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賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい  作者: パラレル・ゲーマー


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第68話

 奇跡の発動から数週間が経過した。世界は熱病の後の気怠い平熱を取り戻し、新たな、そして奇妙な安定の時代へと移行していた。それは、健全な均衡ではなかった。巨大な、そして不平等な恩恵を手に入れた者と、そこから取り残された者たちとの間に横たわる、静かで、しかし決定的な断絶の上に成り立つ、脆いガラス細工のような安定だった。


 イスラム世界は、「飢餓なき世界」の実現によって、絶対的な道徳的優位性を確立していた。ジュネーブでの歴史的宣言以降、彼らはもはや国際社会における「支援される側」ではなかった。むしろ、飢餓という人類の根源的な罪から、自らの信仰の力によって独力で抜け出した唯一の文明として、その存在感を日に日に増していた。国連総会の議場では、これまで欧米列強の独壇場であった人道問題を巡る議論で、イスラム協力機構(OIC)の発言が、以前とは比較にならないほどの重みを持つようになっていた。「我々は神の恩恵によって飢餓を克服した。だが、世界にはまだパンを求める我々の兄弟姉妹がいる。彼らを見捨てることは、神への裏切りに等しい」――その言葉はあまりにも高潔で、あまりにも正論であり、食糧支援という外交カードを事実上失った西側諸国を沈黙させるには十分だった。彼らは、国際社会における新たなソフトパワーとして、その影響力を日に日に増している。


 一方、日米欧中露といった既存の列強は、この新しいパワーバランスを前に対応に苦慮していた。彼らの苦悩は三つの静かなる時限爆弾となって、その社会の根底をじわじわと蝕んでいた。

 第一に、食糧市場の再編。世界の人口の四分の一を占める巨大な胃袋が、一夜にして市場から消滅した影響は甚大だった。シカゴやパリの穀物市場は、歴史的な暴落の後、不気味なほどの低位安定を続けている。アメリカやカナダ、フランスの広大な穀倉地帯では、仕事を失った農民たちの静かな怒りが、政治的な時限爆弾となってくすぶり続けていた。

 第二に、途上国への影響力の低下。これまでODAや食糧支援をテコに、アフリカやアジアの国々に影響力を行使してきた西側諸国の外交的優位性は、完全に失われた。飢えから解放された国々は、もはや彼らの「施し」を必要としない。むしろ、同じ「南」の仲間でありながら、奇跡的な繁栄を謳歌し始めたイスラム世界への羨望と期待の眼差しを、日に日に強くしていた。

 そして第三に、最も深刻で、そして最も対処のしようがない問題。**国内で静かに広がる「イスラムへの改宗ブーム」**だった。それは、メディアが報じるような熱狂的な集団改宗ではない。もっと個人的で、もっと静かで、それゆえに根深い魂の移動だった。病に苦しむ者、貧困に喘ぐ者、そしてただこの先行きの見えない世界に絶望した者たちが、最後の救いを求めて、あるいはただ腹一杯の温かい食事を求めて、静かにモスクの門を叩き始めていた。

 彼らは、血の流れない、しかし静かなる敗北の味を噛み締めていた。


 その世界の縮図ともいえる苦悩の中心地、東京、首相公邸の執務室。

 沢村総理の本体は、ホログラムの地球儀に映し出された緑豊かに輝くイスラム世界の版図を、どこか虚ろな目で見つめていた。数週間前まで衛星画像が映し出していたはずのサハラ砂漠の南縁や、中央アジアの乾燥地帯が、今や淡い緑色にその色を変えている。飢餓が消えた地域は、文字通り地上からその「色」を変えつつあったのだ。

 彼の分身たちは相も変わらず、山積する国内問題の処理に追われていた。ゲート構想を巡る各都道府県からの陳情書の山は、減るどころか日増しにその高さを増している。オークションの莫大な利益がアステルガルドの発展資金となることが決まって以来、「我が県こそ異世界交流の拠点に!」という、新たな、そしてより厄介な要望までが殺到し始めていた。


 沢村は深い、深いため息をついた。彼の前には、先ほどまで行っていたアメリカのトンプソン大統領とのビデオ会談のウィンドウが、まだ表示されている。ウィンドウの中のトンプソンは、いつもの自信に満ちた覇者の顔ではなく、ただ疲れ果てた一人の初老の男の顔をしていた。

 議題はもちろん、「イスラム圏の台頭に我々はどう対抗すべきか」。だが、その会議はもはや答えの出ない不毛なものだった。経済制裁は意味をなさず、軍事的圧力は新たな宗教戦争の引き金になりかねない。彼らにできるのは、ただ自分たちの影響力が静かに、そして為すすべもなく失われていくのを、指をくわえて見ていることだけだった。

『……総理。もはや、我々が単独で世界の警察を続ける時代は終わったのかもしれん』

 最後にそう言って、トンプソンは力なく回線を切った。その言葉の重みが、沢村の肩にずしりと圧し掛かっていた。


「…………」

「……結局、このゲームの勝者は彼らだった、というわけか」


 沢村は誰に言うでもなく呟いた。その声には嫉妬や怒りではなく、ただ疲れ果てた者の諦観だけが滲んでいた。

 彼はこの数ヶ月の、悪夢のような日々を思い出していた。

 神の出現。四カ国のパワーゲーム。異世界との接触。そして、宗教という人類が抱える最も古く、最も厄介な問題。

 自分はその全ての狭間で必死にバランスを取り、世界の崩壊を防ぐために、この眠らない身体を酷使し続けてきた。

 だが、その結果はどうだ。


「我々は神の代理人として、世界の秩序を守るために奔走してきたつもりだったが…。蓋を開けてみれば、ただイスラム世界に史上最大の塩を送っただけだったとはな。イスラム教だけが一人勝ちだなぁ…」

