第64話
スイス、ジュネーブ、パレ・デ・ナシオン。そのかつて世界の平和を夢見て建設された壮麗な建物の一室は、今、人類の歴史上最も危険な火薬庫と化していた。
円卓を囲むのは、イスラム世界の巨人たち。サウジアラビアのサルマン国王、イランの最高指導者ハーメネイー師、エジプトのアズハル・グランドイマーム、そしてトルコ、インドネシア、パキスタンの指導者たち。千年以上にわたる宗派間の対立と現代の地政学的な思惑が、目に見えない刃となって部屋の中央で激しく火花を散らしている。
そのいつ爆発してもおかしくない円卓の議長席に、日本の官房長官、九条は、まるで自らの葬儀を執り行う司祭のように静かに座っていた。
彼の仕掛けた官僚的悪知恵によって、彼らは確かに一つのテーブルに着いた。だが、それは問題を解決したのではなく、ただ全ての爆弾を一つの部屋に集めただけに過ぎなかった。
「――では皆様、最終確認とさせていただきます」
九条は、感情を完全に消し去った声で言った。
「皆様は、本日この後、合同使節団としてKAMIとの公式な謁見に臨まれる。そしてその場で、皆様『全員』に等しく奇跡の力が授けられる。その神託の儀式を執り行う場所として、このパレ・デ・ナシオン内で最も警備が厳重で、かつ外部からのいかなる物理的・電子的干渉も不可能な旧地下金庫室を、特別に用意いたしました。異論はございませんな?」
誰も反論しない。もはや、彼らの間に議論はなかった。あるのは、これから自分たちが手にいれるであろう神の力への剥き出しの期待と、宿敵に先を越されることへの焦燥だけだった。
九条は頷いた。そして、最後の、そして最も重要な警告を彼らに告げた。
「謁見は、密室にて行われます。KAMIの強いご意向により、謁見の間に入れるのは、本日この場にご参集された各国の最高指導者、ただお一人ずつのみ。我々日本政府の代表も警護官も、一切の同席を許されません。…よろしいですな?」
その言葉に、部屋の空気が再び緊張した。密室。神との一対一の対話。その中で一体何が起きるのか。誰かが裏切るのではないか。自分だけが、何か不利な条件を突きつけられるのではないか。
指導者たちの間に、再び疑心暗鬼の暗い影がよぎる。
だが、もう後戻りはできなかった。
彼らは、無言のまま頷いた。
旧地下金庫室へと続く、長い長い廊下。その壁は、分厚い鉛と鋼鉄で覆われ、外界のあらゆる音と情報を完全に遮断していた。
九条とその補佐として同行した小此木は、金庫室の重さ数十トンはあろうかという巨大な円形の扉の前で、静かに佇んでいた。彼らの周囲には、日米欧の特殊部隊員たちが息を殺して警備の任にあたっている。
指導者たちは、一人、また一人と、その巨大な扉の向こう側へと吸い込まれていった。まるで、最後の審判の法廷へと一人ずつ呼び出される罪人のように。
最後に、ハーメネイー師の姿が扉の向こうに消える。
そして、重々しい金属の駆動音と共に、扉は完全に閉ざされた。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして壁に埋め込まれたデジタル時計が刻む無慈悲な秒針の音だけだった。
「……始まりましたな、長官」
小此木の喉から、乾いた声が漏れた。
「ああ」と、九条は答えた。彼の四つの身体(本体と分身)は、この廊下の各所に分散し、あらゆる不測の事態に備えていた。一つの身体はワシントン、北京、モスクワとのホットラインを維持し、もう一つは世界中の諜報機関の動きをリアルタイムで監視している。
だが、彼の本体の意識は、ただ目の前のこの分厚い鋼鉄の扉にだけ集中していた。
この扉の向こう側で、今、世界の歴史が根底から書き換えられようとしている。
そして、そのプロセスは、完全に自分たちのコントロールの及ばないブラックボックスの中にある。
その、あまりにも巨大な無力感。
九条は初めて、自らが神の代理人などではなく、ただの舞台袖で祈ることしかできない哀れな舞台監督に過ぎないのだという事実を、痛感していた。
謁見は、ちょうど一時間で終わるとKAMIは告げていた。
その一時間が、永遠のように感じられた。
九条の脳内で、あらゆる最悪のシナリオが高速でシミュレートされていく。
扉の向こうで、指導者たちが神の力を巡って殺し合いを始める。
KAMIが、彼らの信仰心の薄っぺらさに呆れ、全員を光の粒子に変えて消し去ってしまう。
あるいは、彼らがKAMIを言いくるめ、自分たちだけの排他的な契約を結んでしまう。
そして、最悪のシナリオ。
彼らが、宗派の違いを超え、一つの狂信的な思想の下に完全に結束してしまう。
そうなれば、もはや日米中露という国家の枠組みなど何の意味もなさなくなる。世界の二十億近い人々を精神的に支配する、巨大な、そして神の力をその手にした「神聖帝国」の誕生。
その時、自分たちが築き上げてきた脆い秩序は、どうなる…?
