第73話
日曜の夜。
その日の日本は、一日中沸騰したままだった。
朝の討論番組が投じた重い問い。「魔法を学ぶべきか否か。民間か、自衛隊か」。その問いは日本中を二つに引き裂き、SNS、ニュースサイト、そして家庭の食卓に至るまで、終わりのない、そして答えの出ない大論争を巻き起こしていた。
平和憲法を掲げる国の理想と誇り。
神の力を手にした超大国に囲まれた島国の冷徹な現実。
その板挟みの中で、国民は自らがよって立つべき座標を完全に見失っていた。
そして、その国民の混乱の全ての責任を負う者たちが集う場所。首相官邸、閣議室。
重厚な一枚板の円卓を囲むのは、この国の最高意思決定機関である内閣の閣僚たちだった。
部屋の空気は、鉛のように重い。誰もが、朝の討論番組を見ていた。そして、自分たちが今まさに戦後日本の歴史における最も困難な決断を下さなければならないことを、痛いほど理解していた。
議長席に座る沢村総理の顔には、神のスキルによる超回復能力をもってしても隠しきれない、深い、深い心労の色が刻まれていた。彼の四つの身体(本体と分身)は、この数時間、絶え間なく関係各所からの報告を受け、この会議のための根回しにその全てを費やしていた。だが、根回しなど意味をなさない。今日の議題は、それほどまでにこの国の根幹に関わる問題だった。
彼の隣には、官房長官である九条が、いつもの鉄仮面のような無表情で座っている。だが、その指先がテーブルの下でかすかに、そして神経質に膝を叩いているのを、沢村だけは気づいていた。この感情を見せない男もまた、極度の緊張の中にいるのだ。
「……では、臨時閣議を始める」
沢村のかすれた声が、静寂を破った。
「議題は一つだ。『因果律改変能力』…通称『魔法』への我が国の対応について。先日の四カ国会議で、我が国以外の三国は既に軍におけるその技術の導入を決定した。我々は、もはや決断を先延ばしにすることは許されない。……忌憚のない意見を聞きたい」
最初に口火を切ったのは、防衛大臣の五十嵐だった。彼は元自衛官という経歴を持つ、筋金入りの現実主義者だ。
「総理。申し上げるまでもない。一刻も早く、自衛隊にこの能力を導入すべきです」
その声は、断固としていた。
「今朝の柳田君の言った通りだ。これは、もはや倫理や法律を議論している段階ではない。軍拡競争は、既に始まっているのです。我が国の隊員たちが銃剣で訓練している間に、米中露の兵士たちは魔法の盾で身を守り、瞬間移動で敵の背後を取る訓練を、今この瞬間も行っている! この『魔法格差』が、どれほど絶望的なものであるか、皆様、本当にご理解されているのか!」
彼は円卓の向かいに座る法務大臣の渋沢を、睨みつけるように見据えた。
「渋沢大臣。あなたが、そして多くの国民が懸念される法的整合性の問題。重々承知しております。ですが、憲法は国を守るためのものでしょう。国が滅んでしまっては、憲法も法律も何の意味もなさない! 今は、超法規的な措置をもってでも、国家の存亡を優先すべき時です!」
その勇ましく、そして危険な発言に、法務大臣の渋沢が静かに、しかし氷のように冷たい声で反論した。
「五十嵐大臣。あなたの危機感は理解します。ですが、あなたはこの国の根幹をあまりにも軽んじている」
彼女は、法秩序の番人としての揺るぎない信念と共に語り始めた。
「自衛隊に対する明確な法的根拠がないのです。この『魔法』という定義不能な力に対し、我々はいかなる法律の条文も持ち合わせていない。それを、ただ『危機だから』という一言でなし崩し的に自衛隊に与える。それは、法治国家としての自殺行為に等しい。一度その前例を作ってしまえば、この国はもはや法ではなく、時の権力者の判断だけで動く人治国家へと堕落するでしょう」
そして彼女は、最も本質的な問いを突きつけた。
「それに、考えてもみてください。なぜ軍事利用が先なのですか? この力は、人を癒し、災害を防ぎ、新たな産業を生み出す無限の可能性を秘めている。なぜその平和利用の可能性を、国民と共に徹底的に議論する前に、軍事利用が遅れることだけを焦るのですか? それこそが、戦後日本が七十年以上かけて必死に乗り越えようとしてきた、古い軍国主義的な発想そのものではありませんか?」
