第9話
橘栞の分身である少女が、アメリカとの交渉を一方的に日本政府に丸投げして去ってから、官邸の応接室は地獄のような沈黙に支配されていた。
総理大臣の沢村は、まるで全身の血を抜かれたかのようにソファに深く沈み込み、官房長官の九条は、拾い上げたレースの切れ端をただ無言で見つめていた。
彼らは、神の気まぐれによって、人類史上最も困難で、最も危険な外交任務を、何の相談もなく押し付けられたのだ。
「……やるしかないのだろうな」
数十分は経ったかのような静寂の後、絞り出すように言ったのは沢村だった。
「ええ。やるしかありません」と、九条は即座に同意した。彼の目には、恐怖を通り越した奇妙な高揚感さえ浮かんでいた。「彼女は我々を『代理人』に任命したのです。断るという選択肢は、我々には存在しない。そして…断るべきでもない」
九条の言葉には、棘のある真実が含まれていた。
この任務は確かに悪夢だ。だが、見方を変えればこれ以上ない好機でもあった。日本は、アメリカという超大国に対し、神の威光を背景に、対等以上の立場で交渉することができる。いや、交渉ですらない。これは、神の言葉を一方的に伝える「通告」なのだ。
「……受話器を取ってくれたまえ」
沢村は、執務室の机に置かれた赤色の直通電話を顎で示した。
その先に繋がっているのは、ワシントンのホワイトハウス。アメリカ合衆国大統領執務室だ。
九条は無言で頷くと、重々しい足取りで机に向かい、その歴史的な受話器を取り上げた。
地球の反対側、ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
オーバルオフィス(大統領執務室)では、ジョン・トンプソン大統領が、国家安全保障担当の補佐官と日本の情勢について協議を行っていた。
「……つまり、日本のサワムラ首相は依然として『対話は継続中である』の一点張りで、具体的な情報開示を拒否していると」
トンプソンは、苛立たしげに呟いた。「彼らは一体何を隠している? 我々を、同盟国だと思っていないのか」
「考えられるのは三つです」と、補佐官が冷静に分析する。「一つ、彼らが接触した『知的存在』が想像以上に危険で、制御不能なものである可能性。二つ、彼らがその存在から得た力を独占しようと画策している可能性。そして、三つ…」
補佐官が言い淀んだ。
「三つ目は何だ」
「…日本政府そのものが、既にその『知的存在』に乗っ取られているという可能性です」
その言葉に、トンプソンは眉をひそめた。
その時だった。彼の執務机の上で、滅多に鳴ることのない赤色の電話機が、けたたましい電子音を響かせた。
東京の首相官邸へと繋がる、ホットラインだった。
「……サワムラ首相からだ」
トンプソンは、補佐官と顔を見合わせると、緊張した面持ちで受話器を取った。
その電話会談は、人類の外交史において、最も奇妙で、最も重要なものとして、後に記録されることになる。
沢村は、九条が隣で差し出すメモに目を落としながら、慎重に、しかし揺るぎない口調で、神の言葉を伝えた。
『――大統領閣下。本日は、先日来貴国が懸念されている件について、我々の協力者…コードネーム:KAMIより、貴国に対する一つの『提案』を預かってまいりましたので、お伝えいたします』
電話の向こうで、トンプソンが息を呑むのが、沢村には感じられた。
『……KAMIは、貴国アメリカ合衆国にも、我々が享受しているものと同様の『力』を提供する用意があると、そう申しております』
『何だと…?』
『ええ。ただし、それには相応の『対価』が必要となります。KAMIが要求する対価は…『廃棄物』です。貴国内に存在するあらゆるゴミ、不要物、産業廃棄物。それらを、対価として譲渡することが条件となります』
『……ゴミだと?』
トンプソンの声には、純粋な困惑が滲んでいた。『サワムラ首相、君は正気かね?』
『信じられないでしょうが、事実です。信じられないのであれば、それでも構いません。ですが、KAMIは、この提案を貴国に行うよう我々に命じました。そして、我々日本政府は、その代理人として交渉の窓口を務めることになります。以上が、私がお伝えすべき全てです』
