第74話
その日、日本の各界から千人の男女が忽然と姿を消した。
ある者は、大学の研究室で素粒子物理学の難解な数式と格闘している最中に。
ある者は、警視庁の道場で警棒術の師範として、若き警察官たちに活を入れている最中に。
ある者は、自らのアトリエで次の個展に出すための巨大なキャンバスに、油絵の具を塗りたくっている最中に。
彼らの元に現れたのは、内閣官房の黒印が押された一枚のそっけない召集令状だった。『国家安全保障に関わる新規重要プロジェクトへの参加要請』。拒否権はない。
彼らはその身分を一時的に「凍結」され、家族や同僚にさえその行き先を告げることを許されず、黒塗りの車に乗せられ、一つの場所へと集められていった。
場所は、茨城県つくば市。日本の科学技術の粋を集めた研究学園都市。そのさらに奥深く、地図には存在しない広大な森に囲まれた一つの巨大な施設。
表向きは、数年前に閉鎖された旧・高エネルギー加速器研究機構の跡地。だが、その内部は九条官房長官の直轄の指揮の下、この日のために密かに、そして徹底的に改装されていた。
コードネームは、『月読・高等因果律研究所』。
日本の、そして世界の未来を根底から覆す禁断の知識を探求するための、秘密の学園。
集められた千人の男女は、巨大な講堂に不安げな表情で座っていた。
物理学者、数学者、プログラマー、医師、武道家、芸術家、音楽家、棋士、そしてなぜか宗教家やマジシャンまで。その顔ぶれは、あまりにも雑多で統一性がない。
共通しているのは、ただ一つ。それぞれの分野で常人にはない突出した「集中力」、「想像力」、あるいは「信念の強さ」を持つと、政府のAIによって判定された者たち。
彼らは、これから自分たちの身に何が起きるのか、全く知らされていなかった。
やがて、壇上に一人の男が立った。
九条官房長官。その鉄仮面のような無表情が、巨大なスクリーンに映し出される。
彼は、一切の前置きも弁明もしなかった。
ただ、静かに、そして残酷なまでに真実を告げた。
「――本日、皆様にお集まりいただいたのは他でもない。我が国、日本で最初の**『魔法技術者』**になっていただくためだ」
魔法。
その一言が、千人の天才たちの理性を揺さぶった。
九条は彼らの動揺を意に介さず、この世界のありのままの姿を淡々と説明していく。KAMIの存在。因果律改変能力の現実。そして、米中露が既にその軍事利用に向けて走り出しているという、絶望的な現実を。
講堂は、怒号と失笑と、そして純粋な好奇心の渦に包まれた。
「馬鹿な!」「非科学的だ!」「我々を集団催眠にでもかけるつもりか!」
そのあまりにも当然な、知性の抵抗。
それを、九条は待っていた。
「……信じられないと。当然でしょうな」
彼は静かに言った。「では、皆様にご理解いただくための最も手っ取り早い方法をお見せいたしましょう」
彼がそう言った、その瞬間。
壇上の彼のすぐ隣に。
何の前触れもなく。
音もなく。
あのゴシック・ロリタ姿の少女が、すぅっと姿を現した。
千人の天才たちが、同時に息を呑む。
映像で、何度も見た。だが、目の前でその存在を直接観測する。その衝撃は、比較にならなかった。
彼女は、神だった。
あるいは、悪魔だった。
ただ、人間ではない何か、絶対的な存在だった。
KAMIは、千の視線が自分に突き刺さっていることなど全く意に介していない様子で、退屈そうに一つあくびをした。
そして、九条から分厚いファイルの束を受け取った。そこには、集められた千人の全ての個人情報が詳細に記されている。
「ふーん。これが、今回の生徒のリストね」
彼女は、そのリストをぱらぱらと、雑誌でもめくるかのように数秒間眺めた。そして、興味なさそうにそのファイルを壇上のテーブルにぽいと放り出した。
「まあ、こんなものでしょう」
彼女はそう言うと、ぱちんと可愛らしい音を立てて指を鳴らした。
「はい、付与完了」
その瞬間。
講堂にいた千人の男女全員が、同時に奇妙な感覚に襲われた。
頭の中で、何かが「カチリ」と音を立ててはまるような感覚。
脳のこれまで使われていなかった領域に、新しいOSがインストールされるかのような、微かな、しかし明確な違和感。
「今、あなたたち全員に因果律改変能力を学ぶための『補助輪スキル』を付与したわ」と、KAMIはこともなげに言った。
