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賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい  作者: パラレル・ゲーマー


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第93話

 深夜のオーバルオフィスは、墓場のような静寂に支配されていた。

 壁一面に並ぶ歴代大統領の肖像画だけが、その沈黙の中で合衆国大統領ジョン・トンプソンの孤独な姿を、値踏みするように見つめている。リンカーンも、ルーズベルトも、ケネディも、彼らがその生涯で直面したいかなる危機も、今トンプソンがこの手の中に抱えている混沌の前では、まるで子供の喧嘩のように思えるだろう。


 手の中のグラスで、上質なケンタッキーバーボンが静かに揺れている。窓ガラスに映るのは、疲れ果てた一人の初老の男の姿。合衆国大統領という、かつては世界で最も力を持つとされた称号は、今や人類史上最も困難で、そして最も割に合わない中間管理職の役職名に過ぎなかった。


 頭が痛い。こめかみの奥で鈍い痛みが、絶え間なく脈打っている。神の恩恵によって眠らない身体を手に入れた日本の沢村総理が、心底羨ましかった。トンプソンの身体はただの人間であり、この数ヶ月、安らかな睡眠など一度たりとも取れた試しはなかった。


 KAMIが『ダンジョン』という、あまりにも甘美で、そしてあまりにも猛毒な果実を世界に提示してから、まだ数ヶ月。一年後には、この国のどこかに、その異世界への入り口が開くのだという。だが、我が国はその一年を待たずして、内側から弾け飛びそうになっていた。日本が「調整と合意形成」という名の、粘着質で終わりの見えない泥沼の地獄に陥っているのだとすれば、我がアメリカ合衆国はもっと乾いた、そしてもっと暴力的な地獄の業火に、その身を焼かれている。「自由」と「資本主義」と「訴訟」という名の、三つの業火に。


 大統領を辞めたくなってきた。トンプソンは、心の底からそう思った。


 全ての始まりは、一本の電話だった。


「大統領。全米ライフル協会(NRA)が緊急声明を発表しました。『ダンジョン探索の権利は、憲法修正第2条が保障する武装する権利の現代における正当な延長線上にある』と。彼らは新組織『全-米探索者協会(AEA)』の設立を宣言し、政府によるいかなる規制にも断固として反対すると…」


 国家安全保障担当補佐官のその報告を聞いた瞬間、トンプソンは目の前が暗くなるのを感じた。銃規制という、この国が建国以来抱え続ける不治の病。その悪夢が、今度はダンジョンという新しい舞台の上で、より醜悪な形で再演されようとしていたのだ。


「馬鹿な!」と彼は叫んだ。「まだ存在しないものを巡って、権利を主張するというのか!」


「その通りです、大統領。そして彼らは既に動き出しています」


 “動き出している”――その言葉の意味を、彼は翌日、思い知らされることになった。連邦政府を相手取った第一号の訴訟。原告は、テキサス州の広大な土地を持つ石油王でもある牧場主だった。訴状の内容は、トンプソンの想像力を遥かに超えていた。


『KAMIが提示した並行世界のデータによれば、我が所有する土地の地下深くに、高ランクのダンジョンが出現する可能性がある。これはテキサス州法が保障する我が土地の“地下資源採掘権”を、連邦政府が不当に侵害するものである。ダンジョン内で産出されるであろう魔石や希少金属の所有権は、土地の所有者である我にこそ帰属する。連邦政府による一方的な管理計画は財産権の侵害であり、断固として認められない。ダンジョンから得られるであろう未来永劫の利益に対する、天文学的な額の補償金を要求する』


 それは、悪夢の始まりに過ぎなかった。訴状は雪崩のようにホワイトハウスに殺到した。環境保護団体は「ダンジョン出現による既存の生態系への影響評価が不十分である」として、「ダンジョン設置差し止め」を求める訴訟を、全米五十州の連邦地方裁判所で同時に起こした。ACLU(アメリカ自由人権協会)は「政府が計画している“探索者ライセンス”は、思想信条や過去の経歴によって国民を選別する差別的な制度であり違憲だ」として政府を提訴。果ては「ダンジョンから出現するモンスターにも“生物としての権利”を認めるべきだ」と主張する過激な動物愛護団体まで現れ、訴訟のカーニバルは混沌の極みに達した。


