第95話
半年という歳月が流れた。
世界は、熱病のような『ダンジョン・エイジ』への期待と、その実現に向けた地獄のような調整作業という、奇妙な二重生活を送っていた。
日本の『超党派・ダンジョン税制特別調査会』は、その象徴だった。連日連夜、国会の片隅で繰り広げられる、不毛な、しかしこの国の未来にとって決定的に重要な議論。才能ある若者の挑戦を促すための【B案:特例措置】が、自由と成長を求める世論に後押しされて優勢ではあった。だが、法の下の平等を掲げる【A案:原則維持】派も、財政規律を重んじる官僚や、格差の固定化を憂うリベラル層からの根強い支持を背景に、一歩も引く構えを見せない。結論は、まだ見えなかった。
それはまるで縮図だった。世界中が、同じような混乱と期待、そして嫉妬の渦の中で、一年後のXデーに向けて、ただひたすらに走り続けていた。
その日、四つの首都を結ぶ最高機密のバーチャル会議室に、世界の頂点に立つ男たちが、再び顔を揃えていた。
彼らは、もはや単なる国家元首ではない。神が不在の地球支社を、なんとか切り盛りしようと必死な、四人の支店長だった。
「――では、第十回・四カ国定例首脳会議を始めます」
議長役である日本の九条官房長官が、感情の温度を一切感じさせない声で、開会を宣言した。彼の四つの身体は、この会議を運営しながら、同時に国内のゲート構想、アステルガルドとの外交、そしてインドとの終わりの見えない交渉を、完璧に処理し続けている。
「ふぅ……。皆様、ご苦労さまです。まず、ダンジョン法の整備に関する議論ですが、各国進捗はいかがですかな」
沢村総理が、まるで町内会の会合でも始めるかのように、疲弊しきった声で切り出した。
「我が国はご覧の有様です。議論は一段落どころか、むしろ泥沼化しております」
その言葉に、アメリカのトンプソン大統領が、深く深く頷いた。
「我が国も同様だ、総理。自由と平等の国アメリカで、公平なルールを作ることが、これほどまでに困難だとはな……」
だが、その二国の苦悩を、北京の王将軍とモスクワのヴォルコフ将軍は、どこか冷めた目で見つめていた。彼らの国では「議論」などという非効率なプロセスは、とうの昔に「指導」によって最適化されている。
「それよりも」 と沢村は話題を変えた。
「ゲート構想の方は、幸いにも予定通り進んでおります。このままいけば、ダンジョン実装の半年前――つまり今から半年後には、日米両国で第一次ネットワークの同時開設が可能になるかもしれません」
「出来たら嬉しいですね」 とトンプソンも同意した。
「そうなれば、ダンジョンが出現した際の、探索者の広域移動も、格段にスムーズになる」
その日米間の和やかな空気に、待ってましたとばかりに王将軍が口を挟んだ。
「ほう。それは素晴らしい。では、あなた方のゲートが完成したら、いよいよ我々中国とロシアの番ですな?」
「あー……」 沢村が言葉に詰まる。
「ええ、まあそうですが、まずは我々のシステムが完全に安定稼働するまで、今しばらくお待ちいただきたいと……」
「分かりました」 とヴォルコフは、あっさりと引き下がった。
「しかし、準備だけは続けさせていただきますぞ。我々はあなた方のように、事が起きてから慌てるような非効率なことは好みませんのでな」
その穏やかな、しかし棘のある牽制。四人の男たちの奇妙な共犯関係と、その水面下で続くパワーゲーム。
その、あまりにも人間臭く、そして不毛なやり取りの真っ只中に、それはいつものように、唐突に、そして悪びれもなく割り込んできた。
円卓の中央、ホログラムの地球儀のすぐ隣に、ゴシック・ロリタ姿の少女が、退屈そうな顔でポップアップした。手には、日本のコンビニで買ったばかりと思しきポテトチップスの袋。それを、ばりばりと、実に美味しそうに食べている。
「あっ、そう言えば」
KAMIは、まるで今思い出したかのように、軽い口調で言った。
「そろそろ、ダンジョンの試験設置したいのよ」
その一言で、会議室の空気が完全に変わった。四人の支店長たちの背筋が、一斉に伸びる。――オーナーの鶴の一声だ。
「半年後の本番稼働の前に、システムの最終チェックと負荷テストをしておきたくってね。だから、お試しでどこかの国の軍人にでも潜らせましょうか」
彼女は、ポテトチップスのかけらを指でつまみながら続けた。
「ついでに、スタートダッシュ用に、ある程度装備とかアイテムを集めておく必要もあるでしょうし。民間への解放は半年後として、その前にあなたたちの兵隊に先行投資させてあげるわ。どう?」
