第86話
その日、世界の歴史は静かに、そして不可逆的に、その新しい一ページをめくった。
舞台はスイス・ジュネーブ。国連欧州本部、パレ・デ・ナシオン。
数週間前、イスラム世界の巨人たちが歴史的な和解を遂げた、あの会議室は再び人類の未来を決定づけるための、神なき神殿と化していた。
だが今日の空気は前回とは全く異なっていた。張り詰めた神学論争の緊張感はない。代わりにそこにあるのは、人類史上最大のビジネスチャンスを前にした、剥き出しの欲望と冷徹な計算が入り混じった、資本主義的な熱気だった。
円卓を囲むのは、日米中露の四カ国の首脳と、その最高顧問たち。
彼らは、あの地獄のように広大な議題リストを前に、数週間にわたる不眠不休の交渉を重ねてきた。そして今日、ついにその最初の、そして最も重要な結論を世界に向けて発表する覚悟を決めたのだ。
彼らは一つの結論に達していた。
この「ダンジョン」という名の怪物を、もはや秘密の檻の中に閉じ込めておくことは不可能であると。
隠そうとすれば、いずれ第二、第三の「神との契約」リーク事件が起きるだけだ。
ならば残された道は一つ。
自らの手で、全世界をこの狂乱のゲームの盤上へと引きずり込むしかない。
その日の午後。
ジュネーブのプレスの間は、世界の終わり、あるいは始まりを目撃しようと集まった数千人のジャーナリストたちの異常な熱気に包まれていた。
壇上には四つの国の国旗が厳かに掲げられている。
そしてその前に、四人の男たちが、まるで一つの共同体の代表であるかのように肩を並べて立っていた。
日本の沢村総理、アメリカのトンプソン大統領、そして中国の王将軍とロシアのヴォルコフ将軍の代理として派遣された、それぞれの国の最高位の外交官。
その光景自体が、これから語られる内容が、もはや一国のエゴや特定のイデオロギーを超えた、全人類的なものであることを雄弁に物語っていた。
最初にマイクの前に立ったのは、議長国である日本の沢村総理だった。
彼の顔には、この数ヶ月の心労が深い皺となって刻まれている。だがその瞳には、これから自らが投下する爆弾の重みを、全て背負う覚悟の光が宿っていた。
「――世界の市民の皆様。そして報道関係者の皆様」
沢村の声が、マイクを通して静かに、しかし力強く響き渡った。
「本日、我々四カ国は人類の未来を、そして我々が生きるこの世界のあり方そのものを根底から変えうる、新たな時代の幕開けを、ここに共同で宣言するために参集いたしました」
その、あまりにも荘厳な第一声。会場が息を呑む。
「我々は、皆様もご存知の、我々の協力者である高次元存在『KAMI』より、新たな、そしてあまりにも巨大な機会を提示されました。それは、我々が暮らすこの現実世界に『ダンジョン』と呼ばれる、未知なる、しかし無限の可能性を秘めた異空間を創り出すという計画です」
ダンジョン。
その一言が静寂を打ち破った。
SF? ファンタジー? ゲームの話か?