その正論な、そして理想に満ちた反論。
五十嵐は、「理想だけでは国は守れん!」と激昂し、二人の間の議論は完全に平行線を辿り始めた。
その時、これまで黙って議論を聞いていた経済産業大臣の園田が、助け舟を出すように割って入った。
「まあまあ、お二人とも。少し視点を変えてみませんか?」
彼は現実的な、しかしどこか楽観的な提案を口にした。
「そもそも、我々四カ国はKAMIとの間に『神の不戦協定』を結んでいるではありませんか。米中露がどれほど魔法兵士を増強しようとも、彼らがその力を直接我が国に向けてくることはありえない。KAMIがそれを許さないはずです。とりあえずは、大丈夫じゃないのか? 違うのか?」
その一縷の望みにすがるかのような甘い見通し。
それに答えたのは、九条だった。
彼はそれまで一度も発言していなかったが、その一言だけで閣議室の空気を完全に支配した。
「……園田大臣。それはそうです。ですが、その認識はあまりにも希望的観測に過ぎます」
九条の体温を感じさせない声が、響き渡る。
「不戦協定が禁じているのは、あくまで我々四カ国の『正規軍』による直接的な武力衝突だけです。ですが、戦争の形はそれだけではない。例えば、プーチン大統領がその力を、我が国と対立するどこかの国のテロリスト集団に、秘密裏に『伝授』したら? そして、そのテロリストが東京のど真ん中で魔法による自爆テロを起こしたら? それは、四カ国間の戦争ではありません。ロシアは、いくらでも知らぬ存ぜぬと言い張ることができる。我々は、手も足も出せないのです」
彼は続けた。その言葉は、次々と楽観論の息の根を止めていった。
「もし中国が敵対国に魔法の使い方を教え、代理戦争を仕掛けてきたら? そこは、不戦協定の適用範囲外です」
「あるいは、サイバー空間では? 魔法によって強化された超人的なハッカーが、我が国の金融システムや電力網を内部から破壊したら? それは、武力攻撃にはあたらない」
九条は、閣僚たち一人一人の顔を、その感情の読めない瞳で見渡した。
「不戦協定は、我々が互いの喉元に突きつけ合っている核のボタンのようなものに過ぎません。それは、全面戦争という最悪の事態をかろうじて抑止しているだけの、脆弱な安全装置です。その水面下では、魔法という新しい力を使った、より狡猾で、より陰湿な新しい形の戦争が既に始まっているのです。その戦場で、我々だけが丸腰でいること。それがどれほど危険なことか。ご理解いただけますかな」
その冷徹で、そして否定しようのない現実の分析。
閣議室は、重い、重い沈黙に包まれた。
理想も、希望的観測も、全てが九条の冷たい論理の前に粉々に砕け散った。
前に進めば、憲法違反のそしりを受ける。
後ろに下がれば、国家の存亡が危うくなる。
まさに、八方塞がり。
「…………」
長い、長い沈黙の後。
議長である沢村が、まるで世界の全ての重みをその一身に背負ったかのような、疲弊しきった声で言った。
「……議論は出尽くしたようだ。…そして、我々の意見が決して交わらないということも、よく分かった」
彼は、法務大臣の渋沢と、防衛大臣の五十嵐の顔を交互に見た。
「渋沢大臣の言う通りだ。我々は法治国家として、決して踏み越えてはならない一線がある。法的根拠なき自衛隊の能力増強は認められん。それは、この国の民主主義の根幹を自ら壊す行為だ」
渋沢が、安堵の表情を浮かべる。
「だが」と、沢村は続けた。「五十嵐大臣の言うこともまた、真実だ。我々は、国民の生命と財産を守る義務がある。世界の現実から目を背け、理想論だけを掲げて国を危険に晒すことは、断じて許されない」
彼はゆっくりと、閣僚たち全員の顔を見渡した。
「故に。私はここで総理大臣として、一つの苦渋の決断を下す」
「結論として、我が国は、まず民間から魔法を学ぶことにする」
その一言に、閣議室がどよめいた。
渋沢が、驚きと、そしてかすかな勝利の表情を浮かべる。
五十嵐は、絶望に顔を歪めた。「総理! ご再考を!」
「聞きなさい」
