第69話
奇跡は、もはや日常となった。
だが、それは祝福ではなかった。少なくとも、日本の政治の中枢を担う二人の男にとっては。
首相公邸の眠らない執務室。
沢村総理と九条官房長官、そして彼らの完璧な分身たちは、終わりの見えない書類の山と、世界中から絶え間なく殺到する通信の奔流に、その人間性をすり減らし続けていた。
世界は、新たな、そして奇妙な安定の時代へと移行していた。イスラム世界は、「飢餓なき世界」の実現によって絶対的な道徳的優位性を確立し、国際社会における新たなソフトパワーとして、その影響力を日に日に増している。
その結果、日米欧中露といった既存の列強は、この新しいパワーバランスを前に対応に苦慮していた。食糧市場の再編、途上国への影響力の低下、そして国内で静かに広がる「イスラムへの改宗ブーム」。彼らは、血の流れない、しかし静かなる敗北の味を噛み締めていた。
そして、その敗北の味を最も濃密に味わわされているのが、全ての元凶であり、全ての窓口である、この日本政府だった。
「――総理。アメリカのトンプソン大統領より、5分後に緊急の回線要請です。議題は、おそらくインド太平洋地域におけるイスラム圏の経済進出への対抗策についてかと」
九条の分身の一人が、淡々と報告する。
「分かった。繋いでくれ」
本体の沢村が、深く、深いため息をついた。
その隣で、沢村の分身は、国内のゲート構想を巡る北関東三県の知事たちとの泥沼のテレビ会議で、怒号を浴び続けていた。
「だから! なぜ我が県にはハブ・ゲートが設置されんのだ! 東京への貢献度は、我々の方が上のはずだ!」
それは、もはや日常の風景だった。
神の恩恵によって手に入れた眠らない身体と、無限の執務時間。それは彼らに、無限の苦悩を処理し続けるための、永遠の責務を課しただけだった。
そのあまりにも人間的で、そしてあまりにも不毛な地獄の風景を、部屋の隅の最も座り心地の良さそうなソファの上から、一人の少女が退屈そうに眺めていた。
ゴシック・ロリタのドレスに身を包んだKAMI。
橘栞が並行世界へと旅立ってから数週間。この世界に残された分身である彼女は、最近、この首相公邸にまるで自室のように入り浸るようになっていた。一人は、暇なのである。
本体のように未知の世界を冒険する刺激もない。かといって、人間たちの面倒な政治ゲームに積極的に関わる気もない。
その結果、彼女は、この世界の権力の中枢で、ただひたすらにだらだらと過ごすという、究極の暇つぶしを見つけ出していた。
手には、日本の最新式の携帯ゲーム機。時折、難しいステージに差しかかると、小さく舌打ちをする。その姿は、神の代理人というよりは、ただの行儀の悪い居候にしか見えなかった。
「……九条さんの分身、また非効率なことしてるわね」
KAMIはゲーム画面から一瞬だけ目を離すと、山積する陳情書の処理に追われる九条の分身の一人を見て、ぽつりと呟いた。
「そのデータ整理、AとBのフォルダを統合して、時系列じゃなくて案件の優先度順にソートしてから処理した方が、3時間は短縮できるのに」
「……は?」
九条の分身が、怪訝な顔で振り返る。
「だから、こうよ」
KAMIは指をぱちんと鳴らした。その瞬間、九条の目の前のホログラムモニターに映し出されていた数万件のファイルが、一瞬で完璧なフォルダ構造に再整理された。
「ついでだから、生産性を上げる能力、その部署の官僚たちに無料で上げといてあげたわ。認知能力をちょっとだけブーストするだけの簡単なやつだけど。これで、少しはあなたたちの仕事も楽になるでしょ」
「あ…、ありがとうございます…」
九条の分身は呆然としながらも、深々と頭を下げた。
神の気まぐれなコンサルティング。
それは、確かにありがたかった。だが同時に、自分たちの悩みや苦労が、この存在にとっては子供のパズル程度の些細な問題でしかないのだという、絶対的な格の違いを改めて見せつけられる行為でもあった。
彼女は、日本だけでなく、世界中のあらゆる場所に、こうして気まぐれに現れていた。ワシントンのシチュエーションルームでサイバー防衛システムの脆弱性を指摘したり。モスクワのクレムリンでチェスを指すプーチン大統領の悪手を笑ったり。北京の中南海で習近平主席の読む古典の解釈の間違いを指摘したり。
彼女は、世界の気まぐれな監視者であり、そして迷惑な隣人だった。
その日の午後。
ようやく山積する午前の業務を片付けた沢村と九条は、本体と分身、四つの身体でソファに座るKAMIの前に、改めて向き直った。
