第88話
その日、日本の日曜の朝は、静かな熱病に浮かされていた。
ジュネーブでの、あの歴史的な共同記者会見から一ヶ月。世界は『ダンジョン・エイジ』という、一年後に約束された新しい時代の到来への期待に沸騰していた。だがその熱狂は、今やより具体的で、そしてより厄介な「現実」の問題となって、日本社会に重くのしかかっていた。
全ての始まりは一本のリーク記事だった。スイスで設立が発表された『ダンジョン法整備に関する超国家合同準備委員会』。その第一回会合の、極めて信憑性の高い内部資料とされるものが、海外のメディアによって暴露されたのだ。
政府は公式には認めていない。だが、そこに記されていた内容は、あまりにも衝撃的だった。「探索者」の資格要件、ランク制度、そしてライセンスの管轄。これまでベールに包まれていた新しい世界のルールブックの、その最初の数ページが、白日の下に晒されたのだ。
その声なき問いに火をつけるかのように、国民的な人気を誇る日曜朝の討論番組『サンデー・クロスファイア』の、けたたましいオープニング音楽が全国のお茶の間に響き渡った。
「おはようございます! 日曜日。『サンデー・クロスファイア』、今週も日本が直面する最も熱い論点に、忖度なく切り込んでまいります! 司会の黒崎です!」
ベテラン司会者・黒崎謙司が、にこやかな、しかしその目の奥に鋭い光を宿してカメラに向かって語りかける。彼の目の前のテーブルには、今日の日本の縮図ともいえる異色の論客たちが顔を揃えていた。政府を代表し、この難問の矢面に立たされる若宮特命担当大臣。政権追及の急先鋒、野党第一党の女性論客・立花議員。元・国土交通省事務次官にして、安全保障のリアリスト・柳田公一。そして、元・家庭裁判所調査官という経歴を持つ社会学者の相沢恵子。彼らがこれから繰り広げる言葉の戦争を、スタジオの観覧席と、そして日本中の何千万という人々が固唾を飲んで見守っていた。
「さて皆さん。早速ですが、今週リークされたダンジョン法の草案、その中でも特に国民の関心が高いのがこの二点です」
黒崎がそう言うと、スタジオの巨大なモニターに二つの衝撃的な見出しが表示された。
『【激論①】未成年も“探索者”に!? 安全性と税金の問題は?』
『【激論②】元・犯罪者も参加可能!? 国民の不安にどう応えるか』
「まず未成年の問題から参りましょう」
黒崎は真正面に座る若宮大臣に、最初の槍を突き立てた。
「大臣。資料によれば、未成年者も保護者の厳格な許可と監督があれば、探索者になれる可能性があると。これ本当ですか? KAMI様は『低級ダンジョンでの死亡率はウォーキングより低い』とまで仰ったとか。交通事故を考慮すれば確かにそうかもしれませんが……国民の多くは、子供を危険な場所に送り出すことに強い抵抗を感じています」
「黒崎さん、ありがとうございます」
若宮大臣は、用意してきた完璧な、しかしどこか頼りない笑顔で、よどみなく答えた。
「まず安全性については、KAMI様からも絶対の保証をいただいております。初期に解放されるダンジョンは、適切な装備さえあれば、まず生命の危険はないと。その上で政府としましては、若者の挑戦する機会を尊重しつつ、その安全をどう確保していくか。まさに今、専門家を交えて慎重な議論を重ねているところであります」
その、あまりにも優等生的な答弁。待ってましたとばかりに割って入ったのは、社会学者の相沢だった。彼女の視点は、危険性という曖昧な問題ではなく、より具体的で、そして生活に密着した現実を抉り出した。
「ちょっと待ってください、大臣」
相沢は、穏やかな、しかし芯の通った声で言った。
「安全性ももちろんですが、私はもっと現実的な問題を指摘させていただきたい。それは『扶養』の問題です」
扶養。その、あまりにも生活感のある単語に、スタジオの空気がわずかに変わった。
「探索者としてお金を稼ぐとなると、これは立派な『所得』になります。そして皆様ご存知の通り、現在の日本の税制では、子供の年収が“123万円の壁”を超えると、親の扶養から外れてしまう。そうなれば、親の税負担は一気に増大します。この問題を政府はどうお考えですか? ダンジョンを国策として推進するのであれば、探索者として活動する未成年者に対して、何か特別な税制の特例でも設けるおつもりですか?」
その、あまりにも現実的な指摘。若宮大臣の額に、一筋の冷や汗が浮かんだ。
「えー、それにつきましては、財務省とも連携し、現在あらゆる可能性を……」
「ですが相沢先生」
野党の立花議員が、すかさず援護射撃のように口を挟んだ。
「特例を認めるというのはどうなのでしょうか? それは、他のアルバイトで必死に働く若者たちとの間に、新たな不公平を生むことになりませんか? 私は安易な特例には反対です。ルールはルールであるべきです」
「そうですよね」
相沢も頷いた。
「ならばやはり、扶養から外れてしまうと。大臣、これは大変な問題ですよ?」
黒崎がここぞとばかりに畳み掛けた。
「この放送を見てる奥さん、他人事じゃないですよ? 下手をすれば、高校生の息子さんや娘さんの稼ぎが、ご主人の年収をあっさり超えてしまうかもしれない。その時、我が家の家計は、そして税金は一体どうなってしまうのか! ハハハ、笑い事じゃありませんが、日本の税制を考えると、本当にそうなりかねません!」
スタジオがどっと笑いに包まれる。だが、それは乾いた笑いだった。