「これで、あなたたちは魔法を学ぶためのスタートラインに立った。おめでとう」
彼女は、まるでゲームのチュートリアルでも始めるかのように、その小さな手を腰に当てた。
「良いこと? これからあなたたちが学ぶのは、『魔法』よ。難しく考えないで。要は、この世界というバグだらけの巨大なプログラムをハッキングする技術だと思えばいいわ」
彼女のあまりにも不敬な、しかしプログラマーや科学者である者たちの心には、奇妙なほどすんなりと理解できる比喩。
「そして、あなたたちが最初にマスターすべき最も基本的なコマンド。全ての始まりの呪文。それが、『光あれ(フィアット・ルクス)』よ。プログラミングで言うところの、『Hello, World!』ね。これが出来なければ、話にならない」
彼女は、講堂の一点を見つめた。そこには、日本を代表するノーベル賞候補の老物理学者が座っていた。
「そこのお爺さん。あなた、光とは何か知ってる?」
「ひ、光とは、電磁波の一種であり、粒子と波の性質を併せ持つ…」
老学者が、どもりながら答える。
「そうね。100点満点中、30点の答えだわ」と、KAMIはあっさりと切り捨てた。「あなたたちがまず捨てなければならないのは、そのガチガチに凝り固まった常識と知識よ。光は、電磁波じゃない。光は、『光であれ』とあなたがこの世界に命令した時に生まれるもの。ただ、それだけ。理由はない。法則もない。ただ、あなたがそうであると100パーセントの純度で信じきることができた時、世界はあなたのその『観測』に合わせて、その姿を変えるの」
そのあまりにも非論理的で、そしてあまりにも傲慢な世界の真理。
千人の天才たちの理性が、悲鳴を上げる。
「でも、どうやって信じろって言うのよ…。無理よ、そんなの」
誰かが、か細い声で呟いた。
「だから」と、KAMIはにっこりと悪魔の笑みを浮かべた。「あなたたちに、最初の、そして最も重要な宿題を出すわ」
彼女は指先で空中に一枚の巨大な画像を映し出した。
それは、日本のとある国民的な人気を誇る格闘漫画のワンシーンだった。主人公が両掌に青白い光のエネルギーを集め、それを敵に向かって解き放とうとしている。
「あと、アニメや漫画を読みまくりなさい」
「…………は?」
講堂にいた全員の思考が、完全に停止した。
「だから」と、KAMIは続けた。「この施設には、古今東西ありとあらゆる漫画、アニメ、ゲーム、ライトノベルが、数十万冊完備されているわ。あなたたちは、これから十日間、それをただひたすらに読み、見続けなさい。ただし、ただ見るんじゃないわよ? 自分がその主人公と全く同じことが出来ると、心の底から強く、強く思い込みながら読むの」
彼女は、まるでとんでもない真理でも語るかのように、その奇妙な訓練法の核心を説明し始めた。
「あなたたちの理性を縛る最大の枷は、あなたたち自身の『常識』よ。『人間は空を飛べない』、『手から光は出ない』。その当たり前の前提を、一度完全に破壊する必要がある。そのために最も効率的なのが、これらの物語よ。物語の中では、超常的な力は当たり前の日常として描かれている。その世界に、深く、深く没入しなさい。そして、自分と主人公を完全に同一化させるの。これは、一種の自己催眠であり、洗脳よ。そうやって、あなたたちの脳に新しい『常識』を強制的に上書きするの」
「とりあえず、それで『光あれ』ぐらいは出来るようになるわ。もし筋が良ければ、十日もあれば魔法が使えるようになるわよ。まずは、その**『光あれ』の修行ね**」
そのあまりにも馬鹿馬鹿しい、しかしその理論は奇妙な説得力を持つ、神の教授法。
九条は、壇上の脇でその一部始終を無表情のまま見守っていた。彼の脳内では、(この施設に数十万冊の娯楽作品を、極秘裏に、かつ迅速に運び込むためのロジスティクスと予算確保に、どれだけの苦労があったことか…)という、あまりにも官僚的な悲鳴が上がっていた。
KAMIは、ふとその九条の方をちらりと見た。そして、彼にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「……本当は、もっと手っ取り早い方法があるんだけどね」
「…と、申されますと?」
