第70話
アステルガルド、リリアン王国。その王都ライゼンの心臓たるシルヴァリオン宮殿の一角、王の私的な執務室は、暖炉で静かにはぜる炎の音だけが響く、濃密な沈黙に支配されていた。
部屋の主である老王セリオン四世は、玉座にいる時の荘厳な王衣ではなく、簡素だが仕立ての良い執務服に身を包み、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めていた。その灰色の瞳は、目の前に立つ一人のエルフの女性に、固く、固く注がれていた。
王立魔導院の長、大魔導師エルドラ。
数週間前、王国の、いや、この世界の運命をその双肩に担い、未知なる『扉』の向こう側へと旅立った、大陸最高の叡智。その彼女が今、無事に帰還したのだ。
エルドラの周囲には、王が最も信頼を置く二人の男が控えていた。王国騎士団総長ヴァレリウス公爵。そして、王国の財政を司るギデオン侯爵。彼らもまた、これから語られるであろう世界の理を超えた報告を前に、息を殺していた。
「――戻りました、陛下」
エルドラの鈴を転がすような、しかしどこまでも澄み切った声が、静寂を破った。
「ああ、エルドラ。息災であったか」と、セリオン王が安堵の息と共に応じた。「長旅、大儀であった。して、どうであった? 天上の人の国、ニホンとやらは。我らの想像を超える、摩訶不思議な場所であったか?」
その、どこか子供のような好奇心さえ滲む王の問いに、エルドラは穏やかに、そして深く微笑んだ。
「はい、陛下。いやはや、此度の旅は収穫が多すぎました。わらわがこの三百年で学び、築き上げてきた世界の常識が、全て砂上の楼閣であったと思い知らされるほどの、あまりにも…」
彼女はそこで適切な言葉を探すように、わずかに天を仰いだ。
「…あまりにも、巨大な世界でございました」
そして彼女は、まるで土産話でもするかのように、懐から一つの見事な漆塗りの小箱を取り出した。その黒い箱の表面には、金粉で繊細な鶴の絵が描かれている。
「まずは、陛下へのお土産でございます。チョコのおみやげにございます」
侍従が恭しくその小箱を受け取り、王の前へと運ぶ。蓋が開けられると、中には宝石のように艶やかな小さな黒い菓子が、寸分の狂いもなく整然と並んでいた。その一つ一つの表面には、オレンジの皮を砂糖で煮詰めたものが、上品に飾られている。
「ほう。これが、あの…」
セリオン王は、侍従が差し出した銀のフォークで、その一つを口に運んだ。
次の瞬間。
王の灰色の瞳が、驚愕に見開かれた。
「なんと! この前、ガランが献上してきたあのチョコと、まるで別物ではないか!」
濃厚なカカオのほろ苦さ。舌の上でとろける滑らかな甘み。そこまでは、知っている。だがその直後、鼻腔を突き抜ける爽やかで、そしてどこまでも芳醇な柑橘の香り。
「これは…オレンジの風味のチョコか! なんと、甘美な味だ…!」
王は、子供のようにはしゃいだ。「苦みと甘みと、そして酸味。この三つが、口の中で完璧な調和を織りなしておる! あの黒い菓子一つで、これほどの多様性を生み出すとは…! 天上の人の食への探求心、恐るべし…!」
そのあまりにも無邪気な王の反応に、エルドラはくすくすと笑った。
「陛下。驚かれるのは、まだ早うございます。チョコ以外にも、美味しい料理が、それはもう山のようにありましたぞ、王よ。特に、『フランス料理』というのが、実に美味でございました」
彼女は、日本で体験したあの驚異的な食文化について、その超感覚的な知覚を駆使して、詳細に語り始めた。