だが沢村は、その動揺を手のひらで静かに制した。
「皆様の困惑は当然のことです。我々もまた最初はそうでした。ですが、これは紛れもない現実です。このダンジョンは、我々の世界の地下深くに創り出される広大な迷宮です。その内部には、我々の世界には存在しない生態系――『モンスター』と呼ばれる、時に危険な、しかし同時に、我々の文明に計り知れない恩恵をもたらす貴重な資源をその身に宿した生物が生息しております」
そして彼は、その恩恵の具体的な内容を、まるで夢のカタログをめくるかのように語り始めた。
「ダンジョン内部では、現代の科学では精製不可能なレベルの『希少金属』が、無尽蔵に採掘可能となります。そして何よりも、モンスターを討伐することで得られる『魔石』。それは、石油に代わる完全にクリーンで、半永久的な次世代のエネルギー源です。それは、世界の食糧問題を根源から解決する“奇跡の肥料”です。そしてそれは、あらゆる傷や病を癒す“万能の治癒薬”の原料ともなるのです」
その、あまりにも甘美で、そして抗いがたい奇跡の羅列。
会場の、懐疑に満ちていた空気が、徐々に熱を帯びていくのが分かった。
「このダンジョンに挑み、その恩恵を人類にもたらす勇気ある者たち。我々は彼らを、敬意を込めて『探索者』と呼ぶことになるでしょう。彼らは富と名誉と、そして人類の未来をその手で切り拓く、新しい時代の真のフロンティア・スピリットの体現者となるのです」
沢村の演説が終わった。
次にマイクの前に立ったのは、アメリカのトンプソン大統領だった。彼は、この壮大なプロジェクトが単なる夢物語ではない、具体的な、そして熱狂的な未来であることを、その比類なきカリスマをもって世界に叩きつけた。
「友よ! 市民よ! そして未来の探索者たちよ!」
トンプソンのバリトンの声が、会場全体を震わせた。
「我々は今日、歴史の目撃者となる!これは単なる新技術の発表ではない!これは、我々“人類”という種が、その活動領域を“物理的な次元”から“概念的な次元”へと拡張する、新たな『パラダイム・シフト』なのだ!」
彼は両腕を大きく広げた。
「だが我々四カ国は、このあまりにも巨大な変革を、独善的に進めるつもりは毛頭ない!我々は、このダンジョンがもたらすであろう計り知れない影響を、真摯に受け止めている!故に我々は世界に呼びかける!“この新しい世界のルールを共に作ろうではないか”と!我々はこれから、G7、国連安保理、そして世界中の全ての国家・企業・専門家たちと対話し、この新しいフロンティアにおける“公正で安全で、そして持続可能なルール”を、幅広く意見を求めながら、共に築き上げていくことを、ここに固く誓う!」
その、あまりにも力強く、そしてあまりにも巧みなリーダーシップの表明。世界は熱狂した。
四カ国は独占するのではない。世界を導こうとしているのだと。
そして彼は、その演説の最後に、最大の、そして最も熱狂的な爆弾を投下した。
「我々四カ国は、この壮大な準備期間を経て、今からちょうど一年後を目標として、世界で最初の“公式なダンジョン”を同時に実装することを目指す!一年だ! 一年後、君たちの、我々の日常は永遠に変わる!“新たなる冒険の時代”が、今、始まるのだ!」
一年後。
その、あまりにも具体的で、そしてあまりにも短いタイムリミット。
それが全世界の想像力に、決定的な火をつけた。
【世界の反応】
その記者会見の映像は、瞬く間に世界を駆け巡った。
そして世界は燃え上がった。
異世界ゲート構想、ローマ教皇の奇跡――それら全てを過去のものとして吹き飛ばすほどの、巨大な一つの熱狂の炎。
それはもはや単なるニュースではなかった。“お祭り(フェスティバル)”だった。
――東京・秋葉原。
中央通りに面した巨大なビルの壁面に設置された大型ビジョン。そこに映し出されるジュネーブからの生中継に、道行く全ての人々が足を止め、その非現実的な光景に釘付けになっていた。
その群衆の中で、一人のどこにでもいるような大学生・ケンタは、スマートフォンのゲームをプレイする指を止め、呆然と画面を見上げていた。
ダンジョン。モンスター。魔石。探索者。
