がないことを確かめて、声をかける。


「おまえ、伝説のクスノキを見たことがあるって言ってたよな」

「あるけど」


 弁当タイムを邪魔されて、汐崎は明らかに不満げな顔つきをした。


「連れてってくれ」

「えっ」


 ますます顔をしかめる。


「ここからだと、けっこう遠いんだけど」

「いいから」

「でも、それじゃあ弁当を食べる時間がなくなる」


 周りでは、既にみんな弁当を食べ始めている。


「じゃあ、行き方を教えてくれ」

「ひとりで行くつもり?」

「見たいんだよ。どうしても」


 汐崎は急に黙りこむと、何か不気味なものでも見るような目で俺をじっと見た。そして「わかったよ」と、あきらめたようにリュックを背負い直して立ち上がる。


「じゃあ、先生に相談してくるから……」


 生真面目に先生たちのところへ行こうとする汐崎を、俺はやつのリュックをつかんで阻止した。


「言ったら反対されるに決まってんだろ」

「でも勝手な行動は……」

「集合時間までにもどってくればいい」


 汐崎は嫌そうな顔をしたが、しぶしぶ俺に従った。

 ほかのクラスメイトや大人たちに見つからないように、俺と汐崎は弁当を食べる場所を探すふりをして、そっとその場を離れた。




 山頂からクスノキのある場所までは、三十分近くかかった。

 登山道を下りて、途中にある分かれ道を、さっき登ってきた道とは違う小さな道のほうへ進む。


 山頂をめざす登山道のほうでは、山登りをする年配の人と会うことも多かったのに、この道では誰にも会わなかった。

 道はさらに山の奥深くへ入っていく。

 腰の高さまである笹を、かきわけるようにして先へ進む。草と木と土の匂いが濃くなって、静けさが深まる。どこからか、水の流れる音が聞こえてきた。空気が冷たい。

 道が途切れて、広い場所に出る。


「ほら。あれだよ」


 そう言って汐崎が指をさした方向に、巨大なクスノキが見えた。

 まわりの木とは全然違う。

 ひとりではとうてい抱きかかえられない太い幹。苔の生えた根は、地上に盛り上がって小高い丘のようになっている。枝はうねるように自由に空に伸びている。

 梢の間からさしこむ明るい光が、枝や幹にまだら模様を作っていた。


「神々しい感じがするだろ」


 見上げながら、汐崎が言った。

 神々しい──なんて言葉を、一生のうちで、それも日常会話で、使うことがあるとは思いもしなかった。

 だけど、確かに“神々しい”という気がする。

 遠いところから来た人と会うような、そんな感覚。


 俺はクスノキに近づいて、幹にふれてみた。ごつごつしている。

 伝説では、ふたつの新芽が成長して、やがて一本の幹になったと言っているけれど、どこにも継ぎ目らしいものは見当たらなかった。

 風が吹くと、高いところの枝が大きく揺れて、サアッと雨が降るような音が降ってきた。クスノキの葉がところどころ陽射しを反射して、キラキラ光る。


 加島に見せてやりたいなあ、と思った。

 ここに加島がいないことが、残念だった。


 幹の後ろ側に回ってみると、さっきは気づかなかったけれど、さらに道が続いていた。ほとんど道とは呼べないほどの、細い通り道。

 どこに続いているんだろう。

 道の先は、ゆるやかな下り坂になっている。


「九百年も前から生きてるなんて、信じられないよなあ」


 クスノキの向こう側で、汐崎がひとりごとを言うのが聞こえた。

 俺は道の先へ踏みこんだ。人ひとり通るのがやっという細い道だった。うっそうと茂る草木をかきわけて歩く。背後で汐崎が呼ぶ声が聞こえたが、ふり返らずに進んだ。


 雑草の勢いはすさまじかった。行く手をはばまれ、いよいよここまでかと思ったとき、突然目の前にありえないものが現れた。

 緑色の金網でできたフェンスだった。

 なんだ、これ。


 俺は金網にへばりついて、その向こうをのぞきこんだ。

 フェンスのすぐ向こうは、芝生の広場になっていた。

 広場の先に、学校の校舎らしき建物が見える。

 体育館と、グラウンドもある。

 運動部が練習をしているらしく、男子生徒の太いかけ声が、広い空に響いて聞こえてくる。


 こんなところに学校があったのか。

 金網のフェンスは、学校の敷地をぐるりと囲むように設置されていて、中に入ることは不可能だった。

 しかたなく、俺は道を引き返すことにした。クスノキのある場所までもどってくると、汐崎がカンカンになって怒っていた。


「ひとりで勝手に行くなよ! 山で遭難したら大変なことになるんだぞ!」

「あーうん。悪かった」


 あまりの剣幕に思わず謝ったが、汐崎はさらに声を荒げた。


「早くもどらないとやばいぞ。集合時間、とっくに過ぎてる。先生たち、絶対に心配してる」


 案の定、俺たちが山頂の広場にもどると、大人たちが大騒ぎしていた。どこに行っていたんだと質問攻めにあい、俺と汐崎はこっぴどく叱られた。




 夏休みが終わって、二学期が始まった。

 朝、教室でいくら待っても、加島は登校してこなかった。


 始業式が始まる前、担任の先生が「とても残念なお知らせがあります」と言った。

 加島は転校したと言う。

 みんな、黙っていた。

 俺も、何も言わなかった。

 熊井だけが、教室の隅で小さく「えっ」と声をあげた。

 窓の外はまぶしいほど明るくて、九月になってもまだ夏は続いているようだった。


 教室の雰囲気は、加島がいなくなってもさほど変わらなかった。

 十月が来て、十一月が来て、十二月が来て。運動会も遠足もクリスマスも、いつもと同じように過ぎていった。ただ、加島だけがいなかった。


 この教室で、もう加島に会えないことを──あの静かなやさしい声を聞けないことを、俺は毎日少しずつ実感した。そして、小学校を卒業した。


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