沢村は、その声を力強く制した。そして彼は、この日のために九条と二人きりで練り上げてきた、究極の、そして官僚的な「抜け道」を明らかにし始めた。
彼は、法務大臣の渋沢に直接問いかけた。
「渋沢大臣。君に一つ、法解釈について伺いたい」
「……はい」
「例えばだ。政府とは全く関係のない民間の研究機関が、独自の資金で海外から全く新しい画期的な技術…そうだな、例えば『常温核融合』の技術を学んできたとする。そして、その研究所に所属する一人の優秀な民間人の研究者が、その技術を完全にマスターしたとする」
「はい」
「その極めて高度な専門技能を持つ民間人の研究者を。後日、我が国の自衛隊が、その専門性を高く評価し、『特別職国家公務員』として、あるいは『技官』として、正規の手続きに則って採用することは、法的に何か問題があるかね?」
その回りくどい、しかし的確な質問。
渋沢は数秒間、その問いの本当の意味を探るように眉をひそめた。そして、法律家として正直に答えるしかなかった。
「……いえ。現行法上は、何ら問題ありません。自衛隊は、その任務遂行に必要な高度な専門技能を持つ人材を、民間から随時採用しております。それがプログラマーであれ、言語学者であれ、あるいは常温核融合の専門家であれ、そこに法的な瑕疵は一切ございません」
その答えを聞いた瞬間。
沢村は、そしてその隣に座る九条は、初めてその顔にかすかな、そして悪魔的な笑みの色を浮かべた。
「――ありがとう、大臣。君のそのお墨付きが欲しかった」
沢村は、言った。
閣議室にいる全ての閣僚たちが、今ようやくその真の意図に気づき始めた。
防衛大臣の五十嵐の顔が、絶望から驚愕へ、そして畏敬へと変わっていく。
「皆様、ご理解いただけたかな」と、沢村は静かに、そして力強く宣言した。「これこそが、我が国がこれから進むべき道だ」
「我々は、まず政府の予算を直接投入しない、純粋な『民間』の研究機関を設立する。もちろん、その設立資金は経団連や有志の企業からの『寄付』という形を取るがね。その研究所に、我が国の最高の頭脳と、最高の適性を持つ若者たちを集める。そして、彼らにKAMI様から『民間人』として、因果律改変能力の手ほどきを受けるのだ」
「彼らはそこで数ヶ月、あるいは一年。徹底的にその能力の平和利用…医療や防災、エネルギー開発に関する基礎研究に従事する。その成果は、もちろん広く国民に公開する」
「そして、その研究期間が終わった後。我が国の防衛省・自衛隊は、その研究所で素晴らしい成果を上げた優秀な『民間人の専門家』たちを、『たまたま』見つけ出すのだ。そして、彼らのその類稀なる『特殊技能』を、我が国の防衛のためにぜひ役立ててほしいと。三顧の礼をもって、彼らを自衛隊の特別職技官として『雇用』する」
「抜け道を作る、という戦法にするのです」
九条が、その計画の本質を冷たい言葉で締めくくった。
「自衛隊が魔法を学んだのではない。たまたま、自衛隊が正規の手続きで雇用した人間が、個人的な技能として魔法が使えた。ただ、それだけのことだと。これが、我々が見つけ出した唯一の、そして完璧な法的整合性だ」
その見事な、そして悪魔的な官僚の悪知恵。
閣議室は、完全な、そして畏敬に満ちた沈黙に包まれた。
法務大臣の渋沢は、顔面蒼白のまま、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえていた。彼女の信じる「法」が、その精神を完全に骨抜きにされ、ただの抜け道として利用されていく。その屈辱。
だが、彼女にももはや反論の言葉はなかった。
そのロジックは、法的に完璧だったのだから。
「……決定だ」
沢村が静かに、しかし重々しく告げた。「我が国は、この道を進む。異論は認めん」
それは、この国の新しい、そしてどこまでも歪んだ防衛の歴史が始まった瞬間だった。
彼らは、確かに国を守るための一歩を踏み出した。
だが、その一歩と引き換えに、彼らが何を失ったのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
ただ、九条のその鉄仮面のような表情のさらに奥底で、ほんのかすかに何かが軋むような音を立てていただけだった。




