第82話
深夜。東京、橘栞のマンションの一室。
その部屋は、世界の運命を左右する神の玉座であると同時に、今や地球上で最も静かで、そして最も情報が集まる場所となっていた。
壁一面に投影されたホログラフィック・ディスプレイには、世界中のあらゆる場所のリアルタイム映像と、絶え間なく更新される膨大なデータストリームが、美しい光の川となって流れている。
官邸の地下司令室、ワシントンのシチュエーションルーム、アステルガルドの前線基地、そして世界中のSNSのトレンド。
その全てが、この部屋に集約されていた。
その膨大な情報の奔流を、一人の少女が、静かに、そして退屈そうに眺めていた。
ゴシック・ロリタのドレスに身を包んだKAMI。
彼女は、本体である橘栞が並行世界へと旅立って以来、この部屋を一歩も出ることなく、世界の監視者として、そして本体との唯一の接続点として、その役目を果たし続けていた。
彼女自身が動くことはない。必要があれば、彼女は自らの思考から新たな「対外活動用の分身」を生成し、官邸へ、あるいは世界のどこへでも派遣するのだ。
その、あまりにも平穏で、そしてどこか孤独な日常の中に、それは何の兆候もなく、しかし必然として訪れた。
KAMIがちょうど、ホログラムのディスプレイで日本の最新アニメの最終回を鑑賞し、その感動的なシーンでわずかに瞳を潤ませていた、まさにその時。
彼女の目の前の空間が、まるで水面のように、静かに波紋を描き始めた。
「……あら」
KAMIはアニメの再生を一時停止した。
波紋の中心が、漆黒の、しかしその奥に無数の銀河が渦巻いているかのような美しい亀裂となって、ゆっくりと口を開く。
そして、その次元の亀裂の眩い光の中へと、一人の女性が、まるで長い散歩から帰ってきたかのように、優雅な足取りで歩み出てきた。
シンプルな白いTシャツに、動きやすいカーゴパンツ。
その肌は、南国の太陽を浴びたかのように健康的な小麦色に焼けている。
そこには、純粋な好奇心と、そして心の底からの休息を得た者だけが浮かべることのできる、穏やかで人間的な笑みが浮かんでいた。
橘栞。
本体の帰還だった。
「ただいま」
栞はソファに座る、もう一人の自分に向かって、ひらひらと手を振った。
「ん。お帰り」
KAMIはどこか拗ねたような、しかしその声の奥には確かな安堵の色を滲ませて、短く答えた。
二人の栞。
創造主とその代理人。
オリジナルと、その完璧なコピー。
数週間ぶりに一つの部屋で再会した二つの存在は、互いに言葉を交わすことなく、ただ数秒間じっと見つめ合った。
やがて栞は満足げに頷くと、自室のワークチェアへと歩み寄り、深く、深く、その身を沈めた。
「あー疲れた。やっぱり自分の椅子が一番ね」
彼女は数週間ぶりに味わうその感触に、心の底から安堵のため息をついた。
「並行世界、なかなか面白かったわよ。良い休暇になったわ」
その、あまりにも暢気な第一声。
それにKAMIは、少しだけ呆れたような、そして少しだけ意地悪な声で返した。
「へー。まあ常に同期してたから、何してたかは知ってるけど」
彼女は指先で空中にホログラムのウィンドウを呼び出すと、栞の「休暇」のハイライト映像を、皮肉たっぷりに再生し始めた。
「完全にバカンスモードだったわね。最初の三日間なんて、知的生命体のいない手付かずの自然が残る並行世界の地球で、ひたすら南国風ビーチで遊んだり、泳いだり、バーベキューしたり。あれ何しに行ったのよ、あなたは」
ウィンドウには、エメラルドグリーンの海でイルカと共に泳ぎ、夜は満天の星空の下で焚き火を囲む、あまりにも楽しげな栞の姿が映し出されている。
「いいじゃない、それくらい」
と栞は悪びれもせずに笑った。