 そのあまりにも人間的な、そして情けないぼやき。

 それは、この狂った世界の理不尽さに、ついに心が折れかけた一人の男の、偽らざる本音だった。


 その、あまりにも人間的な、そして情けない沢村のぼやき。

 それを冷たく、そして無慈悲に遮る声が部屋に響いた。


「総理! そんなことを言っている場合ではございません!」


 声の主は、インド方面の情勢分析を担当していた九条の分身の一人だった。彼はそれまで完璧なポーカーフェイスで膨大な情報を処理していたはずなのに、その顔は珍しく血の気を失い、その声には隠しきれない焦りが滲んでいた。彼は血相を変えて、一枚の緊急報告書を本体の沢村の前に突きつけた。

 その報告書のヘッダーには、『最重要・緊急(URGENT / TOP SECRET)』の赤いスタンプが、何重にも押されている。


「たった今、ニューデリーの大使館から最高レベルの緊急電が入りました! インドのモディ首相が、先ほど国民向けの緊急演説を終えたと!」


 インド。

 人口十四億。世界最大の民主主義国家。そして、世界で三番目に多い二億人以上のイスラム教徒を国内に抱えながら、その国民の八割はヒンドゥー教を信奉する巨大なヒンドゥー国家。

 九条の脳内で、警鐘が乱打される。

 この国が動く。それは、中東のどの国の動向よりも、世界のバランスを根底から揺るがしかねない。


 九条の分身が、報告書の内容を震える声で読み上げる。

「――インド首相演説にて、ジュネーブでのイスラム世界の奇跡を『歴史的な偉業』と称賛。その上で、『インドに住まう十億のヒンドゥー教徒もまた、神々の恩恵を受ける権利がある』と強く主張!」

 沢村は息を呑んだ。

 来るべきものが来た。

 いや、想像していたよりも、遥かに早く。


「首相は、こう続けたと。『我らが偉大なる隣人、イスラムの同胞たちは、その敬虔なる祈りの力で飢餓という苦しみから解放された。我々はその偉業に、心からの敬意を表する。だが、我らがヒンドゥーの民の信仰が彼らに劣るなどということは、断じてない! 我らが信仰する三億三千万の神々の慈悲は無限である!』」

 九条の声が上ずる。

「さらに、『我々はイスラムの同胞たちに倣い、来る吉日に、聖なるガンジス川の岸辺、バラナシに百万人のサドゥ(ヒンドゥー教の修行僧)と信徒を集結させ、我らが神々に大いなる祈りの儀式マハー・プージャを捧げることを、ここに宣言する!』と!」


 百万人の祈り。

 そのあまりにも壮大で、そしてあまりにも熱狂的な光景が、沢村の脳裏に浮かぶ。

 だが、本当の悪夢は、その最後の一文にあった。

 そして九条は、最後の、そして最も致命的な一文を読み上げた。


「……演説の最後は、こう締められています。『我らが敬愛する日本の友、そしてその背後にいる偉大なるKAMIは、我々ヒンドゥーの民のこの敬虔なる祈りに、必ずや応えてくれるものと固く信じている』と…!」

 九条はそこで一度言葉を詰まらせた。

「……すでに我が国の日本大使館には、インド政府からの公式な『協力要請』が届けられている模様です…!」


 協力要請。

 そのあまりにも丁寧な、しかしその実態は「脅迫」以外の何物でもない外交文書。

 お前たちがイスラムに奇跡をもたらした。

 ならば、我々にも同じものをよこせと。

 さもなければ、この十四億の国家と、その背後にいる十億のヒンドゥー教徒を敵に回すことになるぞと。

 それは、日本という一国家が、到底背負いきれるはずのない、あまりにも重い踏み絵だった。


 報告が終わった執務室は、再び死のような静寂に包まれた。

 ホログラムの地球儀が、静かに回転を続けている。その光が壁に、天井に、まるで走馬灯のように世界の国々の影を映し出す。アメリカ、中国、ロシア、そして緑に輝くイスラム世界。そして今、オレンジ色の光を放ち始めた巨大なインド亜大陸。

 次から次へと。

 神の奇跡という甘美な果実を求めて、人間たちの欲望は決して尽きることがない。

 一つの問題を解決すれば、また新たな、そしてより巨大な問題が生まれる。

 まるで、無限に首が生え変わる神話の怪物、ヒュドラのように。


 沢村はゆっくりと、ゆっくりと天を仰いだ。その顔には、もはや絶望の色さえ浮かんでいなかった。ただ、全ての感情が抜け落ちた完全な虚無だけが、そこにあった。

 彼は理解したのだ。

 この戦いに、終わりはないのだと。

 自分たちがこの「神の代理人」という役割を続ける限り、この地獄は永遠に続くのだと。


 彼の口から漏れたのは、もはや一国の総理大臣としての言葉ではなかった。

 ただの疲れ果てた一人の男の、悲しく、そしてどこか滑稽な魂からのツッコミだった。


「…………イスラムの次は、ヒンドゥー教かよ…」


 その呟きは誰に聞かれることもなく、眠らない執務室の、無限に続くかのような時間の闇の中へと、静かに、静かに溶けて消えていった。

 彼の、そして九条の、中間管理職としての地獄の業務リストに、今まさに、『ヒンドゥー教頂上会談のセッティング、及び三億三千万の神々とのスケジュール調整』という、新たな、そして絶望的な一行が追加された瞬間だった。

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― 新着の感想 ―
 インドの要請を認めたら次が現れるだけだねぇ、それよりもKAMIの都合も考えず脅すようにして私的に神を利用しようとしていると発表すればいいだけじゃね?調整を一任されているだけで決定権はKAMIにあると…
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