第78話
ということがあって、日本政府は意気消沈の極みにあった。
深夜、首相公邸の執務室は、もはや墓場のような静寂に支配されていた。沢村総理と九条官房長官、そして彼らの完璧な分身たち。四つの身体はそれぞれ別の執務机に向かってはいたが、その手は完全に止まっていた。
彼らの目の前のホログラムモニターに、同じ一枚のリストが表示されている。
KAMIが、莫大な金塊と引き換えに売り渡した十人の名前。
『高精度予知能力・潜在的適格者リスト』。
青森の老婆、高知の漁師、渋谷のニート…。この国を未曾有の災害から救うかもしれない十人の救世主のリスト。
だが、今の彼らの目には、それは救世主のリストには見えなかった。
それは、人類の知りたくもなかった未来を白日の下に晒してしまうかもしれない、十人の『パンドラ』のリストだった。
「……どうするのだ、九条君」
数時間ぶりに、沢村の本体がかすれた声で言った。
「このリストを我々はどうすればいい。彼らを探し出すのか? 育成するのか? そして、彼らに何を見させるのだ? この国の、そして人類の終わりか…?」
その声には、もはや一国のリーダーとしての力強さはない。ただ、自らの無力さを悟った一人の男の、深い深い絶望だけがあった。
九条もまた、答えることができなかった。彼の、神のスキルで強化されたはずの超高速思考は、この問いの前では完全に沈黙していた。
あらゆる選択肢をシミュレートしても、その先に待っているのは、程度の差こそあれ、全て『地獄』という二文字だけだった。
その絶望的なまでの膠着状態を破るように、執務室の最高機密回線が、甲高い電子音を響かせた。
ディスプレイに表示されたのは、ワシントンのホワイトハウス。星条旗を背にした、アメリカ合衆国大統領ジョン・トンプソンの顔だった。
彼の顔には、まだ何も知らない者の、楽天的な好奇心の色が浮かんでいた。
『――総理。夜分にすまない。例の件、君の国の須田教授から、アステルガルドの『地震予知魔法』についての詳細なレポートが、我が国の地質調査所にも共有された。素晴らしい! 実に素晴らしい技術じゃないか! これさえあれば、我々が恐れるカリフォルニアの大地震『ビッグワン』も、完全に予測可能になるかもしれん! ついては、我が国もKAMIに同様の技術供与を正式に要請したいと考えているのだが…君の国ではもう具体的な話は進んでいるのかね?』
その、無邪気な、そして今の沢村たちにとっては、残酷な問いかけ。
沢村は、モニターの向こうの盟友の顔を、ただ黙って見つめ返すことしかできなかった。
そして、彼はこの地獄を自分たちだけで抱え込むことは、もはや不可能であると悟った。
「……大統領。少し長話になりますが、よろしいですかな」
沢村は、ゆっくりと、そして重々しく語り始めた。
彼は、この数時間で自分たちがKAMIから何を告げられたのか、その全てをありのままに、トンプソンに伝えた。
予知能力者の、絶望的なまでの希少性。
そして何よりも、予知がもたらす『責任』という名の無限の地獄。
回避不能な災害。知りたくもなかった人類の終焉。
その、重い神の問い。
モニターの向こう側で、トンプソンの顔から、楽天的な好奇心がみるみるうちに消え失せていく。
彼の、百戦錬磨の政治家としての顔が、驚愕に、そしてやがて沢村と同じ、深い苦悩の色に染まっていく。
「…………」
沢村が全てを話し終えた時、シチュエーションルームは、官邸の執務室と全く同じ重苦しい沈黙に包まれていた。
トンプソンはしばらくの間、天を仰ぎ、何かを必死に考えていたが、やがて呻くように言った。
「……うーむ。いや、日本政府の気持ちも分かる。災害予知が出来たら、そりゃ良いからなぁ……。我が国の国民も、それを知れば熱狂するだろう。だが…」
彼は言葉を詰まらせた。「だが、そんな恐ろしい副作用があったとは…」
その時だった。
まるで出来の悪い生徒たちの議論に痺れを切らした教師のように、二つの国の最高機密回線に、何の断りもなく割り込んできた。
彼女のゴシック・ロリタ姿が、トンプソンの目の前のホログラムモニターにもポップアップする。
『――ッ!? KAMI君!』
「やあ、大統領。久しぶり」
KAMIはひらひらと手を振ると、心底面倒くさそうに言った。
