第65話
運命の聖なる金曜日。その日、地球という惑星は、一つの巨大な祈りの共同体と化した。
西はモロッコの旧市街から、東はインドネシアの群島まで。イスラム世界を貫くいくつもの時間帯が、一つの約束された時刻へと収束していく。日没。それは、一日の労働を終え、家族と食卓を囲み、そして神への感謝を捧げる聖なる時間の始まり。しかし、今日だけは、その意味合いが全く異なっていた。
世界は、息を殺して待っていた。人類の歴史上初めて約束された、神からの応えを。
物語は、地上のあらゆる場所に焦点を当てる。
サウジアラビア、聖地メッカ。白亜の装束に身を包んだ数百万の巡礼者が、カアバ神殿を埋め尽くしている。その巨大な黒い立方体を取り囲む人々の波は、もはや個人の集合体ではない。一つの巨大な生命体のように、同じ方向へ、同じ祈りを胸に、ゆっくりと、そして荘厳に脈動していた。彼らの頭上では、灼熱の太陽が最後の光を放ち、グランドモスクの大理石の床を黄金色に染め上げている。
インドネシア、ジャカルタ。東南アジア最大のモスク、イスティクラル・モスクは、そのモダンで巨大なドームの下に、数十万の信徒を収容していた。父親の肩車に乗せられた幼い子供が、これから何が起きるのかも分からぬまま、母親が握らせてくれた小さな菓子パンを大事そうに胸に抱いている。その母親は、静かに目を閉じ、唇だけで小さな祈りの言葉を繰り返していた。どうか、この子たちが二度と飢えることがありませんようにと。
シリア、トルコ国境沿いの難民キャンプ。土埃の舞う、乾いた大地。引き裂かれたテントが、夕暮れの冷たい風にはためいている。その一つのテントの中、ぼろぼろの毛布にくるまった一つの家族が、小さなバッテリー駆動のラジオに必死に耳を傾けていた。ザーザーという雑音の向こう側から、遠くヨーロッパの地、ジュネーブから発信されるアラビア語の生中継が、か細く聞こえてくる。白髪の老人は、皺の刻まれた顔を地面に擦り付け、ただ静かにその時を待っていた。彼の記憶には、内戦で失われた故郷の、緑豊かなオリーブ畑の光景が焼き付いて離れなかった。
フランス、パリ郊外の集合住宅。移民二世の若い女子学生アイシャは、大学の課題のレポートを脇に置き、アパートの一室で静かに祈りの準備をしていた。窓の外では、エッフェル塔のイルミネーションが観光客のための偽りの輝きを放っている。彼女の心は、揺れていた。この科学と理性が支配する世界で、本当に奇跡など起きるのだろうか。だが、同時に彼女の血の中には、遠い祖父母の故郷、アルジェリアの砂漠で、星空の下、神の偉大さを語り合った熱い信仰の記憶が流れていた。彼女は、祈りの敷物をメッカの方角へと丁寧に広げた。その表情には、緊張と不安と、そして現代に生きる若者らしいほんの少しの皮肉な好奇心と、それを上回る一縷の望みが浮かんでいた。
そして、その全ての人間ドラマを、神の視点から冷徹に観測する者たちがいた。
スイス、ジュネーブ、国連欧州本部。その地下深くに設けられた即席の危機管理センター。日本の官房長官、九条、その補佐である小此木、そして米中露から派遣された最高レベルの監視団は、壁一面を埋め尽くす巨大なスクリーンに映し出される無数の映像とデータを、息を殺して見守っていた。
衛星が捉えたメッカの群衆の熱波。世界中のSNSをリアルタイムで解析するAIが叩き出す、爆発的に増加していく「祈り」というキーワードのトレンドグラフ。そして、この日のために世界中の通信網に仕掛けられた盗聴システムが拾い上げる人々の、ささやかな、しかし切実な声。
彼らは、もはやプレイヤーではなかった。自分たちが仕掛けた、あまりにも巨大で、そして予測不能な社会実験の最初の結果を待つ、ただの観測者だった。