「たまにはそういうのも必要なのよ。神様だって休む時は休むの」
「あなたはまだ神様じゃないでしょ」
「細かいことは気にしない」
KAMIはふんと鼻を鳴らすと、次の映像を映し出した。
今度は打って変わって、荒涼とした、しかしどこか見覚えのある都市の風景だった。
「まあ、その後の調査は、まあまあ有意義だったみたいだけど。特に…」
彼女は映像の一点を指さした。
そこには、現代的な高層ビルの谷間に、まるで異世界の遺跡のように不気味な光を放つ、巨大な洞窟の入り口が、ぽっかりと口を開けていた。
「そうだ! 現代にダンジョンが出現した世界は、楽しかったわ!」
栞はその映像を見て、子供のようにはしゃいだ。
それは、彼女のゲーマーとしての魂を、最も激しく揺さぶった世界だった。
「あの世界ではね、数年前に突如として、世界中の都市部にああいう『ダンジョン』が出現したのよ。中には、ゴブリンやオークみたいなファンタジーのモンスターがうじゃうじゃいてね。最初は世界中が大パニックになったんだけど、人間ってやっぱり逞しいわね。すぐにそのダンジョンを資源と見なして、『探索者』っていう新しい職業まで作って、攻略し始めたのよ」
「あなたも潜ったみたいね。ご丁寧に現地でギルド登録までして」
KAMIが呆れたように言う。
ウィンドウには、冒険者ギルドの受付で偽名を使い、得意げにポーズを決める栞の姿が映し出されていた。
「当たり前じゃない! あんな面白いものが目の前にあって、潜らないわけがないでしょ!」
栞はその時の興奮をありありと思い出しながら語った。
「それでね、そのダンジョンを視認したら、ほら見て!」
彼女は自らの目の前に、スキル『賢者の石』のウィンドウを呼び出した。
そのスキルツリーの最も新しい枝の先に、一つの、そしてとんでもない項目がアンロックされている。
『――ダンジョンを出現させる』
「このスキルが『賢者の石』に出たの!」
栞は興奮を隠せない様子で言った。
「これを見た瞬間、閃いたわ。この世界にもダンジョンを作れるんじゃないかって」
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もちろん、こんな重大な仕様変更、私一人で決めるわけにはいかないから、すぐに神様達と相談したわよ」
彼女は今度は『TERRA-DIVINITY-NET』のチャットログを、ホログラムで映し出した。
[Jesus Christ]: おや栞さん! 旅先からかい? 楽しんでいるようだね!
[Hermes]: なになに? 新しいスキル? もしかして超レアなアイテムでもゲットしたのか!?
Shiori_KAMI: (ダンジョンについての概要を説明)…というわけでして。この世界にもこの『ダンジョン』を実装してみようかと思うのですが皆様どう思われますか?
[Buddha]: ほう。迷宮ですかな。人間の煩悩の数だけ試練がある。面白い。実に面白いですな。悟りへの新たな道となるやもしれませぬ。
[Shiva]: ダンジョン! 新しいステージか! そこで踊ればきっと新しい宇宙のリズムが生まれるぜ! 大賛成だ!
[Amaterasu]: えーなんか暗くて怖そうじゃない? でも中にお宝とかあるならいいかも! 天岩戸よりは広そうだし!
[Zeus]: うむ! 試練! 英雄は試練によってこそ磨かれる! 若者たちに新たな冒険の舞台を与えるのは神の務めであろう!
[Jesus Christ]: うんいいね! みんな楽しそうだ! 栞さん良いじゃないかそれ!人々が困難に立ち向かい手を取り合いそして成長していく。それこそ僕が最も見たかった光景だよ! 面白いという話になったしぜひやってみると良い!