カチ、カチ、カチ…。
秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
五十九分が経過した。
九条の背中に、冷たい汗が滝のように流れた。
そして、約束の一時間が満了したその瞬間。
ゴゴゴゴゴ……。
重々しい地響きと共に、巨大な円形の扉が、ゆっくりと、ゆっくりと再び開き始めた。
隙間から、一条の眩い光が漏れ出す。
そして、扉が完全に開かれた時。
そこに立っていたのは、入る前とは全くの別人だった。
サルマン国王、ハーメネイー師、アズハル総長…。イスラム世界の巨人たち。
彼らは、入る前のような互いを牽制しあう敵意のオーラを、完全に消し去っていた。
代わりに彼らの全身から放たれているのは、静かで、穏やかで、しかし見る者を圧倒するほどの絶対的な使命感だった。
彼らの瞳は、まるで同じ一つの夢を見ているかのように、同じ方向を、同じ輝きで見つめていた。千年の長きにわたる宗派間の対立など、まるで最初から存在しなかったかのように。彼らは、ただ静かに、そして力強く、一つの共同体としてそこに立っていた。まるで、生まれ変わったかのように。
「…………」
最初に沈黙を破ったのは、アズハル総長だった。
彼は、目の前で呆然と立ち尽くす九条と小此木に向かって、静かに、そして慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「…感謝いたします、長官殿。あなた方のお導きがなければ、我らはこの偉大なる真理にたどり着くことはできなかったでしょう」
そして彼は、ゆっくりとその右手を掲げた。
「――光よ、あれ」
その静かな、しかし揺るぎない確信に満ちた声。
彼の掌の上に、ぽっと。
ローマ教皇が見せたのと全く同じ、太陽のように眩い光の球が生まれた。
だが、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
アズハル総長に続くように、サルマン国王が、ハーメネイー師が、そしてトルコ、インドネシア、パキスタンの指導者たちが、次々と無言のままその右手を掲げる。
そして、彼らの全ての掌の上に、同じように眩い光の球が生まれたのだ。
十数個の小さな太陽。
その光が、薄暗い地下の廊下を、真昼のように、いや、それ以上に神々しい光で完全に照らし出した。
彼らは、全員が『光あれ』を完全に使いこなしていた。
そのあまりにも異常で、そしてあまりにも美しい光景。
それに、九条はただ戦慄するしかなかった。
彼の脳が、警鐘を乱打する。
(……違う。これは違う。私が望んだ結果ではない…!)