「あなたたち、話が長いのよ。結論から先に言いなさい。だから、予知はやるの? やらないの? どっち?」
その、直接的で、そして無慈悲な問い。
「……それは」
トンプソンは言葉に窮した。「それは、重い問題だ。我々人間だけで、軽々に結論を出せるものでは…」
「そう?」
KAMIは首を傾げた。
「じゃあ、もっと分かりやすく説明してあげるわ。あなたたちが今、触ろうとしているものが、どれだけ厄介で面倒くさいものなのかを」
そして彼女は、この宇宙の根源的なルールについて語り始めた。
「良いこと?」
KAMIは、二人の世界のリーダーに向かって、まるで小学生にでも教えるかのように、指を一本立てた。
「この宇宙はね、巨大な、そして信じられないくらい複雑な一枚の織物のようなものなの。因果律のタペストリーよ。一本一本の糸が、過去から現在、そして未来へと無数に絡み合いながら、この世界の『現実』という模様を織りなしている」
彼女は指先で、空中に美しい光のタペストリーの映像を描き出した。
「あなたたち、小さい小さい人類の歴史なんて、このタペストリー全体から見れば、ほんの隅っこの小さな刺繍模様に過ぎないわ。でも、その小さな模様でさえ、何十億、何百億という無数の糸が、複雑に絡み合ってできている」
「そして『予知』というのは、このタペストリーの未来の模様を先に覗き見る行為。
そして『因果律改変』というのは、その模様を、無理やり別の模様に織り変えようとする行為よ」
彼女は、タペストリーの一本の糸を指でつまむ仕草をした。
「でも考えてみて。この無数に絡み合った糸の中から、たった一本の糸を無理やり引き抜いたらどうなる?」
彼女がその指を引くと、ホログラムのタペストリーは、その一点から大きく歪み、引きつれ、そして全く予期しなかった場所で、大きな綻びが生まれた。
「そう。タペストリー全体が歪むのよ。小さい、ほんの小さい事件が、一億年後の人類の運命を左右する。それが、この世界の本当の姿なの」
彼女は、具体的な、そして恐ろしい「if」の物語を語り始めた。
「例えば、あなたたちの歴史に、ある偉大な政治家がいました。彼は、その短い生涯の中で、数々の名言と教訓を後世に残した。そして、志半ばで暗殺されました。…さて、もしあなたが、その暗殺を予知して回避したら? どうなると思う?」
「彼は生き延び、さらに偉大な業績を残すかもしれない。そう思うでしょう? 甘いわね」
KAMIは鼻で笑った。
「彼が暗殺されるということで、初めて彼の言葉は伝説となり、永遠の輝きを持つことになったとしたら? 生き延びた彼は、晩節を汚しただの、権力に固執する老害として、歴史から忘れ去られてしまうかもしれない。その結果、彼が残したはずの名言は誰の心にも残らなくなり、その教訓は忘れ去られてしまう。
そして一億年後の人類は、かつて彼が警鐘を鳴らした同じ過ちを繰り返し、そして今度こそ滅びました。…みたいなことが、平気で起きちゃうわけよ」
「あるいは、もっと個人的なレベルの話でもいいわ」
彼女は、次の、より生々しい例を挙げた。
「ある組織がテロを起こす計画がなかったら? その結果、ある事故が起きずに、一人の平凡な少年は生き延びます。素晴らしいことね。
しかし、その少年が数年後、自暴自棄になって通り魔事件を起こし、何の罪もない一人の若い女性を殺してしまう。その女性こそが、未来の人類を救う特効薬を発見する、偉大な科学者に繋がるはずの人物だったとしたら? …そういうことが平気で起きるわけ」
「並行世界を観察してると」
KAMIは、まるで面白い映画のレビューでも語るかのように言った。
「そんな皮肉な出来事がゴロゴロしてるの。善意の改変が最悪の結果を招く。悪意の行動が、結果的に世界を救う。因果とは、そういう気まぐれで、そして残酷なものなのよ」
彼女は、二人の呆然とするリーダーたちを見つめた。
「あなたたち人類が、ここまで生き延びてきたのは、それ自体が奇跡なの。分かる? 実際、あなたたちの歴史、冷戦は貴方の国とソ連だったわよね? 核戦争の危機なんて山ほどあっただろうしね。その一つでも、誰かが違うボタンを押していたら。あなたたちは、今ここにはいないのよ」
「……では」