電話はそこで切れた。
オーバルオフィスには、重い沈黙が落ちた。
トンプソン大統領は、受話器を置いたまま、しばらく呆然としていた。
「……ゴミで力が買える…?」
彼は、補佐官に、まるで子供が問いかけるような声で尋ねた。
その日の夜、ホワイトハウスの地下深く、シチュエーションルームには、アメリカの国家安全保障を担う最高レベルのメンバーが緊急招集されていた。
大統領、副大統領、国務長官、国防長官、CIA長官、統合参謀本部議長。
彼らは、トンプソン大統領から東京からもたらされた信じがたい提案の内容を聞かされ、誰もが言葉を失っていた。
「……罠だ。間違いなく、日本の罠だ」
最初に口を開いたのは、CIA長官だった。「『KAMI』などという存在は、彼らが開発した超高度なAIか、あるいは我々を欺くための壮大なプロパガンダだ。あの映像も、最新のVFX技術を使えばいくらでも捏造できる」
「だがあの映像が本物である可能性も、否定はできん」と、統合参謀本部議長が低い声で反論した。「もし、あの物質分解・再構築が現実に可能だとしたら…我々が保有する全ての兵器は意味をなさなくなる。核兵器でさえもだ。そのリスクを、無視することはできん」
「しかし、日本の要求はゴミだぞ!」と、国務長官が頭を抱えた。「ゴミを集めて、一体どうするというのだ。彼らの真の目的が、全く読めん」
議論は平行線を辿った。
誰もが、この提案の裏に、日本の巨大な陰謀が隠されていると疑っていた。
だが、同時に、もしこれが真実であった場合の、あまりにも大きなリターンを無視することもできなかった。
「……諸君」
長い議論の末、トンプソン大統領が決断を下した。「リスクは承知している。だが、ここで我々が何もしなければ、日本だけが一方的に『力』を蓄え続けることになる。それは、我が国の安全保障にとって看過できない事態だ」
彼は、一同を見渡した。
「日本側の提案を受け入れよう。ただし、条件がある。我々も、その『KAMI』とやらに直接会う。そして、その力が本物であるか、この目で見極める。それが、我々の答えだ」
数日後。
日本の沢村総理から、アメリカ側の回答が橘栞の元へと届けられた。
栞は、その回答をマンションの自室で、特に感慨もなく聞いていた。
「へぇ、会いたいですって。いいわよ、別に。手間が省けるわ」
彼女は、その場で会談の日時と場所を指定した。
日時は、一週間後。
場所は、ワシントンD.C.、ホワイトハウスのオーバルオフィス。
「彼女は、おそらくどこにでも現れることができるでしょうし…」
沢村が恐る恐る付け加えたその言葉は、正しかった。栞にとって、地球上のどこであろうと、移動に要する時間はゼロだった。
そして、運命の日がやってきた。
ホワイトハウスは、歴史上最も厳重な警備体制が敷かれていた。オーバルオフィスの周囲にはシークレットサービスが壁のように展開し、室内にはあらゆる種類のセンサーと高速度カメラが、死角なく設置されていた。
トンプソン大統領と数名の主要閣僚だけが、固唾を飲んでその「時」を待っていた。
約束の時刻、きっかり。
何の前触れもなく、それは現れた。
部屋の中央、歴代大統領が使用してきた由緒あるデスクのすぐ横に。
あのゴシック・ロリータ姿の少女が、すぅっと音もなく立っていた。
アメリカという世界の頂点に立つ国家の、その心臓部。その光景には、あまりにも不釣り合いな、幻想的な存在。
だが、その場にいた誰もが、それが現実であることを肌で感じていた。
「…………君が、『KAMI』か」
トンプソンが、絞り出すような声で言った。
少女は、億劫そうにこくりと頷いた。
そして、その赤い瞳でトンプソンをまっすぐに見据え、最初の「交渉」を切り出した。
「話は日本の代理人から聞いているわね。では、単刀直入に聞くわ。対価として、アメリカ合衆国が保有する全ての廃棄物の所有権を私に譲渡することに、同意してくれる?」