彼は、彼らが互いに牽制しあい、いがみ合い続けることを望んでいた。その方が、コントロールしやすいからだ。
だが、目の前にいるのは、もはや分裂した指導者たちの集まりではない。
同じ奇跡を共有し、同じ使命感に燃える、一つの、完璧に統一された、狂信的なまでの「聖人たちの共同体」だった。
私は、怪物たちの首に鎖をかけたのではなかった。
怪物たちを融合させ、より巨大な一つの怪物を生み出してしまったのだ。
「長官殿」
光の海の中で、サルマン国王が威厳に満ちた声で言った。
「我々は、見ました。KAMI様のその御身を通して、我らが信じる唯一なる神の、その大いなる計画の一端を。そして、我々は理解いたしました。我々が今、為すべきことを」
彼は、ハーメネイー師と視線を交わした。そこには、もはや敵意はない。ただ、同じ使命を共有する同志としての固い信頼だけがあった。
「我々は、これより全世界に向けて共同で記者会見を開きます」
ハーメネイー師が続けた。その声には、革命の指導者としての力強いカリスマが宿っていた。
「そして、宣言いたします。我々イスラム世界は、宗派や国家の違いを超え、一つとなる。そして、イスラム世界の全ての信徒が心を一つにして祈りを捧げる時間を設け、我々が授かったこの奇跡の力を増幅させ、世界に大いなる奇跡を起こすことを」
大いなる奇跡。
そのあまりにも曖昧で、そしてそれゆえに、あまりにも恐ろしい言葉。
九条は、もはや立っていることさえ困難だった。
彼の全身から、力が抜けていく。
(……まじかよ…)
彼の口から、もはや官僚としての理性のかけらもない、ただの素の絶望の言葉が漏れた。
その日の午後。
ジュネーブの国連本部、プレスの間。
そこは、世界の終わり、あるいは始まりを目撃しようと集まった数千人のジャーナリストたちの、異常な熱気に包まれていた。
壇上には、先ほどまで敵同士であったはずのイスラム世界の指導者たちが、一つの列となって肩を並べて立っている。その光景自体が、既に奇跡だった。
そして彼らは、代わる代わる、その歴史的な宣言を全世界に向けて発信した。
『――我々は、ここに宣言する! 来る聖なる金曜日、世界中の全てのモスク、全ての家庭で、日没と共にただ一つの祈りを捧げようではないか!』
『我らが授かったこの聖なる光は、我らだけのものではない! 二十億の同胞の、その祈りの力が一つに集まる時、この光は、さらに巨大な、大いなる奇跡の奔流となるであろう!』
『その奇跡が何をもたらすか? それは、神のみぞ知る! だが、我々は信じる! それは、この分裂し傷ついた世界を癒し、砂漠に緑を蘇らせ、そして全ての人々の心に真の平和をもたらす福音の光となるであろうことを!』
そのあまりにも壮大で、そしてあまりにも熱狂的な宣言。
世界は、再び震撼した。
ある者は、それを新たな千年王国の到来だと、歓喜の涙と共に受け入れた。
ある者は、それを世界を巻き込む巨大な集団催眠の始まりだと、恐怖に打ち震えた。
そして、その全ての元凶を作り出した一人の男は。
東京へと向かう政府専用機の静かな機内。
九条は、その四つの身体で、一人、窓の外に広がるどこまでも青い空を見つめていた。
彼の頭の中で、同じ言葉が何度も、何度も反響していた。
(……自分は、過ちを犯したのではないか…?)
彼は、良かれと思って行動した。世界の分裂を避けるために。秩序を守るために。
だが、その結果生み出してしまったのは、自分たちのコントロールを完全に超えた、巨大な、そして予測不能な信仰の津波だった。
官僚として、彼は常に最悪の事態を想定し、そのリスクを管理してきた。
だが、これだけは想定できなかった。
善意と信仰が暴走した時の、その恐ろしさを。
彼は、神の秘書官として、神の不在のまま、この世界をどこへ導こうとしているのか。
その答えを、彼はもう見失ってしまっていた。
彼の終わりのない戦いは、今、勝利の昂揚ではなく、ただ深い、深い後悔の闇の中へと、その舵を切ろうとしていた。




