第87話
その日、スイス・ジュネーブ、パレ・デ・ナシオンの一室は、人類の未来を設計するという傲慢な試みのための、最初の神殿となった。
『ダンジョン法整備に関する超国家合同準備委員会』。
その、あまりにも官僚的で、そして現実味のない名前を持つ委員会には、日米中露、四カ国の最高レベルの専門家たちが集結していた。
法律家、経済学者、軍事アナリスト、社会学者。
それぞれの国家の威信を背負い、そして自らの知性の限界を試されるために、この絶望的なパズルの前に座らされている。巨大な円卓の中央には、数日前に世界を熱狂させた、あの共同記者会見のホログラムが、音声のないまま繰り返し再生されている。
だが、この部屋に、あの時のような祝祭の雰囲気は欠片もなかった。
あるのは、これから自分たちが定義しなければならない、未知なる混沌の広大さを前にした、深い深い沈黙だけだった。
そして、その円卓の隅、オブザーバーとだけ記された席に、彼女はいた。
ゴシック・ロリタのドレスに身を包んだ、KAMI。彼女は、この人類の叡智を結集したという荘厳な会議に、全く興味を示していない。その手には、日本の最新アニメのキャラクターが描かれた可愛らしいクッション。それを抱きしめながら、携帯ゲーム機の画面に映し出されるモンスターとの戦いに、その全神経を集中させていた。
「よろしくねー」
会議の冒頭、議長である日本の九条から紹介された彼女は、画面から一瞬たりとも目を離さずに、そう言った。
「ゲームしてるから、口出す所以外は無視するからよろしくー」
その、あまりにも神聖さのない、そして、あまりにも率直な宣言。
それが、この委員会における神の立ち位置を、完璧に定義づけていた。
「えー、ということです。では、議題1に入ります」
九条は、もはやその程度のことで動揺することもなく、完璧なまでの事務的な声で、最初の、そして最も根源的な問いをテーブルに投じた。
「資格要件。誰が『探索者』になれるのか。年齢制限は(未成年者の活動は認めるか)? 身体的・精神的な適性検査は必要か? 犯罪歴のある者の資格は?」
地獄の釜の蓋が開かれた。
「大綱として、日本政府からは、未成年者の活動は原則として認めるべきではないという案を提示いたします。これに意見がある方はいらっしゃいますか?」
最初に手を挙げたのは、アメリカの国務次官、アビゲイル・リードだった。彼女は、タフな交渉で知られる鉄の女。その声は、どこまでもプラグマティックだった。
「九条長官。なぜ未成年がNGなんでしょうか。個人の自由と機会の平等を重んじる我が国の立場からすれば、親権者の許可と十分な安全対策が講じられるのであれば、若者の挑戦する権利を国家が一方的に奪うべきではないと考えますが」
その、あまりにもアメリカ的な正論。
それに九条は、日本の官僚として、そして中間管理職として、最も現実的な懸念を口にした。
「えー、リード次官。お気持ちは分かります。ですが、仮に、たった一人でも未成年の探索者がダンジョン内で死亡、あるいは重傷を負った際の世論の反応を考えると、NGが最も安全な選択かと。メディアはそれを『国家が子供を死地に追いやった』と書き立て、我々はこのプロジェクトの正当性そのものを、根底から揺るがされかねません」
「しかしですね、九条長官!」
今度は、中国の国家発展改革委員会の副主任、チェンが、鋭い声で割って入った。
「世界には、未成年であっても労働力として社会に貢献している国は数多くあります! 才能ある若者を、ただ『未成年だから』という形式的な理由で排除するのは、国家にとっての大きな損失ではないでしょうか? 能力がある者は、年齢を問わず積極的に登用し、国家のために活用するべきです!」
「しかしですね…」
不毛な議論が始まろうとしていた。個人の自由か、世論のリスクか、国家の利益か。その、決して交わることのない三つの価値観が、激しく火花を散らす。
その時だった。
「あー、もううるさいわね。今ボス戦なんだけど」
ゲームに夢中だったはずのKAMIが、心底うんざりしたという顔で、顔を上げた。全ての視線が彼女に注がれる。
「安全性は問題ないんですよね? 神?」
九条が、まるで最後の切り札を切るかのように問いかけた。
「ええ」
KAMIは、こともなげに答えた。
「基本的に、ダンジョンでの死者は出ないと考えていいわ。正確に言うと、ダンジョンの難易度はF級から始まってSSS級まであるんだけど。最初のうちはC級以下のダンジョンしか解放しないから。そのレベルで死者が出ることは、まずないかなーって感じね。ちゃんと装備を整えればの話だけど」
その、神からの絶対的な安全保証。
それが、議論の流れを一瞬で変えた。
「――神、ありがとうございます! ということで、安全性はあるということです! ならば、保護者の厳格な監督と同意があるという条件付きで、未成年者の参加を許可することが、最も妥当と思われます!!!」
その力強い結論に、もはや反対できる者はいなかった。
九条は、内心で深いため息をついた。(…結局、この会議の結論は、全てこの神の気まぐれ一つで決まるのか…)
「では暫定では、年齢制限はなし(ただし未成年は、保護者の厳格な許可と監督が必要)ということで。身体的・精神的な適性検査については、現時点では導入を考えておりませんが、異論はありますか?はい、無いようなので次に行きます。」
「犯罪歴のある者の資格は? 意見がある方はどうぞ」
「……難しい問題ですね」
最初に口を開いたのは、ロシアの連邦保安庁(FSB)から派遣された、コズロフという名の、氷のような目をした男だった。