その、あまりにも魅力的で、そしてあまりにも理不尽な提案。
それは、この軍拡競争に出遅れることを何よりも恐れていた四カ国にとって、まさに天啓だった。
「素晴らしい!」
最初に叫んだのは、トンプソンだった。
「ぜひ、我が合衆国軍に、その栄誉ある最初の任務を!」
「いや、お待ちいただきたい!」 と王将軍も続く。
「地理的優位性を考えれば、まず我が人民解放軍が……!」
その、見苦しいまでの先陣争い。KAMIは、心底うんざりしたという顔で、その手を振った。
「はいはい、分かった分かった。もう面倒だから、四カ国同時にやればいいじゃない」
彼女は、ポテトチップスの袋を空にすると、そのゴミを九条の目の前の空間にぽいと捨てた。九条の分身の一人が、それを何の感情も見せずに、すっと回収する。
「じゃあ、あとで、それぞれの国にダンジョンが出現する座標のリストを送っておくから。よろしくー」
彼女は、もう用事は済んだとばかりに立ち上がった。
「あ、私はこれからVRで建てた城の内覧会があるから、この辺で退席するわー。じゃあね」
その言葉を残して、KAMIは来た時と同じように、ふっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして神から与えられた、あまりにも巨大なアドバンテージを前に、興奮を隠しきれない四人の男たちだけだった。
「……では、そういうことだ」
トンプソンが、にやりと笑った。
「我が国は、ネバダの『アークエンジェル』部隊を即時投入する。日本の自衛隊はどうするのかね? 総理」
「当然、我が国もです」 と沢村も力強く答えた。
「直ちに、つくばの『月読』の精鋭たちと、陸上自衛隊の特殊作戦群による、合同の選抜部隊を編成いたします」
「……一つ、確認したい」
ヴォルコフが、冷静に、そして最も重要な問いを口にした。
「諸君。銃は効くのか?」
その問いに、会議室は一瞬静まり返った。KAMIはもういない。仕様について確認する術はない。
「……分かりません」 と九条が答えた。
「ですが、こういう時は最悪を想定すべきです。効かない、という前提で作戦を立案すべきかと」
「よかろう」
三国の代表が、同時に頷いた。
「では皆様、最終確認といたします」
九条が、この歴史的な密約を、冷徹な言葉で締めくくった。
「これより我々四カ国は、それぞれの軍隊にダンジョンへの先行アクセス権を与える。そこで得られた資源と情報は、当面、我々四カ国で独占する。民間からの苦情や、他国からの抗議は、一切聞き入れない。……皆様、これでよろしいですな?」
誰も異論は唱えなかった。神の不在のまま、人間たちは自らの手で、世界で最も不平等な、そして最も有利なルールを作り上げたのだ。
「では、解散」
バーチャル会議室が閉鎖された。官邸の執務室に、再び静寂が戻る。
だが、その静寂は、もはや諦観の色を帯びてはいなかった。
沢村は椅子から立ち上がった。その目には、久しぶりに闘志の炎が燃え上がっていた。
「よし! 九条君! 直ちに防衛大臣と、つくばの研究所長を官邸に呼んでくれ! 日本初の『ダンジョン攻略部隊』の編成会議を始めるぞ!」
その力強い声に、九条の四つの身体が、完璧な連携で一斉に動き始めた。
だが、九条の本体だけは立ち止まったまま、主君に最後の、そして最も重要な問いを投げかけた。
「総理。この軍の先行実装、国民にはどう説明いたしますか? いずれ必ず露見しますぞ」
その問いに、沢村は悪戯っぽく、そしてこの狂った世界の王として、不敵に笑った。
「……九条君。君の出番じゃないか」
「……と申されますと?」
「マスコミにリークするのだよ」
沢村は、窓の外の平和な東京の夜景を見下ろした。
「『政府、国民の安全を確保するため、ダンジョン実装に先駆け、自衛隊による命がけの先行調査を極秘裏に開始』……とね。どうだ? 国民は、我々の英断を称賛してくれるのではないかな」
その、あまりにも狡猾で、そしてあまりにも巧みな情報操作。
九条は数秒間黙っていたが、やがてその鉄仮面のような表情を、わずかに――本当にわずかに――綻ばせた。
それは、彼の主君が、この地獄のような世界で、自分と同じ「悪魔の思考法」を身につけたことへの、畏敬の念の現れだったのかもしれない。
「……御意。直ちに手配いたします」
九条は深く深く頭を下げた。
神の不在のまま、人間たちは自らの手で、自らの物語を紡ぎ始めた。
それは、時に狡猾で、時に醜く、しかし、どこまでも人間らしい「生存」のための物語だった。




