第92話
その日、日本の政治の中枢・国会議事堂の一室は、この国の未来を設計するという、傲慢な、しかし避けては通れない試みのための、神なき神殿と化していた。
『超党派・ダンジョン税制特別調査会』第一回会合。
重厚なマホガニーの円卓を囲むのは、この国を動かすあらゆる勢力の代理人たちだった。与党からは、財務省の意向を強く受けた、財政タカ派の重鎮・渋沢。対する野党からは、格差是正を声高に叫ぶ若手の論客。経済界からは、規制緩和と成長戦略を訴える経団連の副会長。
そして「国民の声」を代表するという名目で、全国PTA連合会から選ばれた主婦や、現役の高校生までが、その歴史的なテーブルに着いていた。
部屋の空気は、期待と不安、そして剥き出しの利権が複雑に絡み合い、まるで嵐の前の静けさのように張り詰めていた。誰もが理解していた。自分たちが今から議論するのは単なる税法の一条文ではない、この国の子どもたちの未来の形そのものなのだと。
「――では、定刻となりましたので、ただ今より『超党派・ダンジョン税制特別調査会』第一回会合を開会いたします。」
議長を務めるのは、与野党双方からその公正さで信望の厚い、無所属のベテラン議員・大隈だった。彼は白髪を撫でつけながら、穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で議事を進行させた。
「皆様、お手元の資料の通り、本日の議題は、来るべき『ダンジョン・エイジ』における未成年探索者の所得に関する税制のあり方についてであります。政府および関係各所から提出された三つの案について、本日はまず、皆様の基本的なスタンスを確認させていただきたい。」
彼は端末を操作し、部屋の中央に三つの選択肢をホログラムで投影した。
【A案:原則維持】
現行法を維持し、年収123万円を超えた未成年は、例外なく扶養から外す。
【B案:特例措置】
探索者活動によって得られる所得に限り、非課税、あるいは大幅な控除を認める「探索者特例法」を新設する。
【C案:教育連携】
ダンジョン探索を「部活動」などと位置づけ、収益を学校や教育委員会が一括管理し、再分配する。
「ではまず、予備的なものですが、基本的な支持傾向を把握するため、挙手をお願いいたします。まず、A案を支持される方。」
財務省の渋沢を筆頭に、野党の一部、そして公平性を重んじる市民団体の代表たちが、重々しく手を挙げた。全体の三分の一、といったところか。
「次に、C案を支持される方。」
手を挙げたのは、文部科学省から来た官僚と教育関係者の数名のみ。その数はあまりにも少なかった。個人の冒険と成功を夢見る新しい時代の空気の中で、その、あまりにも全体主義的な考え方は多くの支持を得られなかったのだ。
「……では最後に、B案を支持される方。」
その瞬間、部屋の空気は変わった。経団連の副会長、若手のIT起業家、そして何よりも、この議論の当事者である高校生の代表たちが、待ってましたとばかりに力強く手を挙げる。数は明らかに過半数を超えていた。
「……ふむ。なるほど。大方の民意は、特例措置を求める方向にあるということですな。」
大隈は、その結果を静かに受け止めた。
「では、そのB案を基軸に議論を始めましょう。経産省派の園田議員、どうぞ。」
指名された園田は、待ってましたとばかりに立ち上がった。彼は、この国の未来を担うという自負に満ちた、エネルギッシュな若手議員だった。
「皆様! 我々は歴史の岐路に立っています! 我が国が来るべきダンジョン・エイジにおいて、世界の覇権を握る『ダンジョン先進国』となるか、それとも旧時代のルールに縛られ、三流国へと転落するか、なのです!」
彼の声に熱がこもる。