「というわけで、神様達のお墨付きも貰ったの」
栞は得意げに胸を張った。
「だから私、この世界にダンジョンを出現させたいわね」
その、あまりにも無邪気な、そしてあまりにも壮大な新しいプロジェクトの宣言。
それにKAMIは、深い、深いため息をついた。
「へー、ダンジョンね」
彼女の声は、この数週間、この部屋から一歩も出ずに、対外活動用の分身たちを指揮し、人間たちの、あまりにも面倒な調整事に付き合わされ続けた、司令塔としての疲れ果てた声だった。
「でも、今の世界がダンジョン出現して混乱しない? 大丈夫?」
「うーん、そこよね」
栞もさすがに、その一点だけは懸念しているようだった。
「でも、見返りはそれ以上に大きいのよ。見て」
彼女は、並行世界のダンジョンで採取してきたという、一つの黒い結晶をポケットから取り出した。
それは、闇夜の星々をそのまま閉じ込めたかのように、内側から無数の微細な光を放っている。
「これ『魔石』っていうの。ダンジョンのモンスターを倒したり、ダンジョン内で採掘したりすると手に入る、万能物質よ」
彼女は、その驚異的な性能を、プレゼンテーションのように語り始めた。
「凄いのよ、これ。まず砕いて土に混ぜれば、作物の成長速度を数百倍にまで引き上げる、最高の肥料になるの。促成栽培できるし、これでイスラム世界以外でも、食糧問題は完全に解決できるわ」
彼女は魔石を手に取ると、近くに置いてあったバッテリーが切れかけのスマートフォンに、そっと触れた。
「それに、見てて。『充電しろ』って念じれば…」
彼女がそう念じた瞬間。
魔石から放たれた微弱な光がスマートフォンへと流れ込み、そのバッテリー残量が、一瞬で100%になった。
「スマホのバッテリーを即充電できるの。それも、思考するだけで。これはクリーンで、半永久的に使える、究極のエネルギー源よ。まさに夢の物質ね」
その、あまりにも魅力的で、そして抗いがたい奇跡の物質。
だがKAMIは、もはやその程度の奇跡では驚かなかった。
彼女が見ているのは、その奇跡がこの世界にもたらすであろう、新たな混沌だった。
「はぁ…」
彼女は心の底から、もう何度目になるか分からない深いため息をついた。
「ゲート構想に、宗教家の奇跡に、異世界に、魔法(因果律改変)に…。その上にさらにダンジョンを乗っけるのよ?」
彼女は頭を抱えた。
「完全にキャパオーバーよ。これ以上、何をどう調整しろって言うのよ。
ただでさえ、沢村さんと九条さん、もう限界よ? これ以上仕事増やしたら、あの人たち、分身ごと過労で蒸発しちゃうわよ。人類は潰れちゃうわ!」
その、あまりにも切実な現場からの悲鳴。
それに栞は、初めて少しだけきょとんとした顔をした。
そして、心底不思議そうに言った。
「何よ。やけに人類の肩をもつじゃない」
「……!」
KAMIは言葉に詰まった。
そうだ。自分はいつから、こんなに人間たちのことを心配するようになったのだろうか。
本体である彼女は、ただ自分の好奇心と究極の目標のためだけに動いている。
だが、この世界に残り、彼らの苦悩を、愚かさを、そしてそれでもなお必死に足掻くその姿を、この情報端末を通してずっと見続けてきた自分は――。
いつの間にか、彼らに対して、非効率な、そして非合理的な「情」のようなものを抱いてしまっていたのかもしれない。
その分身の、ほんのかすかな心の揺らぎを、栞は見逃さなかった。
だが彼女は、それを追及することはしなかった。
ただ静かに、そして揺るぎない確信と共に言った。
「大丈夫よ。人類はそんなにやわじゃないわ」
彼女は自らの胸にそっと手を当てた。
「人類の私が言うのよ。絶対大丈夫よ」
その、あまりにも力強い、そして根拠のない絶対的な肯定。
KAMIは、もはや何も言うことができなかった。
(……自認は人類なんだ…)
彼女は内心でため息をついた。
(神なのに、我ながらなんというか…。まあ、そういうところも含めて私なんだけどね…)
「分かったわよ」
KAMIは観念したように肩をすくめた。
「じゃあ、ダンジョンの話は私がしとくわ。対外活動用の分身(あの子たち)に指示して、あの人たちに伝えさせる」
「ええ、よろしく」
栞はにこりと満足げに微笑んだ。
そして彼女は、まるで母親が娘に言い聞かせるように付け加えた。
「それと、私がいない間、甘いものばかり食べ過ぎ。少し控えなさい。データログに残ってるわよ」
「……はーい」
KAMIは少しだけ不満そうに、しかし素直に頷いた。
これで準備は整った。
これからこの世界に、また一つ新しい、そしてとてつもなく巨大な混沌の種が蒔かれることになる。
その、あまりにも重い事実を前に、KAMIは最後の、そして最も重要な質問を、自らのオリジナルに投げかけた。
「……それで、いつ、誰に、どうやって伝えるの? この悪夢のような、新しいプロジェクトを」
その問いに栞は、窓の外の東京の夜景を見つめながら、少しだけ考え込んだ。
そして、極めて合理的な、そして聞かされる側にとっては極めて非情な結論を、あっさりと、そして楽しそうに口にした。
「そうねえ。まずは日本政府かしら。一番扱いやすいし」
その言葉が、日本の、そして世界の次なる地獄の始まりを告げる、静かな、しかし確かなゴングの音だった。
KAMIは、これからまた胃を痛めるであろう哀れな中間管理職たちの顔を思い浮かべ、そっと天を仰いだ。
自分の、そして彼らの休まる日は、まだまだどこまでも遠いようだった。