彼らには報告し、そして神の裁可を仰がなければならない、最大の懸案事項があった。
インド問題である。
「――KAMI様」
九条が代表して、重々しく口を開いた。
「先日来お耳に入れておりますインド政府からの、ヒンドゥー教徒のための次なる奇跡を要求する声が、日に日にその圧力を増しております。もはや、外交的な時間稼ぎも限界に近づいております。彼らは来月にも、ガンジス川に百万人規模の信徒を集め、大規模な祈りの儀式を強行する構えです。もしその祈りに、KAMI様からの『応え』がなければ、彼らの失望と怒りは、全て我が国、日本へと向けられることになるでしょう。最悪の場合、国交断絶、あるいは軍事的な緊張の高まりさえも懸念されます」
九条はそこで一度言葉を切り、そして深々と頭を下げた。
「つきましてはKAMI様。誠に、誠に申し上げにくいのですが、インドへの次なる奇跡の『実装』について、前向きなご検討をお願いできませんでしょうか…?」
その魂からの、悲痛なまでの懇願。
それを聞いたKAMIは、しかし、心底うんざりとしたという顔で、大きなため息をついた。
「次はインド?」
彼女は、携帯ゲーム機の電源を乱暴に切った。
「しばらく放置しておいたら? そんなの。流石に、ローマ教皇とイスラム教徒の件をやったばかりじゃない…。私だって、暇じゃないのよ?」
そのあまりにも人間的な、そして身勝手な言い分。
「それに」と、彼女はまるで言い訳でもするかのように続けた。「最近は、結構、先生したりで忙しいのよ、私?」
先生?
沢村と九条が、怪訝な顔で顔を見合わせる。
「ほら」と、KAMIは指先で空中に二つのホログラムウィンドウを映し出した。
一つのウィンドウには、バチカンのとある病院の一室が映し出されていた。
白い祭服に身を包んだ教皇レオ14世が、ベッドに横たわる交通事故で足を骨折した一人の少年の額に、静かに手を置いている。
『――主の御名において命ずる。癒えよ』
教皇の穏やかで、しかし力強い声。その掌から温かい黄金色の光が放たれ、少年の足を包み込む。すると、ギプスで固められた足の中から、ミシミシと骨が再生していく微かな音が聞こえる。数分後、少年はベッドから立ち上がり、驚きと歓喜の涙を流しながら、その場で飛び跳ねていた。
「ローマ教皇も」と、KAMIがどこか自慢げに解説する。「奇跡(因果律改変能力)の開発に忙しいのよ。彼は才能があるわ。信仰心が、そのまま強固な自己暗示として機能するから、上達が早いの。他者への治癒も驚異的な速度で勉強して、軽い怪我ならもう治せるようになってるし…。いずれは、失われた手足さえも再生できるようになるでしょうね」
そして彼女は、もう一つのウィンドウを指さした。
そこに映し出されていたのは、ロシアの雪深い森の中にある、秘密の訓練施設だった。
上半身裸になったウラジーミル・プーチン大統領大統領が、その分身の一人と、凄まじい速度で組手を行っている。彼らの拳が交錯するたびにソニックブームが発生し、周囲の木々が衝撃波でなぎ倒されていく。
「プーチン大統領の方は相変わらずね。治癒魔法には一切興味を示さず、ひたすら身体能力の強化と戦闘技術への応用に、その全てを注いでるわ。彼の自我は、それ自体が強力な魔力炉になってる。今やその戦闘能力は、一個師団の特殊部隊にも匹敵するでしょうね。まあ、本人はまだ満足していないみたいだけど。『神に成る』とか、訳の分からないこと言ってるし」
KAMIは、その二つのウィンドウを満足げに眺めた。
「どう? 私の優秀な一番弟子と二番弟子よ。彼らの成長を正しく導いてあげるのが、今の私の一番の楽しみなの。だから、これ以上面倒な生徒を増やしたくないのよ。分かる?」
そのあまりにも個人的で、そして世界の指導者たちからすればあまりにも恐ろしい趣味の時間。
沢村と九条は、もはや何も言うことができなかった。
神は今、人間を育てるという新しいゲームに夢中なのだ。
「……ですが、KAMI様」
それでも九条は食い下がった。官僚としての、最後の、そして絶望的な職務遂行だった。
「それが、インドからの要請が…。彼らは、もはや待ってはくれません。もし我々がここで明確な回答を示さなければ、彼らは必ず暴発します。それは、我々が最も避けなければならない事態です」
そのあまりにもしつこい懇願に。
KAMIはついに、心底面倒くさそうに顔を歪めた。