「それは、錬金術に近いものでした。肉や魚、野菜といったありふれた素材を、『ソース』と呼ばれる何十種類もの薬草や香辛料、果実を煮詰めて作った秘薬のような液体と組み合わせることで、その素材が持つ本来の味を、何倍にも、何十倍にも昇華させるのです。火の通し方一つ、塩の振り方一つにも、寸分の狂いもない計算があり、その一皿は、もはや料理ではなく、完璧に設計された芸術品でございました。ぜひ、王にも召し上がっていただきたい出来でしたぞ。我が国の王宮料理人も、一度彼の地へ料理人として留学させることも、検討したほうが良いと考えます」
その、あまりにも熱のこもった食文化の報告。
それに、苦虫を噛み潰したような顔で口を挟んだのは、騎士団総長のヴァレリウスだった。
「エルドラ殿。帰還されて早々申し訳ないが、料理の話が先に出るというのは、少し異議がある。我々が知りたいのは、食い物の話ではない。彼らの国力、軍事力、そして我らに対する意図だ」
だが彼は、すぐに自らの言葉を修正するように付け加えた。
「……いや、しかし、料理も美味いと来たか。確かに、食文化が豊かであるということは、それだけその国が裕裕であるという証でもある。我らが把握すべき国力の一つの指標として、発展していると捉えるべきでしょうな」
その武人らしい、しかし現実的な分析に、ギデオン侯爵も頷いた。
「ヴァレリウス公の言う通りじゃ」と、エルドラは本題へと話を戻した。「食文化は、あくまで彼らの文明の豊かさを示すほんの一端に過ぎぬ。わらわがこの目で見てきたものは、我らの想像を遥かに、遥かに超えるものであった」
そして彼女は、あの驚異に満ちた一日を、三人の重鎮たちに語り始めた。
天を突くガラスと鉄の塔の森。大地を滑る鋼鉄の竜(新幹線)。そして、全世界の叡智を繋ぐ魔法の蜘蛛の巣。
彼女の言葉は、もはや単なる報告ではなかった。一つの壮大な叙事詩だった。
彼女が、その超感覚的な知覚で捉えた科学文明の、その本質。
「彼らの都市は、巨大なゴーレムに似ておりました。電気という名の血液が、見えざる血管(電線)を通って都市の隅々にまで行き渡り、その心臓部である発電所が、昼夜を問わずその鼓動を続ける。一人一人の人間は、そのゴーレムを構成するちっぽけな細胞に過ぎぬかもしれませぬ。じゃが、その数億の細胞が、一つの巨大な意思の下に、完璧な調和をもって機能している。その様は、もはや一つの完成された生態系でございました」
「彼らの『科学』とは、我らの魔法のように、一人の天才が奇跡を起こす術ではない。無数の凡人が、その知恵と労働を何世代にもわたって積み重ねることで、神の領域にさえ手を伸ばそうとする、あまりにも人間的な、そしてそれゆえに恐るべき体系なのです」
彼女は、最後に訪れたあのスーパーコンピュータ『富岳』の光景を、その目にありありと浮かべながら語った。
「その極致が、『計算機』と呼ばれる機械の賢者でした。それは、我ら魔法使いがその生涯をかけて追い求める、世界の未来を予知し、万物の理を解き明かし、そして新たな万物を創造するという、神の御業そのものを、電気という力で模倣しようとする、あまりにも傲慢な、しかし、あまりにも美しい挑戦でした」
そのあまりにも詩的で、そしてあまりにも圧倒的な報告。
執務室は、再び沈黙に支配された。
ヴァレリウスも、ギデオンも、そしてセリオン王でさえ、その言葉が意味する絶望的なまでの文明の格差を、ただ肌で感じるしかなかった。
「……では、エルドラよ」
長い沈黙の後、ヴァレリウスがかすれた声で尋ねた。「我らは、彼らに勝てぬのか。もし彼らがその気になれば、我らの王国など、一夜にして…」
「うむ」
エルドラは静かに、そして残酷なまでにはっきりと頷いた。
「怪我治癒ポーションや魔法といった、生命と精神に直接干渉するごく一部の分野以外は、すべてこちらが劣っていると見て間違いないでしょう。彼らの『科学』の前では、わらわの最強の攻撃魔法でさえ、おそらくは子供の火遊びにも等しい」