彼が愛してやまないゲームの世界の言葉が、今、この国の総理大臣の口から“現実の言葉”として語られている。
「……マジかよ」
彼の口から乾いた声が漏れた。
「レベル上げして、レアアイテム拾って、金持ちになれるってことかよ…? 俺のこのクソみたいなバイト生活も終わり…?」
彼の隣で、同じように画面を見ていた友人たちが歓声を上げる。
「やべえ! 俺、絶対“探索者”になるわ!」
「会社辞める! 明日、辞表叩きつけてやる!」
「とりあえず体力つけねえと! 今日からジム通うぞ!」
彼らの瞳には、もはや何の根拠もない、しかし何よりも力強い“未来への希望”の光が燃え上がっていた。
それは、この国の、そして世界の、何億という若者たちの“心の叫び”そのものだった。
#DungeonAge(ダンジョン時代) #ExplorerLife(探索者ライフ) #MagicStoneDream(魔石ドリーム)。
SNSは瞬く間に、新しい時代の到来を祝う熱狂的なキーワードで、完全に埋め尽くされた。
――ニューヨーク・ウォール街。
世界経済の心臓部、証券取引所のフロアは、怒号と歓声が入り乱れる“戦場”と化していた。
「魔石関連株、買いだ! 買い! 買い!」
「エネルギー関連、全部売り浴びせろ! 石油の時代は終わったんだ!」
トレーダーたちは狂ったように受話器に叫び、キーボードを叩きつけていた。
まだ存在さえしない「魔石」を採掘するであろう企業の株価がストップ高を記録し、その一方で、これまで世界の経済を支配してきた巨大石油メジャーの株価は、歴史的な暴落を見せていた。
“富の大移動”。新しい時代の“新しいゴールドラッシュ”。
その、あまりにも分かりやすい物語に、世界中の投機マネーが津波のように押し寄せていた。
――インド・ムンバイの巨大なスラム街、ダラヴィ。
一つの粗末な家に、十数人の家族が、一台の小さな古いテレビの前に、身を寄せ合うようにして集まっていた。
画面の中で、遠い国の指導者が語る夢のような物語。飢えも、病も、貧困もなくなる新しい世界。
「…父さん。俺たちも、あの“探索者”ってやつになれるのかな…?」
痩せた腕をした十歳の少年が、父親に問いかけた。
父親は何も答えられなかった。
ただ、その息子の、これまで見たこともないほどキラキラと輝いている瞳を、見つめ返すことしかできなかった。
その瞳の中には、自分たちの世代が決して見ることのできなかった「希望」という名の眩い光が宿っていた。
熱狂。興奮。そして希望。
世界は一つの巨大な、そして甘美な夢に酔いしれた。
その夢の裏側で、これから始まるであろう国家間の、そして人間同士の醜い利権争いや、法整備という地獄のような現実から巧みに目を逸らしながら。
誰もが“一年後に約束された輝かしい未来”だけを信じていた。
――官邸の地下司令室。
沢村総理と九条官房長官は、その“四つの身体”で世界中を覆い尽くす、その熱狂の奔流を、ただ静かに見つめていた。
モニターには、歓喜の声を上げる世界中の人々の顔が、無数に映し出されている。
「……上手くいきましたな、総理」
九条が静かに言った。
「ガス抜きとしては、これ以上ないほどの効果です。ゲート構想も宗教問題も、この熱狂の前では、しばらくは些末な問題として忘れ去られるでしょう」
「ああ。だがな、九条君」
沢村は、疲れた声で答えた。
「我々は今日、世界中に“決して払うことのできない手形”を切ってしまったのかもしれんぞ」
一年後。
その、あまりにも短く、そしてあまりにも重い約束の時。
その時までに、自分たちは本当にこの混沌を収拾し、世界に“ダンジョン”という新しい現実を提示することができるのだろうか。
彼の脳裏には、あの絶望的なまでに長い議題のリストが、再び浮かび上がっていた。
「……九条君」
本体の沢村が、まるで世界の全ての重みをその肩に背負ったかのような声で呟いた。
「我々に“休む日”は来るのだろうか」
その問いに、九条は答えなかった。
ただ、彼の“四つの身体”のうちの一つが静かに立ち上がり、主君のために新しい熱い茶を淹れ始めただけだった。
彼らの眠らない夜は、まだまだどこまでも続いていく。
史上最大のショーは終わった。
だが、本当の戦いはこれからだった。