そのあまりにも単刀直入な、そしてあまりにも巨大な要求に、トンプソンは一瞬言葉に詰まった。
しかし、彼はこの日のためにシミュレーションを繰り返してきた。ここで、臆するわけにはいかない。
「……同意しよう。ただし、それは君の『力』が、我々にとってその対価に見合うだけの価値があると判断できた場合だ」
「よろしい」
少女は、満足げに頷いた。「では、対価は確かに受け取ったわ」
「何?」
「あなたたちの『同意』という意思。それ自体が、最初の対価よ」
少女は、こともなげに言った。「さて、では見返りを渡さないとね。力は、どのようなものにする?」
その言葉に、国家安全保障担当補佐官が一歩前に進み出た。彼は、この日のために、アメリカが求める「力」を、優先順位をつけてリストアップしてきていたのだ。
「我々が最優先で求めるのは、**『限定的な未来予知』**の能力だ。テロや大規模な災害を、事前に察知する力が欲しい」
「なるほど。賢明な選択ね」と、少女は頷いた。
「次点として、**『兵士の身体能力向上』**を要求する。我が国の兵士を、あらゆる過酷な戦場で生き残れる超人兵士へと強化してほしい。対象となる人員のリストは、ここに」
補佐官は、分厚いファイルをデスクの上に置いた。
少女は、そのファイルに一瞥もくれなかった。
「分かったわ。ではまず、『限定的未来予知』から付与しましょう」
彼女はそう言うと、まるでペンタゴンの方角にでも視線を向けるかのように、ふっと目を細めた。
「……はい、付与しました。あなたたちの国防情報局(DIA)と中央情報局(CIA)の特定の分析部門に、直接情報をダウンロードできるようにしておいたわ。今後、彼らの元には、断片的なキーワードや座標といった形で、未来の『危機』に関する情報が不定期に届くことになる。それをどう解釈し、どう活かすかは、あなたたちの腕次第よ」
「……何だと…? 今、ここでか?」
「当然でしょ。次、身体能力向上のリストね」
少女は、補佐官が置いたファイルに、初めてちらりと目を向けた。
「なるほど、この人員ね。はい、付与しました」
「……付与した?」
「ええ。彼ら全員に、能力の『素体』を埋め込んでおいたわ。後は、あなたたちが任意でその力を覚醒させることができる。もちろん、覚醒させた後は、その新しい肉体に慣れるための厳しい訓練が必要になるでしょうから、注意することね。使いこなせなければ、宝の持ち腐れよ」
あまりにも、あっけない力の譲渡だった。
まるで、ソフトウェアを遠隔でインストールするかのように。
トンプソンも閣僚たちも、そのあまりの現実離れした光景に、ただ呆然とするしかなかった。
「用件は以上かしら?」
少女は、もうここに興味はないとばかりに、くるりと背を向けた。
「あ、待ってくれ!」
トンプソンが、思わず呼び止める。
「まだ、我々は君が何者なのか、何も…」
「そんなこと、あなたたちが知る必要はないわ」
少女は、振り返らずに冷たく言った。
「あなたたちは対価を払い、力を得る。私は対価を受け取り、力を与える。ただ、それだけのビジネスの関係よ。それ以上でも、それ以下でもない」
そして、少女は最後の言葉を告げた。
「では、また来るわ」
その言葉を最後に。
ゴスロリ姿の神の使者は、アメリカ合衆国大統領のその目の前で、すぅっと跡形もなく姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、デスクの上に置かれた分厚いファイルだけだった。
数分後。
シチュエーションルームに、CIA長官から一本の緊急連絡が入った。
曰く、DIAとCIAの特定の分析官たちの端末に、今、一斉に意味不明な数字の羅列と中東の特定の座標が表示されていると。
トンプソン大統領は、天を仰いだ。
悪魔との取引は、今、確かに成立してしまったのだ。
そして、その取引によって、アメリカが、そして世界が、これからどこへ向かおうとしているのか。
それは、彼らの新しい「神」である、日本のどこかにいるたった一人の在宅ワーカーだけが、知っていた。




