第91話
深夜。東京・首相公邸の執務室は、もはや時間の概念が溶融したかのような、静かで、しかしどこまでも終わりのない執務空間と化していた。
数日前にジュネーブで繰り広げられた、あの地獄のような、しかし一応の「前進」を見た委員会。
その膨大な議事録と、そこから派生した無数の課題を、沢村総理と九条官房長官、そして彼らの完璧な分身たちは、眠らない身体で、ただひたすらに処理し続けていた。
ホログラムのモニターには、日本全国から殺到する陳情書、抗議文、そして期待に満ちた要望書のデータが、まるで光の滝のように流れ落ちていく。
その光景は、もはや人間の執務風景ではなかった。国家という巨大なサーバーの負荷状況を、リアルタイムで表示する無機質なステータス画面そのものだった。
「――ふぅ。とりあえず、ダンジョン関連で国際的に議論すべき骨子は、一通り触ることができたか。これは一歩前進と見ていいんじゃないか、九条君」
長い沈黙を破ったのは、本体の沢村だった。
彼はジュネーブでの成果を、せめてもの精神的な支えとするかのように、どこか自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、そのあまりにも脆い希望の芽を、九条の分身の一人が、いつものように何の感情も込めずに摘み取った。
「総理。前進したのは、あくまで国際的な枠組みだけです。国内はむしろ一歩後退、あるいは“炎上”と言っても差し支えない状況かと」
彼は手元の端末を操作し、沢村の前に、一枚の日本地図が憎悪の赤で染め上げられたかのような報告書を投影した。
「地方から東京にダンジョンが集中するという情報がリークされた件で、全国の地方自治体から、公式・非公式を問わず、凄まじい数の抗議が来ております」
「……またか」
沢村は、心の底からうんざりしたという顔で天を仰いだ。
「KAMI様が『世界の理だ』と、そう仰ったのだろう!? 議事録にもそう記されているはずだ! 我々人間の都合でどうこうできる問題ではないと、なぜ理解できんのだ、彼らは!」
その、あまりにも人間的な、そして中間管理職の悲哀に満ちた叫び。
九条の本体が、静かに、そして冷徹に答えた。
「総理。彼らは理屈で怒っているのではありません。感情で怒っているのです。『またしても東京だけが優遇されるのか』と。
その、百年にわたって積み重ねられてきた地方のルサンチマン(怨嗟)が、ダンジョンという新しい火種を得て燃え上がっているに過ぎません。ですが、その炎はもはや無視できる規模ではない。『東京贔屓』という言葉が、地方紙の一面を飾っております」
報告書には、各県知事からの悲痛な、あるいは脅迫的なメッセージの一部が抜粋されていた。
『このままでは、我が県の若者は全員、一攫千金を夢見て東京へと流出してしまう! 地方はダンジョンが出現する前に、ゴーストタウンと化す!』
『地方の探索者を支援するための、大規模な補助金制度を国が責任をもって創設すべきだ! 東京への交通費、滞在費、その全てを国が負担しろ!』
そして、最も多くの知事が、同じ結論を叫んでいた。
『ゲートの稼働を一日でも早く! ゲートさえあれば、地方に住みながら東京のダンジョンに挑むことができる! この格差問題は、解決するはずだ!』
「……まあ、それはそうだが」
沢村は腕を組んで唸った。
「ゲートの第一次開業は、最速でも一年後だ。ダンジョンの出現とギリギリじゃないか? 下手をすれば、間に合わんかもしれん」
「そうですね。ギリギリですね」
と、九条もあっさりと肯定した。
「ゲート構想を最優先したいところですが、ダンジョン法の整備も“一年”というタイムリミットが課せられている。二つの“国家百年の計”を、同時に、そして完璧に進めなければならない。われわれのリソースは、既に限界です」
その、あまりにも絶望的な状況。
沢村は、頭痛をこらえるように、こめかみを押さえた。
「……分かった。分かったよ。では、国内で今、最も火急の決着をつけなければならない問題は何だ。ひとつずつ片付けていくしかない」
「はい」
九条は端末を操作し、議題を一つに絞り込んだ。
「国内で残っている最大の問題は、やはり未成年の『扶養』の問題かと」
「……ああ、あれか」
沢村の顔が、さらに険しくなった。
ジュネーブの委員会で「未成年も保護者の許可があれば探索者になれる」という暫定合意がリークされて以来、国内の保護者団体、教育委員会、そして何よりも税理士会から、この矛盾を指摘する声が、嵐のように巻き起こっていたのだ。
高校生の息子が、ダンジョンで希少なアイテムを拾い、一夜にして父親の年収を超える。
その時、彼は扶養家族から外れるのか。親の税負担はどうなるのか。
そして何より、その大金を手にした子供は、果たして翌日、大人しく学校の教室で古文の授業を受けるのだろうか。