円卓を囲んでいたイスラム指導者たちは、別室に設けられた厳重に警護された祈りの間で、静かにその時を待っていた。彼らの表情もまた、これから自らが引き起こす奇跡の、その重圧に強張っていた。
ジュネーブの空に、夕闇の最初の帳が下りる。その瞬間を合図に、イスラム指導者たちを代表し、アズハル・グランドイマームの厳かで、しかし力強い祈りの呼びかけ(アザーン)が、全世界に向けて中継された。
『――アッラーフ・アクバル! アッラーフ・アクバル!』
神は、偉大なり。
その千四百年以上にわたり、砂漠の民の魂を震わせ続けてきた聖なる呼び声。
それを合図に、西はモロッコのカサブランカから、東はマレーシアのクアラルンプールまで。時差を超え、国境を超え、宗派を超え、二十億の信徒が心を一つにして祈りを捧げ始めた。
大地に額を擦り付け、あるいは天を仰ぎ、あるいは胸の前で静かに手を組む。その形は様々でも、その心は一つだった。
神への絶対的な帰依。そして、救済への渇望。
その瞬間、世界に劇的な変化は起きなかった。
天が裂け、光の柱が降り注ぐことも、大地が震え、海が割れることもなかった。
ただ、祈りを捧げる敬虔なる信徒一人一人の内面に、静かな、しかし確かな変化が起きていた。
心の奥底から、言いようのない温かい、そして慈愛に満ちた感覚が、泉のように湧き上がってくる。
それは、母の腕に抱かれた時のような、絶対的な安らぎ。
それは、乾いた喉を清らかな泉の水が潤すような、魂の渇きが癒えていく感覚。
日々の労働の疲れも、未来への不安も、隣人への憎しみさえも、その温かい光の中に、雪解け水のように溶かされていく。
誰もが、肌で感じていた。神が今、確かに自分たちの祈りに耳を傾けてくださっていると。
そして、祈りがその最高潮に達した、まさにその時。
奇跡は、顕現した。
それは、どこまでも静かで、どこまでも個人的な、そしてそれゆえに、あまりにも荘厳な奇跡だった。
シリアの難民キャンプ。老人が祈りを終え、ゆっくりと顔を上げたその目の前。
土埃にまみれた、使い古しの毛布の上に。
まるで陽炎のように空間が揺らめき、音もなく、一つの簡素な陶器の器と錫の杯が実体化した。
器の中には、湯気の立つふっくらとした焼き立てのパン(ホブズ)と、香ばしいスパイスの匂いを漂わせる一串の羊肉のケバブ。
杯の中には、岩清水のようにどこまでも澄み切った清らかな水が、なみなみと満たされていた。
それは、彼が内戦で故郷を追われる前、平和だった頃に妻が焼いてくれたパンと、全く同じ味がした。
パリのアパートの一室。アイシャが祈りを終え、目を開けたその瞬間。
彼女の祈りの敷物の上に、同じように、一つの美しいガラスの器と銀の杯が現れた。
器の中には、色とりどりの新鮮なフルーツサラダと、黄金色の蜂蜜がかけられた甘いヨーグルト。
杯の中には、ミントの葉が浮かべられた、冷たい新鮮なオレンジジュース。
それは、彼女が今朝、大学へ向かう途中で「ああ、お腹が空いたな。こんなものが食べられたら幸せなのに」と、ぼんやりと夢想したその通りの朝食だった。
メッカのカアバ神殿。イスティクラル・モスク。世界中の、あらゆる場所で。
同じ奇跡が、同時に、何億というスケールで起きていた。
現れる食事は、一人一人違っていた。ある者には、故郷の母の味を。ある者には、かつて食べた最高の思い出の味を。そして、飢えに苦しむ者には、ただ温かく、栄養に満ちた生命の糧を。
神は、彼らの一人一人の最も深く、そして最も切実な「願い」の形を借りて、その慈悲を示したのだ。
ジュネーブの危機管理センターは、混乱の極みにあった。
「報告! カイロ、バグダッド、イスタンブール! 各地の監視カメラが、広場やモスクで、人々が何もない場所から現れた食事を手にしている映像を捉えています!」