「犯罪者更生の観点で言えば、ここで一律に排除することは、刑期を終えた元犯罪者への新たな社会的差別を生むことになるやもしれません」
その、あまりにも人道的な発言。
だが、その直後、彼はその本性を現した。
「しかし、犯罪歴のある人間を、法の目の届かぬ無法地帯に、武器を持たせて送り込む。それは、狼の群れに牙と爪を与えるようなものではありませんかな?」
「保釈金のように、ある程度の保証金を用意させるというのはどうでしょうか?」
中国のチェンが、現実的な提案をした。
「その者の過去の犯罪の重さに応じて、高額な保証金をギルドに預託させる。もしダンジョン内外で問題を起こせば、その保証金は没収する。それであれば、ある程度の足切りにもなりますし、再犯の抑止力にもなる」
「保証金ですか…」
九条は、そのアイデアの巧みさに内心で舌を巻いた。
「犯罪者に、ある程度のハードルを設けるという意味では、なかなか良い案だと思われます。しかし、その保証金を巡って、新たな借金騒動や闇金融が生まれることになりませんか?」
「そこまでは面倒見切れませんね」
チェンは、あっさりと、そして冷酷に言い放った。
「機会は与える。だが、その機会を掴むための努力をするのは本人次第です」
「……では、保証金付きで犯罪歴がある者でも探索者になれる、ということで一旦合意といたします。えー、では次の議題に移ります」
「ランク制度。探索者の実績や能力に応じてランク(例:S級〜F級)を設けるか。高ランクのダンジョンへの挑戦資格を、制限する必要はあるか」
その問いに、再びKAMIが口を挟んだ。どうやら、ゲームのボスを倒し終え、少しだけ手持ち無沙汰になったらしい。
「あ、これはちょっと考えがあるわ」
彼女は、まるでゲームの仕様を説明するかのように言った。
「ダンジョン側でね、『F級ダンジョンをクリアした者でなければE級ダンジョンには挑戦できない』っていう風に、挑戦資格にロックをかけることができるから、そうしたらいいわ。その場合、ランクは必然的にF級からSSS級まであるって感じになるわね」
「なるほどなるほど。それはありがたいです」
九条は、深々と頭を下げた。神の鶴の一声――いや、天啓だった。これで、最も厄介だった「探索者の能力評価」という曖昧な問題を、ダンジョン攻略という明確な実績で代替できる。
「この方向で異論がある方はいらっしゃいますか? はい、いないようなので、次の議題に移ります」
「ライセンスの管轄。ライセンスの発行・剥奪は、各国の公式ギルドが行うのか、それとも国家(警察や公安委員会など)が直接管理するのか」
「これは、各国の公式ギルドが管轄するのが最も丸いと思われますが、どうでしょうか?」
九条がそう提案すると、珍しく満場一致で同意の頷きが得られた。
「そうですね…。我々警察が管轄しても、ただ仕事が増えるだけですからねぇ」
オブザーバーとして参加していた日本の警察庁のキャリア官僚が、心の底から安堵したように呟いた。誰も、この新しい、そして面倒な権限を、自ら抱え込みたくはなかったのだ。
「では、これも問題なしということで、次に移ります」
「労災・保険。ダンジョン内での負傷や死亡は『労働災害』として扱われるか。専用の保険制度を創設する必要はあるか」
「うーん、これは難しいですね」
アメリカのリード次官が頭を抱えた。
「基本的には自己責任としたいところですが、それではあまりにもリスクが高すぎる。かといって、労働災害と認定すれば、その保証の問題が…」
「しかし、ここをしっかりしなければ、優秀な探索者が集まらないのでは? 最低限、ダンジョン内での負傷に対する医療費と、万が一の際の遺族への見舞金程度は、用意する必要があると思われますが…?」
「では、その医療費と見舞金の負担を、探索者公式ギルドが行う、ということで…。えー、では次です」
「チーム(パーティ)内のルール。複数人でダンジョンに潜った際のドロップ品の分配ルールはどうするか。リーダーの決定権、貢献度に応じた分配など、ギルドとして公式なガイドラインを設けるべきか。これはどうしますか?」
「うーん、難しいですね」
誰もが頭を抱えた。
「貢献度をどうやって客観的に決めろというのですか。ヒーラーの貢献と、タンカーの貢献は比べようがない」
「正直、これはきっちり等分するのが最も揉め事が少ないのでは?」
「いや、それでは高ランクの探索者が、低ランクの探索者と組むメリットがなくなる!」
「……正直、これは実際に稼働してみないと分からない問題ですね…」
沢村が、初めて、そして疲れ果てた声で言った。
「今、我々が机上で決めていい問題ではないように思える」
「……その通りですな」
九条は、あっさりと、その日の議論の限界を認めた。
「では、これは『未定』とし、今後の検討課題といたします。本日の会議は、これで終了とします」
彼は立ち上がった。
その顔には、何の達成感もなかった。ただ、巨大な宿題の最初の数ページを、ようやくめくり終えただけの、深い深い徒労感だけがあった。
「今日決定した内容は、あくまで暫定的な合意事項です。この後、本日皆様からいただいた意見を元に、我々事務方が詳細な条文案を作成し、それを元に、再び各国の専門家を交えた分科会で再度調整を行うことになります。本日、何一つ最終決定したわけではないので、その点はご配慮をお願いします。では、解散」
その、あまりにも官僚的で、そして、どこまでも終わりのない地獄の始まりを告げる言葉。
会議室に集った世界最高の頭脳たちは、誰一人として勝利の昂揚を浮かべることなく、ただ、これから自分たちの身に降りかかる無限の調整業務の重さに、深く深くため息をつくだけだった。




