第67話
その日を境に、人類の歴史から「飢餓」という言葉が、その意味を永遠に変えてしまった。
アフリカ、サヘル地帯。チャド共和国、ダルフール難民キャンプ。
国連職員の日本人女性、アキコ・サイトウは、この地でもう五年、同じ光景を見続けていた。乾ききった大地。土埃の舞う熱風。そして、配給される僅かな穀物と水のために、炎天下、何キロにもわたって続く、痩せ細った人々の、静かな列。彼女の心は、とうの昔に摩耗し、同情は諦観へと、使命感は無力感へと、その姿を変えていた。
だが、あの聖なる金曜日。その全てが、終わった。
アキコは、自らの目で、その奇跡を目撃した。祈りを終えた難民たちが、おそるおそる目を開けたその目の前。何もないはずの砂の上に、次々と、湯気の立つクスクスと、香ばしく焼かれた羊肉の皿が、音もなく現れたのだ。
最初、それは集団幻覚かと思われた。だが、人々が、涙を流しながら、震える手でその温かい食事を口に運び始めた時、アキコは理解した。これは、現実なのだ、と。自分たちが、膨大な予算と、複雑なロジスティクスを駆使して、必死に届けようとしていた「救済」を、神は、たった一度の祈りで、より完璧な形で、成し遂げてしまったのだ。
数週間後。
難民キャンプは、その姿を完全に変えていた。
もはや、そこは「難民キャンプ」ではなかった。一つの、活気ある「町」だった。
飢えの恐怖から解放された人々は、その有り余るエネルギーを、未来を築くために使い始めた。男たちは、日干しレンガを作り、頑丈な住居を建設し始めた。女たちは、共同で井戸を掘り当て、マーンナ以外の作物を育てるための、小さな畑を耕し始めた。そして、子供たちの瞳からは、アキコがこれまで一度も見たことのなかった、希望の光が、輝いていた。彼らは、空腹を訴える代わりに、文字を教えてくれと、アキコにせがむようになった。
アキコの仕事は、なくなった。国連の食糧配給トラックは、もうここには来ない。彼女は、ただ、自分たちが「救うべき哀れな人々」と見なしていた彼らが、自分たちの手で、力強く、そして誇り高く、新しい社会を築き上げていくその姿を、呆然と、そしてどこか羨望の眼差しで、見つめていることしかできなかった。
奇跡は、イスラム世界に、完璧な祝福をもたらしたのだ。飢餓で死ぬ者がいなくなり、社会は、その根底から、劇的に安定し始めた。
その変化は、国家のレベルでも、静かに、しかし確実に起きていた。
サウジアラビア、リヤドの王宮。財務大臣が、サルマン国王の前で、国家の次期百カ年計画の草案を、興奮した面持ちで読み上げていた。
「陛下! 我が国の食糧自給率は、本日をもって、無限に到達いたしました! これまで、砂漠の緑地化と、海外からの穀物輸入に充てていた、国家予算の実に20パーセントが、完全に不要となります! この、数十兆円規模の余剰資金を、新たな基金…仮称『ウンマ未来基金』として、全世界のイスラム同胞の、教育と、インフラ整備のために、投資することを、ご提案いたします!」
食糧生産に割かれていた国家予算は、教育やインフラへと振り向けられ、イスラム世界は、緩やかだが、確実な「黄金時代」へと、その歩みを進め始めた。
彼らはもはや、石油という限りある資源に依存する、不安定な国家ではない。神の恩恵という、無限の資源を背景に持つ、新しい時代の盟主。その自覚が、彼らの政策を、より大胆に、そしてより長期的で、戦略的なものへと変えさせていた。
彼らは、国際社会において、絶対的な道徳的優位性を手に入れたのだ。 飢餓という、人類最大の課題を、自らの信仰の力で克服した、唯一の文明。その事実が、国連総会の議場や、あらゆる外交のテーブルで、彼らの言葉に、何よりも重い説得力を与え始めていた。
その、イスラム世界にとっての完璧な祝福は、それ以外の国々の指導者たちにとって、静かな、しかし、ボディブローのように効いてくる、悪夢の始まりだった。
フィリピン、マニラ郊外。アジア最大級のスラム街、トンド地区。
三人の幼い子供を女手一つで育てる、マリアは、敬虔なカトリック教徒だった。毎朝、彼女は教会のミサに通い、子供たちが、せめて病気にならずに済みますように、と、聖母マリアの像に、涙ながらに祈りを捧げていた。だが、彼女の祈りが、聞き届けられることはなかった。
そんな彼女の耳に、噂が届いた。隣の地区に住む、イスラム教徒の家族。彼らは、貧しいはずなのに、毎日、見たこともないような、温かく、美味しそうな食事を、家族全員で、笑いながら食べている、と。
ある日の夕方。高熱を出した末の息子を抱え、薬を買う金もなく、途方に暮れていたマリアの元を、その隣人が訪れた。イスラムの女性は、何も言わずに、彼女の前に、一つの器を差し出した。中には、鶏肉と野菜が柔らかく煮込まれた、温かいスープが入っていた。マーンナだった。
「…これを、お子さんに」
マリアは、戸惑い、そして疑った。だが、そのスープの、あまりにも慈愛に満ちた香りに、抗うことはできなかった。