「軍人じゃないから、使えないのよ」と、KAMIは心底残念そうに唇を尖らせた。「相手が軍人なら、簡単だったわ。徹底的に模擬戦で痛めつけて、その心を一度完全にへし折ってやるの。そして、死の恐怖のどん底で、魔法の力で救済してあげる。そうすれば、彼らはその力を神からの絶対的な救いとして、何の疑いもなく受け入れるから。…この荒業が使えないなんて、本当に残念だわ」
そのあまりにも非人道的で、そしてあまりにも効率的な洗脳術。
九条の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
「まあ、良いわ。あなたたち、頑張ってね」
KAMIは、千人の生徒たちに、にこりと無邪気な笑みを向けた。
「十日後、またここに来るわ。その時、『光あれ』が出来るようになった生徒には、私が個別にコーチをして、その適性を見ながら、次のステップに進ませてあげる。いわば、教師ね。それじゃ、解散!」
そのあまりにも一方的な号令。
そして、KAMIは来た時と同じように、ふっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして自らの常識が完全に破壊されてしまった、千人の呆然とした天才たちだけだった。
その日から、月読研究所は世界で最も奇妙で、そして最も知的な巨大な漫画喫茶、あるいは合宿所と化した。
巨大な図書館には、物理学の専門書の隣に『ドラゴンボール』の全巻が並べられ、スーパーコンピュータが置かれた計算室では、若きプログラマーたちが『魔法科高校の劣等生』を読みながら、「CAD(術式補助演算器)の基本構造に関する考察」などという狂気のレポートを作成している。
道場では、屈強な武道家たちが座禅を組みながら、ひたすら『NARUTO -ナルト-』の印の結び方を練習している。
アトリエでは、芸術家たちが『ジョジョの奇妙な冒険』の奇妙なポージングを、真剣な顔で取り続けていた。
それは、滑稽な光景だった。だが同時に、壮絶な光景でもあった。
日本の最高の知性たちが、そのプライドと理性の全てをかなぐり捨てて、ただひたすらに自らの脳を騙すためだけの、内面への戦いを挑んでいたのだ。
物語は、三人の対照的な候補者に焦点を当てる。
一人は、佐伯という三十代の若き物理学者。彼は、このプロジェクトに最も懐疑的だった。
「馬鹿げている…。これは、壮大な集団心理実験だ。光? 因果律改変? 全てはプラシーボ効果か、あるいは我々の知らない何らかの科学的トリックに過ぎない」
彼は漫画を読むことを拒否し、自らの知識だけで『光あれ』の物理的なメカニズムを解明しようと試みた。掌の生体エネルギーを光子へと変換する? 周囲の大気中の原子を励起させて発光させる?
彼は、あらゆる数式を立て、シミュレーションを行った。だが、彼の掌から光が生まれることは、決してなかった。
一人は、ユナという二十代前半の若きイラストレーターだった。彼女は、この状況を最も楽しんでいた。
「すごい! すごい! まるで、異世界転生したみたい!」
彼女は、子供の頃から大好きだった『カードキャプターさくら』や『美少女戦士セーラームーン』のアニメを、来る日も来る日も見続けた。
彼女は、難しい理屈など考えなかった。ただ、憧れの魔法少女たちが光の杖を振るうその美しい光景を、その目に、心に焼き付けた。そして、自らがその光の中心にいることを、ただ純粋に、そして強くイメージし続けた。
三日目の夜。
彼女が自室で小さな声であの呪文を唱えた、その瞬間。
「――闇の力を秘めし鍵よ…!」
彼女の小さな掌の上に、ぽっと。
桜色の、温かい光が生まれた。
一人は、剣崎という五十代の古武術の達人だった。彼は、一切の漫画もアニメも見なかった。
ただひたすらに、道場の床で座禅を組み、瞑想を続けていた。
彼は、KAMIの言葉を自分なりに解釈していた。
『思い込む』。それは、我ら武の道で言うところの、『気』の集中そのものだと。
彼は、自らの身体の内側に、その中心に存在する生命エネルギーの核を感じようとしていた。そして、その『気』を練り上げ、高め、そして一つの形として外界へと放出する。
五日目の早朝。
夜明け前の静寂の中。
彼が、「喝!」という短い気合いと共に目を見開いた、その瞬間。