次に、黒崎はモニターの見出しを切り替えた。
「さて、笑えない話はもう一つあります。柳田さん。元・犯罪者も探索者になれる可能性がある。これ、安全保障の専門家としてどうご覧になりますか?」
元・事務次官の柳田は、腕を組みながら、深く深いため息をついた。
「……ちゃんちゃらおかしいですな」
彼は吐き捨てるように言った。
「子供を持つ一人の親として、率直に申し上げて不安しかありません。元・犯罪者が、子供たちもいるかもしれないダンジョンの中に、刃物や、あるいはそれ以上の殺傷能力を持つ凶器を持って入るのですよ? もちろん、刑期を終えた方の更生の権利を否定するつもりはない。ですが、もし“魔が差して”ということが起きたら? 誰が責任を取るのですか」
その、多くの国民感情を代弁するかのような意見。再び相沢が、冷静な、しかし厳しい声で反論した。
「ちょっと待ってください、柳田さん。その言い方はあまりにも危険です。それは明確な差別につながりますよ」
彼女の目が、鋭い光を宿した。
「彼らは確かに過去に過ちを犯した。しかし、その罪は法の下で裁かれ、そして償ったのです。その彼らに対し、未来永劫『元・犯罪者』というレッテルを貼り、社会参加の機会を奪うというのであれば、それはもはや法治国家ではありません。それに、そもそも犯罪歴の有無で、その人間が未来に罪を犯すかどうかを判断するなど、誰にもできはしないでしょう」
「しかし現実問題として……」
「ならば、こうするのはどうでしょう」
立花議員が妥協案を提示した。
「犯罪歴のある方が探索者になる場合、GPS機能付きの腕輪を装着するなど、通常よりも厳格な監視付きで活動を許可するというのは」
「うーん……」
相沢が唸った。
「ですが草案によれば、そもそも探索者は全員、活動中の映像をウェアラブルカメラで記録・監視されることになっています。その上でさらに“二重の監視”を課すというのは、やはり差別的ではないでしょうか。どこまで行っても、この問題は“人権”と“安全”の天秤です」
議論は完全に袋小路に陥った。黒崎は、その不毛な空気を断ち切るように、話題を再び未成年に戻した。
「さて未成年の話に戻しますが、スタジオに面白いFAXが届いています。『ダンジョン探索、部活にできませんか?』……部活ですか!」
黒崎が面白そうに言うと、スタジオの空気が少しだけ和らいだ。
「ダンジョン探索部! いやー、まるでライトノベルみたいな展開ですが、これは面白いですね!」
黒崎は隣に座っていた特別ゲストを指した。
「先生、こういう展開お好きでしょう?」
その問いに、ゲストとして招かれていたライトノベル作家・沢渡恭平が、待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「ええ! 素晴らしい! 素晴らしいアイデアですよ! 放課後に仲間たちとパーティーを組んでダンジョンに潜る! そこで友情を育み、時には対立し、そして成長していく! これ以上の青春があるでしょうか!? ぜひ文部科学省には、前向きに検討していただきたい!」
その、作家らしい熱のこもった意見。だが若宮大臣の顔は、苦渋に満ちていた。
「えー、文科省とも協議はしておりますが、やはりまずは“学業が優先されるべきである”というのが基本的なスタンスでして……」
「またそれですか!」
その、あまりにも官僚的な答弁に、それまで比較的静かだったIT企業の創業者・朝倉氏が、ついに堪忍袋の緒を切ったように声を荒らげた。
「学業優先? いつまでそんな古い価値観に縛られているんですか! ダンジョンに適性がある子がいるんですよ! 百年に一人、千年に一人の才能が、日本のどこかの教室で、興味もない古典の授業を受けさせられているかもしれない! その子の才能を尊重しないで、この国の未来が一体どうなるって言うんですか!」
彼は、カメラの向こうの、まだ見ぬ才能たちに呼びかけるように力強く言った。
「私としては、これは譲れませんよ! 国家は、そういうギフテッド(天才)たちをこそ、全力で支援すべきなんです!」
その熱い叫びに、スタジオは再び賛否両論の怒号に包まれた。
「その通りだ!」
「いや、まずは基礎教育が大事だ!」
「学校が無法地帯になるぞ!」
議論は完全に崩壊した。誰もが自らの“正義”を叫び、互いの言葉に耳を貸さない。それは今の日本の、そして世界の縮図そのものだった。
「……はいはいはいはい! 皆さん、落ち着いて!」
司会の黒崎が両手を上げて、必死にその混沌を制止しようとする。だが、その声はもはや誰の耳にも届かない。
黒崎は天を仰いだ。そしてカメラに向かって、疲れ果てた、しかしどこか楽しんでいるかのような諦観の笑みを浮かべた。
「……えー、どうやらこの国の新しい形が決まるまでには、まだまだ、まだまだ長い時間がかかりそうですな。CMの後も、この地獄の議論は続きます!」
その言葉を最後に、画面は笑顔で手を振る保険会社のCMへと切り替わった。
官邸の執務室で、その一部始終を見ていた沢村は、リモコンのスイッチを静かに切った。彼の四つの身体は、全て同じように深い深い疲労に包まれていた。答えはない。この国は今、神から、そして歴史から、決して解くことのできない究極の問いを突きつけられている。その、あまりにも重い現実だけが、日曜の朝の平和な光の中に、ずしりと横たわっていた。