 トンプソンは司法省長官を執務室に呼びつけた。

「何とかしろ! こんな馬鹿げた訴訟、全て棄却させろ!」


 だが、長官の答えは絶望的だった。

「大統領、無理です。ここはアメリカです。訴える権利は誰にでも平等に保障されている。そして、これらの訴訟の一つ一つに、我々は真摯に対応する義務がある。全てに決着がつくまでには…おそらく十年はかかるでしょう」


 十年。ダンジョンの出現まで、あと一年もないというのに。トンプソンは頭を抱えた。この国は、自らが作り上げた「法治」という名の完璧な檻の中で、身動きが取れなくなっていたのだ。安全確保のために規制を強めれば「自由の敵」と罵られ、規制を緩めれば「国民の安全を軽視している」と突き上げられる。議会、ロビー団体、そして司法。三方向からの板挟みの中で、法案一つ通すことさえままならない。彼は、自由の女神が掲げる松明が、自らの足元を焼き尽くす業火に見えた。





 法廷闘争が泥沼化する一方で、ウォール街は歴史上最も愚かで、最も熱狂的なバブルにその身を投じていた。まだ存在しないダンジョン。まだ採掘されていない魔石。まだ生まれてもいない探索者。その全てが、金融工学という名の現代の錬金術によって、兆ドル規模の金融商品へと姿を変えていた。


「大統領、ゴールドマン・サックスが新しい商品をローンチしました。『魔石先物連動型証券(M-STF)』。最低投資額は100万ドルから。既に注文が殺到している模様です」


 財務長官からの報告に、トンプソンはもはや眩暈さえ覚えた。ウォール街の天才たちは止まらない。「ダンジョン隣接予定地の不動産投資信託(D-REIT)」、「有望探索者候補へのエンジェル投資ファンド」、「モンスター素材のデリバティブ取引」。実体のない富が、光の速さで膨張していく。株価は連日史上最高値を更新し、メディアはトンプソンを「ダンジョン景気の父」と囃し立てた。だが彼は知っていた。これは景気などではない。巨大な、そして必ず破裂する運命にある 投機的な超新星爆発なのだと。


 その熱狂は、ワシントンのKストリート(ロビイスト街)をも飲み込んだ。

「大統領、ロッキード・マーティン社から次世代パワードスーツ『エクスカリバー』のコンセプトモデルに関するプレゼンテーションの申し入れが」

「AppleとGoogleが『公式探索者ライセンス・プラットフォーム』の独占契約を巡って、水面下で激しい政治献金合戦を繰り広げております」

「ファイザーが『ダンジョン由来の万能薬開発に関する独占的ライセンス』を求め、特許法の改正を要求してきました。見返りは次期大統領選挙への全面的な支援だと…」


 巨大資本からの献金と政治的圧力。どの企業の肩を持っても、他の巨大企業を敵に回すことになる。彼の政策決定は完全に麻痺した。だが、この狂ったバブルが自分の任期中にだけは弾けないでくれと、神に祈ることしかできなかった。皮肉なことに、その神こそがこの狂騒の元凶なのだが。


 そして、その歪んだ熱狂は、この国の未来そのものである子供たちの魂を、最も深く、そして最も静かに蝕んでいた。「CPS(戦闘能力評価スコア)」。民間企業が運営するその戦闘能力テストのスコアが、SATのスコアやスポーツの成績以上に、個人の価値を決定づける絶対的な指標となっていた。


 トンプソンは、週末にホワイトハウスを訪れた溺愛する孫娘の言葉を思い出していた。ハイスクールに通う16歳のエミリー。彼女は少しだけ俯きながら、こう言ったのだ。

「…グランパ。私、来週 Pro-Genex のテストを受けるの。もし私のスコアが低かったら…もし私が“ゼロ”だったら…。それでも、私のこと好きでいてくれる…?」


 ゼロ。低いCPSしか持たない生徒たちに付けられた、残酷なあだ名。トンプソンは胸が張り裂けるような思いで、孫娘を固く抱きしめた。

「当たり前じゃないか、ハニー。君は君だ。どんなスコアだって、君の価値は変わらない」


 だが、彼は知っていた。その言葉が、もはや何の慰めにもならない世界が始まってしまっていることを。


 学校は戦場と化していた。高いCPSを持つ生徒は「プライム」と呼ばれ、神格化に近い扱いを受ける。ナイキやアンダーアーマーが、まだ高校生の彼らに青田買いのスポンサー契約を持ちかける。逆に「ゼロ」と判定された生徒は「価値のない存在」という烙印を押され、陰湿ないじめの対象となる。アメリカの学校文化の象徴であったフットボール部は閑古鳥が鳴き、代わりに親たちは教育委員会に「アメフト部の予算を削って、VR戦闘シミュレーション室を作れ!」と凄まじい圧力をかけている。富裕層向けの「探索者アカデミー」が乱立し、高額な学費を払える者だけが最高の訓練を受けられる。教育機会の格差は、そのまま人生の格差へと直結し、社会の分断を決定的なものにしていた。