彼の鍛え上げられた掌の上に、太陽のような鋭く、そして力強い白い光の塊が、轟音と共に現れた。
一人、また一人と、光は灯り始めた。
その報は、瞬く間に千人の候補者たちの間に伝播した。
光を灯した者たちは、惜しげもなく自らの「コツ」を仲間に教え始めた。
「俺は、スーパーサイヤ人になるイメージでやったらできたぞ!」
「私は、好きなアイドルのコンサートのペンライトの光を思い浮かべたら…」
「拙僧は、仏の後光を…」
皮肉なことに、KAMIが破壊しようとした「知識」と「論理」が、この段階に至って再びその力を発揮し始めたのだ。
成功例のデータが蓄積され、共有され、体系化されていく。
そして、十日目の最後の夜。
あれほど懐疑的だった物理学者の佐伯もまた、ついにその光をその手に灯していた。
彼は、結局、物理学を捨てることはできなかった。だが、彼はその解釈を変えたのだ。
「…そうか。これは、物理法則を捻じ曲げているのではない。我々がまだ観測できていない、高次元の物理法則にアクセスしているだけなのだ…!」
その科学者らしい苦しい、しかし彼にとっては唯一可能な「解釈」が、ついに彼の理性のリミッターを外したのだった。
十日後。
講堂には、再び千人の候補者たちが集結していた。
だが、その顔には十日前の不安と懐疑の色はない。
あるのは、自らの手で常識を打ち破ったという確かな自信と、そして次なるステージへの熱狂的な期待感だった。
千人のうち、およそ七割。七百名以上の男女が、この十日間で『光あれ』をマスターしていた。
壇上に、再びKAMIが姿を現す。
彼女は、満足げにその光景を眺めた。
「まあ、上出来じゃない。思ったより、筋が良いのが多かったわね」
彼女は、個別コーチをすると宣言した。
「じゃあ、光を灯せるようになった人から私の前にいらっしゃい。あなたの適性を見てあげるわ」
最初に歩み出たのは、イラストレーターのユナだった。
彼女が掌に光を灯すと、そこにはふわりとした温かい桜色の光が生まれた。
KAMIは、その光を値踏みするように見つめた。
「ふーん。あなた、適性は創造と治癒ね。その光は、人を癒し、生命を育む力を持っているわ。分かりやすく言えば、白魔道士タイプ。将来は、優秀なヒーラーになれるわね」
次に歩み出たのは、古武術の剣崎だった。
彼が気合いと共に光を灯すと、それは鋭いレーザー光線のような白い光のビームとなって、一直線に天井を貫いた。
「あなたのは、破壊と強化ね。分かりやすい、戦闘魔道士タイプ。その光を自らの肉体に纏えば鋼鉄の鎧となり、剣に纏えばあらゆるものを切り裂く光の刃となるでしょう」
最後に、物理学者の佐伯が恐る恐る前に進み出た。
彼が光を灯すと、それは小さな、しかし完璧な球体の光となって、彼の周囲を衛星のように静かに、そして正確に周回し始めた。
「あら、面白いわね、あなた。あなたの適性は、構築と制御よ。あなたは、光を感覚ではなく、数式として理解している。いずれ、複雑な魔法陣を組み上げ、大規模な結界や自動防衛システムを作り出すことができるようになるでしょう。そうね、青魔道士、といったところかしら」
KAMIは、一人、また一人と、その生徒たちの魂の奥底に眠る才能の「色」を見抜き、そしてそれぞれが進むべき道を示していった。
攻撃魔法、防御魔法、治癒魔法、幻術、エンチャント…。
千差万別の才能。
日本の最初の七百人の魔法使いたちは、今まさに神の教師から、自らの天命を告げられていた。
全ての個人指導を終えたKAMIは、満足げに壇上の脇に控える九条に振り返った。
「どう? 私、結構、教師に向いてるんじゃない?」
その無邪気な問いに、九条は何も答えず、ただ深々と、そして畏敬の念を込めて頭を下げただけだった。
日本の秘密の、そして最強の魔法技術者たちの軍団。
その産声が、今、確かにこの国の最も深い場所で、高らかに上がっていた。
そのあまりにも恐ろしい、そしてあまりにも頼もしい新しい力が、これからこの国を、そして世界をどこへ導いていくのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
ただ、神の気まぐれな授業が始まったという、その事実だけを除いては。