「……どうなのだ、九条君。各方面からの意見は出揃ったのか?」
「はい。大きく分けて三つの意見が出揃っております」
九条は、三つの選択肢をホログラムで表示した。
【A案:原則維持】
現行法を維持し、年収123万円を超えた未成年は、例外なく扶養から外す。探索者も、他のアルバイト学生と何ら変わりはない。
(支持:財務省、野党の一部、公平性を重んじる世論)
【B案:特例措置】
探索者活動によって得られる所得に限り、非課税、あるいは大幅な控除を認める「探索者特例法」を新設する。
(支持:経済産業省、ダンジョン関連ビジネスを推進する産業界)
【C案:教育連携】
ダンジョン探索を学校の「部活動」あるいは「特別単位認定活動」として正式に位置づける。そこで得られた収益は個人ではなく、学校、あるいは教育委員会が一括で管理し、学費の免除や奨学金制度の財源として再分配する。
(支持:文部科学省、教育関係者、格差是正を求める世論)
「……地獄の三択だな」
沢村は、その三つの選択肢を、まるで拷問具でも見るかのような目で睨みつけた。
A案を選べば、才能ある若者が“税金”を気にして、その挑戦を躊躇することになる。国家の大きな損失だ。
B案を選べば、「なぜ探索者だけが優遇されるのか」という、深刻な不公平感と社会の分断を生む。
そしてC案は、一見すると最も理想的に見える。だが、その裏側には、教育現場の凄まじい混乱と、“国家による才能の管理”という全体主義的な危険性が潜んでいた。
「……九条君。君の個人的な意見はどれだ」
沢村のその問いに、九条は初めて、その鉄仮面の下にある“一人の官僚”としての、そして“一人の人間”としての苦悩の色を、わずかに滲ませた。
「……私個人の、そして官僚としての合理性だけで申し上げるなら、A案です。法の下の平等。これ以上の大原則はありません。特例は必ず次なる特例を呼び、法体系そのものを、なし崩し的に破壊します」
だが、と彼は続けた。
その声には、珍しく感情の揺らぎがあった。
「ですが、総理。われわれはもう知ってしまった。この新しい世界には、我々の常識では計れない『才能』というものが、確かに存在するということを。
その、神から与えられた才能の芽を、われわれの古い古いルールブックで摘み取ってしまうことが、果たして正しいことなのか。……私には、もう分かりません」
それは、九条という男が初めて見せた“弱さ”だった。
神の存在が、この最も論理的で、最も強固だったはずの男の、その魂さえも揺さぶり始めていたのだ。
その、あまりにも重い、そして答えの出ない問い。
執務室は、再び深い深い沈黙に包まれた。
沢村は目を閉じた。
彼の脳裏に、数多の“顔”が浮かんでくる。
税金の増額に悲鳴を上げる子育て世代の顔。
ダンジョンに夢を馳せる若者たちの、キラキラとした顔。
そして、教室の片隅で、誰にも理解されない才能を持て余している、孤独な子供の顔。
どの顔も、彼が守るべき“国民”の顔だった。
どの選択をしても、誰かが傷つき、誰かが涙を流す。政治とは、常にそういうものだった。
だが、今日のこの選択は、あまりにも重すぎた。
「…………」
長い長い沈黙の後。
沢村は、ゆっくりと目を開けた。
その顔には、もはや迷いはなかった。あるのは、この国の全ての矛盾と、全ての苦悩を、その一身に背負う覚悟を決めた、一人の総理大臣の顔だった。
「……九条君。われわれは“決めない”」
彼は静かに、しかし力強く言った。
「この問題は、われわれだけで決めてはならない。決められるはずもない。……国民に問うしかあるまい」
「……と申されますと?」
「『超党派・ダンジョン税制特別調査会』を国会に設置する」
と、沢村は宣言した。
「与野党の議員、各省庁の官僚、民間の専門家、そして保護者や学生の代表も、そのテーブルに着かせる。
そして、この三つの案を叩き台として、国民の前で徹底的に議論させるのだ。一年、いや二年かかってもいい。
この国の“新しい家族の形”、“教育の形”、そして“税のあり方”を、国民自身の手で選ばせるのだ」
それは、究極の“責任の委譲”だった。
だが同時に、このあまりにも分断された国で、再び一つの合意を形成するための、唯一にして最も民主的な道筋でもあった。
「……御意」
九条は深く深く頭を下げた。
その顔には、主君への畏敬の念が浮かんでいた。
神の不在のまま。
人間たちは、またしても自分たちの、最も面倒で、最も非効率で、しかし最も尊い手続き――『対話』によって、その答えを見つけ出そうとしていた。
その、長く、そしてどこまでも終わりのない、地獄のような、しかし希望に満ちた会議の、最初の招集状を起草するために。
九条の四つの身体は、再び静かに動き始めたのだった。




