第85話
深夜。東京とワシントン、北京、モスクワ。
四つの首都を結ぶ最高機密のバーチャル会議室は、激論が残した熱と、そして結論の出ない不毛さへの深い疲労感に満ちていた。
日本の官房長官、九条が投じた「他国にも相談すべき」という、あまりにも正論な、そしてあまりにも面倒な提案。
それは三つの超大国の剥き出しの野心に、かろうじて冷や水を浴びせることには成功した。
だが、それは問題の解決ではなかった。
ただ、自分たち四カ国だけでは背負いきれないほどの巨大な爆弾を、どうやって他の国々を巻き込みながら安全に処理していくかという、さらに複雑で、そしてより多くのプレイヤーが参加する新しい地獄のゲームの始まりを告げたに過ぎなかった。
KAMIの姿はそこにはない。
神はいつものように全てを丸投げし、高みの見物を決め込んでいる。
この盤上にいるのは、神の不在を良いことに、あるいは神の不在故に、この世界の未来を真剣に(そして自国の利益のために)考えざるを得ない四人の人間だけだった。
「――では、会議を再開する」
「先ほどの議論を踏まえ、一つの妥協案を提示したい」
九条は三人の顔を、ゆっくりと見渡した。
「我が国の意見が通り、この『ダンジョン』という、あまりにも巨大なプロジェクトは、G7や国連安保理といった世界の主要なステークホルダーと情報を共有し、その合意形成を図りながら進める。これは決定事項とさせていただきたい」
その言葉に、アメリカのトンプソン大統領が、まだ不満の色を隠せない顔で頷いた。
中国の王将軍とロシアのヴォルコフ将軍は、面白くないという表情で沈黙している。
「ですが」と九条は続けた。
「彼らを議論のテーブルに着かせるにしても、我々四カ国が全くの手ぶらというわけにはいかない。それではただ無責任に混乱の種をばら撒くだけです。
我々はまず主催国として、この新しい世界の『大枠』――いわば叩き台となる基本草案を、責任をもって提示する義務がある」
そして彼は、この数日間、沢村総理と共に不眠不休で練り上げた、その壮大な青写真の骨子を、淡々と、そして事務的に語り始めた。
「まず、ダンジョン内でモンスターを倒すことで得られる全ての物品――魔石、アイテム、希少金属の所有権は、第一発見者、すなわちそれを討伐あるいは採掘した『探索者』本人に帰属するものとする。これは自由主義経済の、そして個人の努力を尊重するという大原則です」
その言葉に、トンプソンがわずかに頷いた。
だが九条は、すぐに釘を刺した。
「ただし、その所有権は無制限なものではない。探索者は、ダンジョンから持ち出した全ての物品を、各国に設立される『探索者公式ギルド』に届け出、そしてそれをギルドが定めた『一定額』で売却する義務を負うものとする」
「そして、その各国ギルドを統括する絶対的な上位組織として、『国際公式ギルド』を設立する。この国際ギルドが、全てのルールの頂点に立つ」
「特に、戦略物資の塊である『魔石』については、ギルドによる優先的な、そして強制力を持った買い取りを徹底する」
「最後に、ダンジョン内でのあらゆる活動は、探索者個人に装着を義務付けたウェアラブルカメラによって常に記録されるものとする。その記録映像は国際ギルドのサーバーにリアルタイムで転送され、AIによる監視システムと、人間の監視官によって、24時間体制で違法行為がないかをチェックする」
その、あまりにも官僚的で、そしてあまりにも管理主義的な巨大なシステムの骨格。
それは、自由な冒険と厳格な管理という、決して相容れない二つの概念を、無理やり一つの檻に押し込めたかのような歪な怪物だった。
「……なるほどな」
最初に口を開いたのはトンプソンだった。
「個人の自由な活動を認めつつ、その果実は国家が管理すると。社会主義的自由経済とでも言うべきか。実に君らしい折衷案だ、長官」
その声には、皮肉と、そしてそれ以上の感嘆の色が滲んでいた。
「ですが長官」と王将軍が鋭く切り込んだ。
「その『国際公式ギルド』の意思決定は、誰が行うのかね? G7か? 国連か? それとも我々四カ国か? 最も重要な点が曖昧ではないかね」
「その通りだ」とヴォルコフ将軍も続いた。
「買取価格の『一定額』とは誰が決める? ライセンスの発行権限は? 罰則は? 君が提示したのは美しい骨格だけだ。その骨にどのような肉をつけ、どのような血を流すのか。悪魔はそこにこそ宿る」
その、あまりにも的確な指摘。
だが九条は、それを待っていた。
彼は、まるで巨大な地獄の釜の蓋を開けるかのように、手元の端末に、この日のために用意してきたもう一枚の資料を、円卓の中央に投影した。
そこに映し出されたのは、おびただしい数の、そして一つ一つが国家の存亡を左右しかねない、絶望的なまでの議題のリストだった。
「――おっしゃる通りです、将軍。ですので、これからその詳細を、皆様と共に一つ一つ決めていかなければなりません」
九条の声が、静かに、そして無慈悲に、その地獄のリストを読み上げ始めた。
「まず、カテゴリー1。『探索者』の定義と権利義務について」
「資格要件。年齢制限は? 例えば18歳未満の活動は、保護者の同意があっても認めるべきではないと考えますが、異論は?
精神鑑定はどの程度のレベルまで義務付けるか?
重犯罪歴のある者、特にテロ組織への関与が疑われる人物の資格は、永久に剥奪すべきと考えますが、その『重犯罪』の定義は、各国の国内法に委ねるのか、国際ギルドが統一基準を設けるのか?」
「ランク制度。探索者の能力に応じてランクを設けるのは、安全管理上必須でしょう。
しかし、その昇格試験は誰が、どのような基準で実施するのか? 実技か? 筆記か?
