第84話
深夜。東京とワシントン、北京、モスクワ。
四つの首都を結ぶ最高機密のバーチャル会議室は、欲望という名の熱に浮かされていた。
数日前、日本の官邸に突如として現れたKAMIが投下した、あまりにも巨大な爆弾。
現代社会に『ダンジョン』を創り出すという、狂気の沙汰としか思えない神の新規事業計画。
その情報は、九条を通じて即座に三国へと共有されていた。
そして今日、彼らはその爆弾の処理方法について――いや、その爆弾が秘める莫大なエネルギーを、いかにして自国のものとするかについて――人類の代表として話し合うために集まったのだ。
KAMIの姿は、そこにはない。
彼女はいつものように全てを丸投げし、高みの見物を決め込んでいる。
この盤上にいるのは、神の不在を良いことに剥き出しの欲望を隠そうともしない、四人の人間だけだった。
「――では、第八回・四カ国定例首脳会議を始めます」
議長役である日本の九条官房長官が、氷を思わせる平坦な声で開会を宣言した。
彼の四つの身体(本体と分身)は、この会議のために完璧な分業体制を敷いていた。
議長を務める本体、書記に徹する分身、そして残る二つの身体は、この会議と並行して、国内のゲート構想を巡る泥沼の調整会議と、異世界アステルガルドとの技術供与交渉を同時に処理し続けている。
彼らの意識は、もはや人間のそれではなく、国家という巨大なサーバーを管理する並列処理AIに近かった。
「本日の議題は、KAMI様より新たに提示されました新規プロジェクト――コードネーム『ダンジョン』に関する、四カ国合同での基本方針策定についてです。
まず、皆様にはKAMI様よりご提出いただいた、並行世界における先行事例の資料をご覧いただきたいと思います」
九条が手元の端末を操作すると、円卓の中央に巨大なホログラムの地球儀が浮かび上がった。
だが、その地球儀は彼らが知るものとは全く異なっていた。
日本列島と北米大陸が、病的な、しかし抗いがたいほど力強い翠色のオーラで脈動している。
まるで惑星の癌細胞のようにも、あるいは新たな生命体の誕生のようにも見えた。
「これは…?」
アメリカのトンプソン大統領が、その猛禽類のような鋭い瞳を細め、思わず身を乗り出した。
「KAMI様が観測されたという、我々の世界と極めて似通った歴史を歩みながら、十五年前に『ダンジョン』が出現した並行世界の地球の、現在の勢力図です」
九条は淡々と、その驚くべき世界の姿を解説し始めた。
彼の声は、これから語られるであろう夢のような未来を前にしてもなお、葬儀の弔辞のようにどこまでも冷めていた。
「この世界では、日本とアメリカが『ダンジョン大国』として、世界の経済と技術の覇権を完全に掌握しております」
ホログラムの映像が切り替わる。
そこに映し出されたのは、SF映画監督でさえ想像力の限界を嘆くであろう、夢の光景だった。
薄くスライスされた夜空の闇を、そのまま閉じ込めたかのような黒曜石の輝きを持つ半透明の板。
それがスマートフォンの背面に触れた瞬間、バッテリー残量が瞬時に100%になる。
その板を乳鉢で丁寧にすり潰し、砂漠のように乾ききった大地に撒く。
すると、種を蒔かれたばかりの小麦が、まるで神の早送りの映像のようにみるみるうちに芽を出し、黄金色の穂を垂れ、数分後には収穫の時を迎えている。
その粉末を精製水で溶いて軟膏状にし、兵士の腕に刻まれた生々しいナイフの傷に塗る。
すると傷口から淡い光が放たれ、皮膚が、筋肉が、血管が、まるで意思を持ったかのように繋がり合い、数秒後には傷跡一つない滑らかな肌が再生されている。
「ダンジョン内部で産出される『魔石』。これが、この世界の産業革命の引き金となりました」
九条の声が静かに響く。
「次世代のクリーンエネルギー、食糧問題の完全なる解決、そして再生医療の劇的な進歩…。
魔石は石油に代わる、いや、それを遥かに凌駕する究極の戦略資源として、この世界の文明レベルを、我々の世界よりも数十年先へと押し上げたのです」
四人の男たちは言葉を失っていた。
ただ呆然と、その魔法のような光景に見入っていた。
「そして、この魔石の最大の産出国が、日本とアメリカです」
九条は最後の、そして最も決定的なデータを表示した。
そこには各国のGDPと、そして『探索者ギルド』からの税収を示す、もはや数字というよりは天文学的な記号にしか見えない文字列が並んでいた。
「この世界では『探索者』は所得税を免除されています。
その代わり、各国に設立された公式ギルドが、その収益の一定割合を『上納金』として国家に納める。
その税収だけで、日本とアメリカはそれぞれ、年間10兆円規模の新たな歳入を得ています。
その結果、両国は過去十五年間、一度の不況も経験することなく、超好景気を謳歌し続けている――まさに夢の世界です」
ホログラムが消え、会議室に重い沈黙が戻る。
その沈黙を破ったのは、トンプソン大統領の、抑えきれない歓喜の爆笑だった。
「はははは! はーっはっはっは! 見たか諸君! さすがアメリカだ! 別の世界でも我々は勝ち組じゃないか! 素晴らしい! 実に誇りに思うよ!」
その、あまりにもアメリカ的な、そして剥き出しの喜びの表明。
それに中国の王将軍が、冷ややかに、しかしその目の奥に嫉妬の炎を燃やしながら追従した。
「……ふん。実に興味深いデータですな。日本とアメリカが先行しているのは癪に障るが、中国とロシアもその後を猛追している。…良い。実に良いではないか」
ロシアのヴォルコフ将軍も満足げに頷いた。
「うむ。この世界で我々が彼らに奪われた覇権を、新しい世界では取り戻せるかもしれん」
三つの大国の剥き出しの野心。
彼らはもはや何の疑いも持っていなかった。
この『ダンジョン』という新しいゲームは、自分たちの国を、そして世界を、より良き場所へと導く神からの贈り物なのだと。
「良いな! ぜひこの世界にもダンジョンを実装しようではないですか!」
トンプソンが高らかに宣言した。
「今すぐにでも始めるべきだ! 九条長官、KAMI君にそう伝えてくれ! 我々アメリカはいつでも準備OKだと!」
その、あまりにも楽観的で、そしてあまりにも危険な提案。
それに沢村総理が待ったをかけた。
「ちょっと待ってください、大統領!」
彼の声は珍しく、そして必死だった。
「気持ちは分かります。ですが、あまりにも拙速すぎる! 我々はまず法整備をしなければいけません!