「SNSが爆発しています! #MiracleOfManna、#GodsFeast といったハッシュタグと共に、世界中から同じ内容の写真と動画の投稿が、毎秒数万件のペースで…!」
九条は、その報告をただ無言で聞いていた。彼の目の前のスクリーンには、世界中から送られてくるその「奇跡の食事」の映像が、無数に映し出されている。
それは、確かに起きたのだ。
彼がその引き金を引いた、人類史上最大の奇跡が。
物語は、再び地上の名もなき人々の元へと戻る。
シリアの難民キャンプ。
老人は、震える手でその温かいパンを半分にちぎった。そして、その半分を、隣で同じように呆然としている幼い孫娘の手にそっと握らせた。
「…食べなさい」
孫娘は、おそるおそるそのパンを口に運んだ。そして、その小さな瞳を大きく、大きく見開いた。
「…おじいちゃん。おいしい。あったかい味がする…」
老人は、何も答えなかった。ただ、自らもそのパンを一口、口に運んだ。
その瞬間、彼の乾ききっていたはずの瞳から、一筋の熱い涙が深い皺を伝ってこぼれ落ちた。
それは、塩味ではなかった。ただ、温かかった。
故郷の味。平和の味。そして、神の慈悲の味だった。
パリのアパート。
アイシャは、目の前に現れたあまりにもお洒落で、あまりにも美味しそうな朝食を、しばらくの間、ただ信じられないという顔で見つめていた。
彼女は、スマートフォンを取り出すと、その光景を写真に撮り、SNSに投稿した。
『#MiracleOfManna. Seriously? This is what I wished for this morning. Unbelievable.(#マーンナの奇跡。マジ? 今朝、私が食べたかったやつそのままなんだけど。信じられない)』
そして彼女は、銀の杯に満たされた冷たい水を一口飲んだ。
その瞬間、彼女は絶句した。
水が、違う。これは、ただの水ではない。
パリの水道水とは全く違う。それは、彼女が幼い頃、夏休みに訪れたアルジェリアの故郷の村の、あの井戸の水の味がしたのだ。
懐かしく、冷たく、そしてどこか土の匂いがする、あの泉の水。
彼女の脳裏に、遠い、遠い記憶が鮮やかに蘇る。
その記憶と共に、彼女の心の中に、これまで感じたことのない不思議な、そして力強い感覚が満ちていく。
私は、一人ではない。
この冷たい石の都で、私はずっと一人だと思っていた。
だが、私はあの砂漠の民の血を受け継いでいる。そして、その民をずっと見守り続けてきた大いなる存在と繋がっている。
彼女は、窓の外のエッフェル塔を見つめた。
その人間の理性の象徴である鉄の塔が、今、ひどくちっぽけなものに見えた。
メッカのカアバ神殿。
数百万の群衆は、誰一人として大声を上げる者はいなかった。
歓声は、上がらない。
ただ、静かな、静かな嗚咽の波が、カアバ神殿の周囲にさざ波のように広がっていくだけだった。
人々は、互いに自らの前に現れたマーンナを見せ合い、そして静かに涙を流し、隣人と、見ず知らずの巡礼者と固く、固く抱き合った。
言葉は、いらなかった。
ただ、同じ奇跡を同じ時間に共有したというその事実だけが、彼らを一つの巨大な家族として結びつけていた。
奇跡は、確認された。飢えの終わり。
それは、熱狂的な歓喜というよりは、あまりにも長い、長い苦しみの歴史の果てにようやく訪れた、静かな、そしてどこまでも深い安堵の瞬間だった。
この日、この三分間。
世界は、確かに一つになった。
一つの巨大なモスクとなり、そして一つの巨大な食卓となったのだ。
そのあまりにも美しく、そしてあまりにも恐ろしい光景を、ジュネーブの地下深くで、一人の日本の官僚が、血の気の引いた顔でただ見つめていた。