KAMI様に適性診断をお願いするという手もあるが、神の気まぐれな判断に、我々の制度の根幹を委ねるのは、あまりにも危険ではないか?」
「労災・保険。ダンジョン内での死亡は労働災害か、それとも自己責任か。これは各国の社会保障制度の根幹を揺るがす問題です。
もし労災と認めるならば、その保険料は誰が負担するのか。国家か? ギルドか? それとも探索者自身か?」
「チーム内の分配ルール。ギルドが介入すべきではない、というのが我が国の考えですが、アメリカの自由契約社会と、中国の集団主義とでは、その思想が根本から異なる。
このルールを国際的に統一する必要があるのか、ないのか?」
九条はそこで一度、息をついた。
だが、それは地獄の序章に過ぎなかった。
「カテゴリー2。『ギルド』の構造と役割について」
「国際ギルドの意思決定機関。これは、国連安保理と同様の常任理事国制度を導入するのが現実的でしょう。
そして、その最初の常任理事国の椅子に、我々四カ国が座る。これは譲れません。
ですが、その上でG7や地域大国を非常任理事国として、どの程度の権限で参加させるのか?」
「買取価格。これは国際的な基軸通貨であるドル建てで固定価格とすべきか。
それとも各国の経済力に応じた変動相場制を導入し、購買力平価を考慮すべきか。
前者であればアメリカが有利になり、後者であれば経済はより複雑化する」
「カテゴリー3。『ダンジョン』の管理と法的位置づけについて」
「治外法権。私は、ダンジョン内部は国際ギルド法が適用される、南極大陸のような特殊な領域とすべきであると考えます。
ですが、そうなれば出現国の主権を著しく侵害することになる。この妥協点をどう見出すか?」
「罰則規定。ダンジョン内で起きた殺人事件は誰が裁くのか。ギルドの法廷か? 出現国の裁判所か? あるいはハーグの国際司法裁判所か?
死刑制度の有無など、各国の法体系の根本的な違いを、どう乗り越えるのか?」
「カテゴリー4。『モンスター』及び『資源』の取り扱いについて」
「モンスターの権利。今は討伐対象で良いでしょう。
ですが、もし人語を解し、交渉を求めてくる高度な知性を持つモンスターが出現したら?
その時、我々は彼らを『討伐』するのか、それとも『対話』するのか。
これは、我々人類が初めて異種知性体との共存を問われる、究極の倫理問題です」
「魔石の流通管理。軍事利用をどう制限するのか。
魔石を利用した新兵器の開発は、核兵器と同様の国際的な査察と規制の対象とすべきではないか?
その査察は、誰が、どのような権限で実施するのか?」
「そして最後に、カテゴリー5。社会・倫理的側面について」
「探索者の監視映像。プライバシーはどこまで守られるべきか。
テロ対策を名目に、国家がその映像を国民監視のツールとして利用する危険性は?」
「そして最大の、そして最も解決困難な問題。ダンジョン非出現国との格差問題。
我々四カ国がこの莫大な富を独占するのであれば、それは新たな帝国主義の始まりに他ならない。
我々はその富の一部を、非出現国への開発援助として、どの程度還元する義務があるのか。
あるいは、そもそもその義務は存在するのか?」
九条がその、絶望的なほど長く、そして重いリストを読み上げ終えた時。
バーチャル会議室は完全な沈黙に包まれていた。
トンプソンも、王将軍も、ヴォルコフ将軍も。
それまでこの新しいゲームの美味しい果実のことしか考えていなかった三人の権力者たちの顔から、完全に血の気が引いていた。
彼らは今、ようやく自分たちが開けようとしていたパンドラの箱の、その本当の大きさと、その底知れない深淵さを理解したのだ。
「……………」
長い長い沈黙の後。
最初に呻くような声を上げたのは、トンプソンだった。
「……長官。君は我々に、聖書を丸ごと一冊一晩で書き上げろと、そう言っているのかね…?」
その声には、もはや覇者の傲慢さはない。
ただ、あまりにも巨大な現実の前にひれ伏した、一人の人間の深い深い徒労感だけがあった。
「その通りです、大統領」
九条は静かに、そして無慈悲に肯定した。
「そして我々には、その時間がない。世界は我々の答えを待っているのです」
その言葉に、王将軍が珍しく弱々しい声で言った。
「……専門家が必要だ。政治家や軍人だけでは、もはや手に負えん。法律家、経済学者、科学者、倫理学者…あらゆる分野の最高の頭脳を結集させなければ」
「ええ。そうですね。では、そういうことで」
九条はその言葉を待っていたかのように、この地獄の会議を締めくくった。
「とりあえず、このあまりにも巨大な宿題を解決するための専門の委員会を、国連の下に、あるいは我々四カ国の合同組織として早急に設置する。
そして、その委員会にこの問題の全ての検討を一旦委ねる。…流石に我々だけではこれ以上は無理です。専門家が必要だ。皆様、それでよろしいですかな?」
その、あまりにも官僚的で、そしてあまりにも現実的な責任の先送り。
それに反対する者は、もはや誰もいなかった。
三人の指導者たちは、まるで難破船の船長のように、力なく、そして深く頷いた。
会議は終わった。
だが、彼らの戦いはこれからだった。
神が不在のまま。
神が投げ込んだ、あまりにも巨大なパズルを前に、人間たちは自らの知恵と、そしてエゴと、そして何よりも自分たちの限界と向き合わなければならない。
その長く、そしてどこまでも終わりのない「調整」という名の新しい地獄が、今まさに、その重い重い幕を開けたのだった。