トンプソンが、ようやくかすれた声で言った。
「では予知は無意味だというのか? 我々は、ただ運命の前に無力だというのか…?」
「我が国も、予知は避けたほうが良いかな…?」
「うーん。そこが問題なのよね」
KAMIは、少しだけ考えるように黙った。
「運命はね、強固なのよ。あなたたちが思うよりずっと。それは、無数の因果律の糸で雁字搦めになってる。だから、少しくらいあなたがタペストリーの糸を引っ張ったところで、結局は元の模様に収束しようとする強い力が働くの。だから、決定してしまった運命を覆すなんて、ほとんど不可能。だから、いっそのこと予知しても良いんじゃない? どうせ結末は変わらないのだからと」
その、悪魔的な、そして絶望的な囁き。
「…でも、もしその変えられない運命が、人類滅亡に紐付けされていたら?」
沢村が呻くように言った。
「そう。詰みね」
と、KAMIはあっさりと答えた。
「知ることで分かる地獄もある、ということ…。どちらを選ぶかは、あなたたち次第よ」
その、究極の、そして不条理な選択肢。
知らずに滅びの道を歩むか。
知った上で、絶望と共に滅びの道を歩むか。
会議室は、もはや世界のリーダーたちの密談の場ではなかった。
一人の神を前に、自らの存在のあまりの無力さを突きつけられた、二人のただの人間が苦悩する懺悔室だった。
「…………」
長い長い沈黙の後、最初に顔を上げたのは沢村だった。
その顔には、もはや絶望の色はなかった。
あるのは、この理不尽な世界で、それでもなお自らの責務を果たさなければならないという、一人の政治家の静かな、そして揺るぎない覚悟の光だった。
「……しかし、政治家は地獄でもなんとかしようと足掻かなければいけない」
彼は、自分自身に言い聞かせるように言った。
「たとえその運命が変えられないとしても。たとえその先に滅びしか待っていないとしても。我々は、国民からその未来を託されている。ならば、我々の仕事は、その滅びの瞬間を一日でも一時間でも先延ばしにし、そしてその最後の瞬間まで、一人でも多くの国民が、穏やかに、そして幸福に暮らせるように、全力を尽くすことだ。…それしかない」
その、悲壮な、しかし気高い決意の言葉。
それに、トンプソンもまた、深く深く頷いた。
「……ああ。まあね。それもそうだな。それが、我々の仕事だ」
その二人の男たちの、愚かで、しかしどこまでも尊い覚悟の姿。
それをKAMIは、初めてその赤い瞳に、穏やかな、そしてどこか愛おしむような光を浮かべて見つめていた。
「……そうね」
彼女は静かに言った。
「だから、ロシアのプーチン大統領は、少しだけ道を間違えているのよ」
彼女は、プーチンとの、あの密室での対話を二人に語り始めた。
「彼は『では神になった私が、そのくだらない運命とやらを力ずくで破壊してやればいい』とか言ってたけどね。それは、とても傲慢で、そしてとても孤独な考え方だわ」
「なぜなら」
と、彼女はこの日の最後の、そして最も重要な神の言葉を告げた。
「この、不条理でバグだらけの世界で。決して変えられない運命の前で、それでもなお諦めず足掻き、そして、ほんの少しでもより良い未来を次の世代に繋ごうとする。その、愚かで無駄で、しかしどこまでも美しい不完全さこそが、人間は――だから素晴らしいんだわ」
その、予期せぬ絶対的な人間賛歌。
沢村とトンプソンは言葉を失った。
自分たちが今この瞬間に下した、その苦渋の決断そのものを。
この気まぐれな神は、祝福してくれている。
その、温かい、そして重い真実。
KAMIは満足げに頷くと、もう用事は済んだとばかりに、すっとその姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして神から最も重い十字架を、しかし同時に最も尊い祝福を与えられてしまった、二人のただの男だけだった。
彼らは互いの顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく、深く深く頷き合った。
地獄は続く。
だが、その地獄を歩む覚悟は、今、確かに決まったのだから。
彼らの眠らない戦いは、またしても新たな、そしてより深い意味合いを持って、始まろうとしていた。