その絶対的な敗北宣言。
だが、エルドラは続けた。
「まあ、向こうは、我らのポーションや魔法の価値を非常に高く評価しており、それらが自分たちの世界にはない分、我らと自分たちの力は、ある程度相殺されていると感じているらしいですが…。」
彼女はそこで、初めて憐れむような、そしてどこか物悲しい表情を浮かべた。
「じゃが、実際に彼らの国の民の生活を見るに、それはおそらく向こうの勘違いでしょうな」
彼女は、日本のありふれた街角の光景を思い出していた。
清潔な道路。安全な水。夜でも太陽のように明るい街灯。そして何よりも、魔物の脅威に怯えることなく、子供たちが夜遅くまで公園で笑い声を上げていた、あの光景。
「彼らの国の最も貧しい民でさえ、我が国の豊かな貴族よりも、遥かに安全で、文化的で、そして健康な生活を送っておりました。病になれば、魔法ではなく、『病院』という場所で専門の知識を持つ者が癒してくれる。飢えを知らず、常に温かい食事と清潔な寝床が保証されている。…それこそが、文明の真の力。個人の英雄の武勇伝などではなく、名もなき民草のそのささやかな幸福の総量こそが、国の力を測る真の物差しなのじゃと、わらわは思い知らされました」
その、あまりにも重い真実。
執務室は、もはやただの沈黙ではなかった。
敗北感と、そしてどうしようもない無力感が、鉛のように空気を満たしていた。
セリオン王は、深く、深く目を閉じた。
彼は、王として、その生涯の全てを民の幸福のために捧げてきたと自負していた。
だが、その結果がこれだ。
自分たちが井の中の蛙であり、自分たちの築き上げてきた平和と繁栄が、遥か高みから見れば、あまりにも脆く、そして矮小なものであったという、残酷な現実。
「……うむ」
やがて王は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはや覇者の輝きはない。ただ、歴史の大きなうねりの前で、自らの無力さを悟った一人の賢者の、静かな諦観だけが宿っていた。
彼は、三人の重鎮たちに、そして自分自身に言い聞かせるように告げた。
「エルドラよ。大儀であった。お主の報告で、全てを理解した。…我々は、もはや彼らを対等な交易相手として見るべきではない。あるいは、警戒すべき隣国のようにも見るべきではない」
彼は、窓の外に広がる自らが愛する王都の夜景を見つめた。
「我々は、まるで森の奥でささやかな平和を築いてきた、古の部族のようなものなのやもしれん。そしてある日、空から星の海を渡る巨大な船が舞い降りてきた。我々は今、そういう瞬間に立ち会っておるのじゃ」
そして彼は、この国のこれからの百年を決定づける、最後の結論を口にした。
「もはや、小手先の駆け引きは無用。我らが進むべき道は、一つだけじゃ。彼らのそのあまりにも巨大な力に対し、決して逆らわず。ただ、その慈悲にすがる。うむ。我々は、圧倒的な格上に慈悲を乞い、そのおこぼれを頂戴する。そのくらいの謙虚な気持ちで、これからの交渉に臨んだ方がよいのかもしれんな…」
それは、一国の王がそのプライドの全てを捨て去った、完全なる降伏宣言だった。
だが同時に、それは、この狂った、そしてあまりにも不公平な新しい世界で、自らの民と国を生き延びさせるための、唯一にして最も賢明な選択でもあった。
オークションで得た10兆円という天文学的な富。
それは、彼らにとってもはや勝利の証ではなかった。
圧倒的な強者の前に自らの非力さを差し出し、そして教えを乞うための、ささやかな、そして必死の入学金。
そのものだった。
リリアン王国は、この日、その長い歴史の中で初めて、真の意味で世界と、そして自分たちの本当の姿を知ったのだった。