息子は、そのスープを、夢中で飲んだ。そして、次の日の朝。あれほど苦しんでいた熱が、嘘のように引いていた。
その日、マリアは、教会には行かなかった。
彼女は、隣人の家を訪ね、深々と頭を下げた。
「……教えて、ください。あなたたちが、信じている、神様のことを」
世界の貧困層は、このニュースに色めき立っていた。「イスラム教徒になれば、飢えなくて済む」。それは、何よりも強力な福音だった。武力も、強制も伴わない、純粋な生存欲求に基づいた、緩やかで、しかし止めようのない、大改宗の波が、アフリカ、アジア、南米の貧困地帯から、静かに始まっていた。
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
トンプソン大統領は、国務長官が突きつけた、一枚の衛星写真に、言葉を失っていた。
アフリカの角と呼ばれる、ジブチ。そこに、これまでアメリカが巨額の援助と引き換えに維持してきた、巨大な米軍基地があった。だが、その隣に、今、中国の国旗が掲げられた、さらに巨大な、新しい港湾施設が、急ピッチで建設されていた。
「……どういうことだ、これは」
「ジブチ政府が、我々との基地貸与契約の更新を、拒否してきました」と、国務長官が、苦々しげに言った。「そして、新たに、中国との間で、港湾の共同開発に関する、百年の長期契約を結んだ、と。…理由は、分かっております。先日、サウジアラビアが主導する『ウンマ未来基金』が、ジブチに対し、我が国の年間援助額の、十倍に相当する、無利子・無担保のインフラ投資を発表しました。その条件は、ただ一つ。『イスラム世界の、同胞として』、です」
食糧支援という、アメリカがこれまで最大の外交カードとしてきた武器は、もはや意味をなさなかった。 飢えから解放された国々は、もはやアメリカの「援助」を必要としない。彼らは、同じ信仰の下に結束した、より豊かで、より気前の良い、新しいパートナーを見つけたのだ。
イスラム諸国は、結束を強め、国連などの国際舞台で、欧米や中露と対等、あるいはそれ以上の発言力を持つ、第三の極として、急速に台頭し始めていた。
その、あまりにも劇的なパワーバランスの変化は、世界中に、新たな、そしてより根源的な、社会不安の火種を、ばら撒いていた。
インド、ニューデリー。国会議事堂の前では、オレンジ色のサフランの衣を纏った、数十万のヒンドゥー至上主義団体のデモ隊が、シュプレヒコールを上げていた。
「イスラム教徒だけに、神の恩恵を独占させるな!」
「モディ首相は、我らがヒンドゥーの神々の、偉大さを示せ!」
「次は、我々の番だ! 我々にも、奇跡を!」
彼らの怒りの矛先は、イスラム世界だけではなかった。その奇跡の、最初の窓口となった、日本政府に対しても、向けられていた。
奇跡の恩恵に与れない、他の宗教の指導者たちや、世俗的な国家の元には、国民からの、凄まじい突き上げが殺到していた。「なぜ、我々の神は、沈黙しているのか」「政府は、なぜ、我々を飢えから救えないのか」。
世界中で、新たな社会不安の火種が、くすぶり始めていたのだ。
その、全ての混沌の中心。
東京、首相官邸。
沢村と九条は、もはや、眠らない身体でさえも、悲鳴を上げるほどの、終わりの見えない調整業務に、埋没していた。
一方の分身が、国内の農業団体からの、悲痛なまでの陳情に対応している。
「総理! このままでは、日本の農業は壊滅します! 神のマーンナに対抗できるはずがない! 緊急の、大規模な、所得補償を…!」
もう一方の分身が、アメリカのトンプソンからの、怒りに満ちた要求を受け止めている。
『総理! 君の国が、この混乱を引き起こしたのだ! 責任を取って、KAMIを説得し、我々にも、キリスト教徒のための、同様の奇跡を起こさせろ! さもなければ、同盟関係の、見直しさえ、検討せざるを得ん!』
そして、本体の沢村は、つい先ほど、インド首相から直接叩きつけられた、最後通牒を、ただ、虚ろな目で、反芻していた。
『……沢村総理。友人として、忠告しておく。我が国の、十億の民の、この敬虔なる祈りを、もし、無下にするというのであれば。我々は、もはや、貴国を、友好国と見なすことはできなくなるだろう』
沢村は、ゆっくりと、顔を上げた。
そして、同じように、無限の業務に追われる、四つの身体を持つ、もう一人の男に、問いかけた。その声には、もはや、何の感情もなかった。
「……九条君」
「はい、総理」
「……地獄とは、どちらだったかな」
「は?」
「飢餓と、貧困と、戦争に満ちていた、あの古い世界と。…飢餓はなくなったが、代わりに、嫉妬と、憎悪と、そして、神への要求だけが、無限に渦巻いている、この新しい世界。…一体、どちらが、本当の、地獄だったのだろうな…」
その、哲学的な問いに、九条は、答えなかった。
ただ、彼の分身の一人が、無言で、机の上の、鳴り止むことのないホットラインの、受話器を、そっと、持ち上げただけだった。
彼らの、終わりのない戦いは、またしても、新たな、そして、より答えのない、ステージの、幕を開けたのだった。