この資料が示す輝かしい未来の、その裏側にある計り知れないリスクを、あなた方は本当に理解しておられるのですか!」
沢村は、この数日間、九条と共に不眠不休で洗い出した、おびただしい数の問題点を、矢継ぎ早に突きつけ始めた。
「『探索者』の人権は? 労働者としての権利は誰が保障するのですか?
ダンジョン内で死亡した場合の責任の所在は? 遺族への補償は?
モンスターを殺すという行為は、法的にどう位置づけるのですか?
動物愛護の観点からの批判は、どうするのですか?」
「魔石や希少金属の所有権は発見者にあるのですか? それとも国家に帰属するのですか?
その取引に消費税はかかるのですか? 国境を越えて持ち出された場合の関税は?
新たな密輸ルートが生まれる危険性は?」
「そして、何よりも!」と沢村の声が上ずった。
「この資料には、ダンジョン内部での犯罪についての記述が一切ない!
もし探索者同士が宝を巡って殺し合いを始めたら?
治外法権の迷宮の中で起きた殺人事件を、一体どこの国のどの法律で裁くというのですか!」
その、あまりにも現実的で、そしてあまりにも厄介な問題点の奔流。
「…暫定でも良いので、まず基本的な『探索者法』とでも呼ぶべきルールを、我々四カ国で策定しなければ、絶対に、絶対に世界は取り返しのつかない大混乱に陥ります!」
その、魂からの悲痛なまでの叫び。
だがトンプソンは、それを鼻で笑った。
「総理。君は石橋を叩いて、叩きすぎて、渡る前に壊してしまうタイプの人間だな」
彼の声には、親愛なる、しかし少しばかり頭の固い友人への呆れの色が滲んでいた。
「ルールは走りながら作ればいい! それがフロンティアというものだろう?
コロンブスは新大陸の法律が決まるのを待ってから航海に出たかね?」
「ですが!」
沢村がさらに食い下がろうとした、その時。
九条がその肩にそっと手を置いた。
「総理。少しよろしいですかな」
彼は主君を制すると、静かに、しかしその場の空気を完全に支配する冷徹な声で言った。
「大統領。そして将軍。沢村総理が申し上げているのは、単なる国内法の問題ではありません。
これは、我々四カ国だけで完結する問題ではないと申し上げているのです」
彼は三人の顔を、ゆっくりと見渡した。
「この件は、ゲート構想以上に不可逆的に世界を変えてしまいます。
ダンジョンから産出される魔石や希少金属は、必ずや世界市場へと流れ出す。
それは既存のエネルギー市場、資源市場を根底から破壊するでしょう。
中東の産油国やアフリカの資源国は、一夜にしてその国家の基盤を失うかもしれない。
我々は、その衝撃に備えなければならない」
「そして『探索者』という、国籍に縛られない力を持つ新しい階級の出現。
彼らは傭兵のように金を求めて、世界中のダンジョンを渡り歩くようになるでしょう。
彼らを誰がどう管理するのか。これは、もはや一国の問題ではない。全世界の安全保障の問題です」
九条はそこで一度、大きく息を吸った。
「故に。この問題は、我々四カ国だけで決めるべきではない。
少なくともG7の他のメンバーや、国連安保理の常任理事国。
あるいは世界中の主要なステークホルダーを輪に入れて、事前に徹底的にその影響と対策について相談すべきです。
それが、この世界の秩序に対する、我々四カ国の最低限の責任であると考えます」
その、あまりにも正論な、そしてあまりにも「面倒くさい」提案。
それに最初に苛立ちを表明したのは、やはりトンプソンだった。
「長官。君の言うことは理想論としては理解できる。だが現実的ではない!」
彼は吐き捨てるように言った。
「そもそもダンジョンが出現するのは、我々四カ国だけなのだろう? KAMI君はそう言っていたではないか!
なぜ、まだダンジョンもない国々の顔色を窺う必要がある? 他国に関係あるのか!?」
その、あまりにも剥き出しの超大国としてのエゴ。
それに九条は、初めてその鉄仮面の下にある、人間的な深い深い疲労と、そして諦観の色を浮かべた。
彼は、もはや説得することを諦めたようだった。
ただ静かに、そしてどこまでも重い声で言った。
「……大統領。流石に相談すべきです」
その一言には、もはや論理も駆け引きもなかった。
ただ、この狂った世界の最後の理性の砦であろうとする、一人の官僚の魂からの祈りのような響きだけがあった。
「ゲートよりも遥かに不可逆的に世界を変えてしまうのです。この決定だけは、どうか慎重に…!」
その、あまりにも切実な日本の懇願。
会議室は再び重い沈黙に包まれた。
三つの大国の剥き出しの野心と、
一つの島国の孤立した理性。
世界の運命は、またしてもこの、あまりにも人間臭く、そしてあまりにも不毛な会議のテーブルの上で、その行き先を見失っていた。