 そして何よりトンプソンを恐れさせたのは、「アプト・ジューシング」の蔓延だった。CPSを少しでも上げるため、科学的根拠のない高額なサプリメントや、闇市場で取引される危険な神経刺激薬に手を出す若者が続出しているというDEA(麻薬取締局)からの報告。彼は、孫娘のエミリーがその悪魔の誘惑に手を染めてしまわないかと、夜も眠れなかった。彼は、もはや一国の指導者としてではなく、ただ一人の祖父として、この国の狂った未来を心の底から憂いていた。


 そして、その全ての混沌をさらに絶望的なものにしていたのが、この国の国是ともいえる「州の権限ステイツ・ライツ」という名の美しい悪魔だった。


「大統領、テキサス州議会が『ダンジョン自由特区法案』を可決しました。連邦政府のいかなる規制にも従わず、独自の基準で探索者ライセンスを発行し、関連企業の法人税を免除すると」

「カリフォルニア州が対抗措置として『カリフォルニア・ダンジョン環境安全法』を制定。連邦基準を遥かに上回る厳しい安全規制を導入し、事実上、他州からの探索者の流入をブロックする構えです」

「フロリダ州知事が『我が州こそが新時代のゴールドラッシュの中心となる』と演説。世界中から探索者と投資を呼び込むため、大規模なインフラ整備計画を発表…」


 次々と舞い込んでくる報告に、トンプソンはもはや怒りを通り越して虚無感に包まれていた。アメリカ合衆国が、ダンジョンを巡って50の小さな“国”に分裂していく。連邦政府として統一された国家戦略を描くことなど、もはや不可能だった。彼は、もはや合衆国大統領ではなく、バラバラな諸侯をまとめることのできない無力な王と化していた。


 その夜、全ての執務を終えた(というより諦めた)トンプソンは、一人オーバルオフィスの椅子に深く身を沈めていた。手の中のバーボンは、もう空だった。彼は机の上のファーストレディの写真立てに、そっと手を伸ばした。

(…メアリー。君の言う通りだったのかもしれないな。私は大統領になるべき男ではなかったのかもしれない)


 彼は、ふと数週間前の四カ国会議での日本の沢村総理の、あの疲れ果てた顔を思い出していた。彼もまた、自分と同じ地獄の中にいる。だが、彼の国の地獄はどこまでもウェットで、人間的だった。「調整」と「合意形成」という、面倒だがしかしどこか人の温もりが残る地獄。それに比べて我が国の地獄はどうだ。どこまでもドライで、暴力的で、そして金と法律だけが支配する乾ききった地獄。どちらがよりマシなのだろうか。そんな答えの出ない問いが、彼の脳裏をよぎった。


 彼は執務室の机の引き出しの奥から、一枚の古い黄ばんだ便箋を取り出した。それは、彼がまだ若き日の上院議員だった頃、「もしもの時」のためにと書き記しておいた、大統領の辞任演説の草稿だった。震える指で、彼はその一枚の紙をただなぞった。

「……My fellow Americans...」

 私の親愛なるアメリカ国民の皆さん。


 その一言を呟いただけで、彼の目から熱いものが込み上げてきた。


 頭が痛い。本当に、大統領を辞めたくなってきた。そのあまりにも人間的な、そしてあまりにも無力な絶望だけが、世界の覇権国家の心臓部で静かに、そして深く夜の闇に溶けていく。一年後のダンジョン出現という祝祭を前に、アメリカ合衆国は、その内側から静かに、そして確実に崩壊の音を立て始めていた。

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― 新着の感想 ―
うはー めっちゃありそう 根回し間に合わないと恐ろしい事になる社会なんやな
辛い 辛すぎる 他作品で問答無用で出現するダンジョンはむしろありがたかったんですね
こういう時、日本人は比較的大人しいのが救いか EUとか更に阿鼻叫喚になってそうですが
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