そして彼女は、究極の、そして最も残酷な答えを口にした。
「…ほっときなさいよ、そんなの」
「…………え?」
「だから、放っておけばいいって言ってるの」
彼女の声は、冷たかった。
「彼らが勝手に集まって、勝手に祈る。それで何も起きなかった。…あら、残念でしたね。あなたたちの信仰は、その程度だったのね、で終わりじゃない。それで、何が問題なの?」
そのあまりにも論理的で、そしてあまりにも人間の感情というものを理解していない、悪魔の正論。
九条は、戦慄した。
この神は、分かっていない。
もしインドの十億人の祈りが「空振り」に終われば、どうなるか。
彼らのその巨大な失望と屈辱感は、どこへ向かうのか。
答えは、一つしかない。
その「空振り」の原因を作った最初の窓口。
日本へ。
そして、自分たちだけが奇跡の恩恵を受けているイスラム世界へ。
それは、世界最大級の宗教的な憎悪の連鎖の始まりを意味するのだ。
だが、そのことをいくら説明しても、目の前の神は、おそらく理解しないだろう。
彼女にとって、それは単なる「パラメータの変動」に過ぎないのだから。
「じゃあ、そういうわけだから」
KAMIは、もう話は終わりだとばかりに立ち上がった。
「インドの件は、しばらくペンディング。いいね? もしまた何か、私の可愛い生徒たちの面白い成長報告があったら、教えてちょうだい。じゃあね」
その言葉を残して、KAMIは来た時と同じように、ふっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして四つの身体を持つ二人の、抜け殻のような男たちだけだった。
彼らは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
神からの直接命令。
『何もしないでおけ』。
それは彼らにとって、これまでで最も困難で、そして最も不可能なミッションだった。
「……どうするのだ、九条君…」
沢村が呻くように言った。「インドに、何と説明すればいいのだ。『神は今お忙しいので、また今度にしてくれ』とでも言うのか…?」
「……いえ、総理」
九条は、ゆっくりと顔を上げた。その顔には、もはや絶望の色はなかった。
ただ、全ての感情が抜け落ちた、究極の、そして完璧な官僚の顔がそこにあった。
彼は、このあまりにも不条理な状況の中で、唯一自分たち人間に残された、最も卑小で、そして最も強力な武器を使うことを決意していた。
「……総理。我々に選択肢はありません」
彼は分身の一人に、インド大使館への最高レベルの外交公電を作成するよう命じた。
「我々はインド政府に対し、こう返答いたします」
彼の声は、もはや人間のものではなかった。
国家という巨大な機械が、その存続のためだけに最適解を弾き出す、冷たい計算音だった。
「『貴国からの敬虔なるご要請、確かに拝受いたしました。つきましては、KAMI様への正式な上申にあたり、事前にいくつかの技術的な、そして神学的な確認事項がございます』と」
彼はもう一人の分身に、その「確認事項」のリストを作成するよう命じた。
「『第一に、百万人の祈りから生まれると予測される信仰エネルギーの総量、及びそのスペクトル分析データ。第二に、ガンジス川の聖性が因果律改変に与える環境パラメータとしての影響評価。第三に、ヒンドゥー教の三億三千万の神々と唯一神であるKAMIとの神学的な整合性に関する統一見解書…』」
彼は次から次へと、インド政府が決して答えられるはずのない、無意味で、そしてどこまでも専門的な「質問」のリストを作り上げていった。
「我々は、この質問状をインド政府に送ります。そして、彼らがその答えに窮している間に、次の質問状を送る。そして、そのまた次も。我々は、官僚主義という名の終わりのない迷宮の中に、彼らを誘い込むのです。そうやって時間を稼ぐ。一ヶ月、一年、あるいは十年でも。KAMIがその『先生ごっこ』に飽きて、次の気まぐれを起こす、その時まで」
そのあまりにも悪魔的で、そしてあまりにも官僚的な解決策。
沢村は、その腹心の底知れない、そしてどこか悲しい悪知恵に、もはや言葉もなかった。
彼は、ただ静かに頷いた。
そうだ。
これが、我々の戦い方なのだ。
神の気まぐれと人間の欲望とのその狭間で。
ただひたすらに書類を作り、会議を開き、そして時間を稼ぐ。
それが、この狂った世界の中間管理職として、彼らに与えられた唯一の、そして永遠の責務なのだから。