「才能ある若者たちが、税金という些末な問題を気にして、その挑戦を躊躇する。そんな国に未来はありません! 探索者はアスリートやアーティストと同じです! いや、それ以上に、国家の未来を切り拓く宝なのです! その彼らに最大限のインセンティブを与え、才能を存分に開花させる環境を整える――それこそが政治の役割ではありませんか! B案は譲れません! これは、この国の成長戦略そのものなのです!」
その、あまりにも力強く、そして魅力的な演説。
だが、その熱狂に冷や水を浴びせるように、財務省の渋沢が、氷のように冷たい声で反論した。
「園田議員。あなたの仰る『成長戦略』とは、要するに一部の才能ある若者だけを優遇し、その他大多数の、地道にアルバイトで働く若者たちとの間に、新たな不公平を生み出すということと同義ですな。」
彼女は、氷の刃のような視線で園田を射抜く。
「法の下の平等。それは、この国の民主主義の根幹です。探索者だからという理由だけで、特別な税制を設けるなど言語道断。もしそれを認めるなら、次はeスポーツの選手も、人気動画配信者も、『我も我も』と特例を要求してくるでしょう。その時、あなたはどうやって線引きをするのですか? 法とは、そのような場当たり的な感情で曲げられてはならないのです!」
「しかし、これは国家の未来への投資だと……!」
「投資という名の、ただの人気取り政策にしか、私には聞こえませんな!」
「何だと!?」
園田の顔が怒りで赤く染まる。渋沢の怜悧な瞳が、さらに冷たく光る。二人は席を立ち、テーブル越しに互いを睨みつけた。その様は、もはや政策論争ではなく、殴り合い寸前の喧嘩だった。
「まあまあ、お二人とも……!」
議長の大隈が、必死にその間に入ろうとした、その時だった。
「……あの、よろしいでしょうか。」
か細い、しかしその場にいる誰もが無視できない、澄んだ声が響いた。声の主は、制服姿のまま、この大人たちの醜い争いを静かに見つめていた、高校生代表の田中結衣だった。
全ての視線が、その小柄な少女に注がれる。
「……皆様のご議論、大変勉強になります。」
彼女は深々と頭を下げた。
「探索者を目指す一人の学生として、正直に申し上げるなら、B案はとても魅力的です。税金のことを気にせずダンジョンに挑戦できるなら、それに越したことはありません。ですが――」
彼女はそこで一度言葉を切り、この議論の最も根本的な、しかし誰もが目を背けていた問いを、すべての大人たちに投げかけた。
「ですが、そもそも私たち“学生探索者”が、一体どれだけ稼げるのか。その具体的な数字が、まだ誰にも分かっていませんよね? もし、その収入が“扶養を外れる123万円”に到底届かないような、お小遣い程度のものだとしたら……今のこの議論は、すべて意味のないものになってしまうのではないでしょうか?」
その、あまりにも純粋で、そしてあまりにも的を射た問い。
会議室は水を打ったように静まり返った。
――そうだ。彼らは、まだ「存在しないものの皮」を巡って争っていたのだ。
「……田中さん。ありがとう。」
議長の大隈が、助け舟を得たように深く頷いた。
「全くその通りだ。……この点について、政府参考人としてお越しいただいている、内閣官房・超常事態対策統括室の佐藤次長より、ご説明を願えますかな。」
指名された佐藤は、九条の腹心として、KAMIがもたらした並行世界のデータの全てを管理する“影の男”だった。感情の見えない目で一同を見渡すと、端末を操作し、円卓の中央に、一枚の――あまりにも衝撃的な――データを投影した。
「――皆様。これは、KAMI様よりご提供いただいた、我々の世界と極めて似通った歴史を歩む“とある並行世界の日本”における、ダンジョン出現後15年間の探索者の平均所得データです。」
彼は最も重要な部分をレーザーポインターで指し示した。
「結論から申し上げます。F級――すなわち、探索者として登録したばかりの最も下のランクの探索者の平均“日給”は、12万円前後です。」
「――じゅ、12万!?」
誰かが素っ頓狂な声を上げた。
「はい。」と佐藤は淡々と続ける。
「ダンジョン内で得られる“魔石”や“アイテム”のギルド買取価格が、極めて高水準で安定しているためです。さらに、並行世界のデータによれば、探索者の基本的な装備――武器や防具、そしてポーションといった消耗品――は、ダンジョン内で得られる『魔素』と呼ばれるエネルギーによって、自動的に修復・補充されるため、経費は“ダンジョンまでの交通費”以外、基本的にはかかりません。つまり“一日の純利益”は約10万円前後。これは、一日8時間、探索者活動に従事した場合の平均値です。」
その、あまりにも現実離れした、しかし“神がもたらしたデータ”という絶対的な説得力を持つ数字。
会議室は、どよめきと興奮、そして戦慄の渦に包まれた。
「一日10万……?」
「じゃあ、週末の二日間フルで働くだけで、月収80万!?」
「123万円の壁なんて、二週間で超えちまうじゃねえか!」
それまでどこか他人事のように議論を聞いていた、保護者代表の主婦が、顔面蒼白になっている。
「その通りです!」
混沌の中で、最初に我に返ったのは財務省の渋沢だった。その目は、もはや法律家ではなく、巨大な金脈を見つけた徴税人のようにギラギラと輝く。
「皆様、お分かりですか! これは我が国の財政にとって、千載一遇のチャンスです! 才能ある若者が“週末だけで”年間一千万円近くを稼ぎ出す! 彼らが現行法通りに扶養から外れ、所得税を納めるようになれば、我が国の税収は飛躍的に改善します! 親の負担が増える? 結構な話じゃないですか! 子どもの年収が一千万を超えているのに、なぜ国がその親の税金を気にする必要があるのですか! A案で何の問題もない!」
「ふざけるな!」
その、あまりにも冷酷な論理に、園田が猛然と反論した。
「あなたは子どもの成功を、親の“罰ゲーム”にしようというのか! そんなことをすれば、親は子どもに『ダンジョンに行くな』と言うに決まっている! それこそ国家の損失だ! やはりB案しかない! 彼らの才能を、古い税制で縛り付けてはならない!」
議論は、再び、そしてより激しく白熱した。具体的な数字を得たことで、彼らの主張はより生々しく、そしてより剥き出しになっていた。
それは、もはや「国家の未来」を語る崇高な議論ではなかった。目の前に現れた“巨大な金のなる木”を、誰がどうやって分捕るかという、醜い醜い欲望のぶつかり合いだった。
「――皆様! 静粛に! 静粛に!」
議長・大隈の、怒声に近い声が、ようやく混沌を制した。彼は疲れ果てた顔で天を仰ぐ。
「……どうやら本日中に結論を出すのは不可能なようですな……。」
彼は、この不毛な戦いをいったん終わらせるための、唯一の道を選んだ。
「本日の議論はここまでといたします。ですが、我々は前に進まねばならない。故に、暫定的な措置として、こう提案したい。」
彼は円卓にいるすべての顔を、一人ひとり見渡した。
「まず、ダンジョン法施行の“最初の年”は、現行法であるA案を、そのまま適用する。しかし、この調査会での議論は今後も継続する。
そして、もし“一年後”に、B案、あるいはそれに準ずる特例措置を導入することが、国民の総意として決定された場合、その際は“最初の年”に遡って、その恩恵が受けられるよう、差額を『還元金』として給付する――という形で調整を行う。……皆様、この折衷案でいかがですかな。」
その、あまりにも官僚的で、そしてあまりにも日本的な“結論の先送り”。
だが、その場にいる誰もが、それしか道はないことを理解していた。渋沢も園田も、互いに不満げな顔をしながらも、渋々といった体で、その案を呑んだ。
会議は終わった。だが、何も終わってはいなかった。
ただ“一年”という猶予期間が与えられただけだ。
その一年間で、この国は答えを見つけ出さなければならない。
――才能と公平。
――成長と格差。
その、永遠に答えの出ない問いに対する「自分たちなりの答え」を。
長く、そしてどこまでも不毛な議論のゴングが、今まさに日本中に鳴り響いていた。




