第63話
その日、スイス、ジュネーブの国連欧州本部、パレ・デ・ナシオンの最も警備が厳重な会議室は、人類の歴史上、いかなる首脳会談も、いかなる停戦交渉も経験したことのない、異様な、そして神聖なまでの緊張感に支配されていた。
窓の外では、レマン湖の穏やかな水面が、アルプスの山々を映して静かにきらめいている。だが、この部屋の中は、千四百年以上にわたって積み重ねられてきた、信仰と、誇りと、そして血塗られた対立の歴史が、目に見えない嵐となって渦巻いていた。
部屋の中央に設えられた巨大な円卓。その席に着いているのは、世界の四分の一、二十億近い人々の精神を導く、イスラム世界の最高指導者たちだった。
一人は、エジプト、カイロより飛来した、スンニ派の最高権威、アズハル機関のグランド・イマーム、アフマド・アッタイイブ。千年以上の歴史を持つイスラム法学の最高学府の長である彼は、その老いた身体を簡素なローブに包み、静かに目を閉じ、瞑想に耽っている。その佇まいは、政治的な権力者ではなく、純粋な学者、そして求道者のそれだった。
一人は、サウジアラビア王国の国王、サルマン・ビン・アブドゥルアズィーズ。メッカとメディナ、二大聖地の守護者として、スンニ派世界の政治的な盟主を自認する彼は、豪華な金糸の刺繍が施されたビシュト(外套)を身に纏い、その鷲のような鋭い瞳で、円卓の向かいに座る宿敵を、値踏みするように見つめていた。
そして、その視線の先に座るのは、イラン・イスラム共和国の最高指導者、アリー・ハーメネイー。シーア派、十二イマーム派の頂点に立つ彼は、黒いターバンとローブという簡素な出で立ちながら、その存在感は、誰よりも強烈な圧力を放っていた。その瞳の奥には、数世紀にわたる被差別の歴史と、革命によって国家を勝ち取ったという、揺るぎない自負の炎が宿っていた。
彼ら三人を筆頭に、トルコの大統領、インドネシアのイスラム学者会議議長、パキスタンの首相といった、非アラブ世界のイスラム大国の代表たちも、それぞれの国家と宗派の思惑を胸に、硬い表情で席に着いている。
彼らは、互いに言葉を交わさない。ただ、視線と、呼吸と、そして信仰のオーラだけが、見えない火花となって、部屋の中央で激しくぶつかり合っていた。
その、人類の霊的エネルギーが凝縮されたかのような、異常な空間。
その円卓の、議長席。
そこに、場違いなほど冷静に、そして無機質に、一人の男が座っていた。
日本の官房長官、九条。
その黒いスーツと、鉄仮面のような無表情は、この神聖な集いにおいて、あまりにも異質だった。彼は、キリスト教徒でも、イスラム教徒でもない。おそらくは、無神論者。そんな男が今、神の代理人として、この聖戦の、審判を務めようとしていた。
「――皆様。本日は、歴史的なご会合にご参集いただき、主催国日本を代表し、心より御礼申し上げます」
九条の声は、マイクを通して、完璧な同時通訳によって、アラビア語、ペルシャ語、そして英語へと変換され、各指導者の耳元のイヤホンへと届けられた。その声には、何の感情も、敬意も、そして侮蔑もなかった。ただ、これから始まる業務を、淡々とこなすだけの、究極な官僚の声だった。
「皆様がここにお集まりいただいた理由は、ただ一つ。我々の世界の新たな協力者となられた、高次元存在『KAMI』…ローマ教皇猊下が『天使』と定義された、あの方との、公式な謁見の機会を、いかにして実現するか。そのための、建設的な議論を行うためであります」
彼は、そこで一度、言葉を切った。そして、あらかじめ用意してきた「最終通告」を、より穏やかな、しかし、その真意は少しも変わらぬ言葉で、繰り返した。
「KAMIは、イスラム世界の、全ての宗派、全ての信徒に対し、等しく、その扉を開く用意があると、仰せです。しかし、その声が、一つでなければ、扉を開くことはできない、と。本日、我々が持ち帰るべきは、その『一つの声』であります。もし、それが叶わぬのであれば…。残念ながら、この謁見の機会そのものが、未来永劫、失われることになるでしょう」
その、丁寧な、しかし有無を言わせぬ最後通牒。
会議室の空気が、さらに張り詰めた。
最初に口火を切ったのは、サウジアラビアのサルマン国王だった。
「九条長官。貴殿の、そして貴国の尽力には、感謝する。だが、話は単純明快だ」
彼は、まるで世界の中心から語りかけるかのように、威厳に満ちた声で言った。「イスラムの心臓は、メッカとメディナにある。その守護者たる、この私こそが、二十億のウンマ(イスラム共同体)を代表し、かの天使と謁見するに、最もふさわしい。これは、神慮であり、歴史の必然である」
その、あまりにも傲慢な宣言。
それに、静かに、しかし、鋼のような意志で、反論したのは、イランのハーメネイー師だった。
「サルマン国王。あなたの言う『歴史』とは、権力と富によって作られた、砂上の楼閣に過ぎない。真のイスラムの精神的潮流は、預言者ムハンマドの血と、その正当な後継者たちの、殉教の血によって、受け継がれてきた。その潮流を代表する、我らシーア派の声を無視して、イスラムを語ることなど、断じて許されん」
二つの、決して交わることのない、正義と正義。
その間に割って入ったのは、アズハル総長の、穏やかで、しかし芯の通った声だった。
「お二人とも、お静まりくだされ。この場は、政治的な覇権を争う場ではない。ましてや、千年の長きにわたる、神学的な対立を、蒸し返す場でもないはずだ。我々が今、問われているのは、この未曾有の事態を前に、イスラムの叡智として、いかに賢明な判断を下せるか、ということ。私は、特定の個人が代表となるのではなく、各宗派の最も優れた学者たちによる『賢人会議』を結成し、その合議体として、天使様と対話すべきであると、提案したい」
学者、王、そして最高指導者。
三者三様の、そしてそれぞれの立場からは、あまりにも正当な主張。
議論は、開始早々、完全に暗礁に乗り上げた。
トルコの大統領が、世俗国家としての立場から、アズハル総長の案に賛同の意を示す。
パキスタンの首相は、サウジアラビアとの経済的な繋がりを重視し、国王の案を支持する。
イラクやレバノンのシーア派組織の代表は、当然のように、ハーメネイー師の言葉こそが真理であると主張する。
会議は、もはや神学論争ですらなかった。
中東の、複雑怪奇な地政学的なパワーバランスが、神の奇跡という、新しいテーマの上で、再び繰り広げられているに過ぎなかった。
九条は、その、あまりにも不毛で、そしてあまりにも人間臭い、堂々巡りの議論を、ただ黙って、聞いていた。彼の四つの身体は、それぞれの指導者の表情の微細な変化、声のトーン、そして背後に控える側近たちの動きまで、全てを完璧に記録し、分析していた。
(……駄目だ。予想通り、話にならん)
九条の脳内で、シミュレーションが完了する。このまま議論を続ければ、数時間後には、互いの教義の正当性を巡る罵り合いが始まり、最終的には、誰かが席を立って、この歴史的な会談は、決裂する。確率、99.8%。
(……ならば、予定通り、次のフェーズに移行するしかない)
議論が、最も白熱し、ハーメネイー師とサルマン国王が、通訳を介して、互いの王朝の歴史的な過ちを、激しい口調で非難し合い始めた、まさにその時だった。
九条が、静かに、しかし、全ての雑音を圧する、冷たい声で、言った。
「――皆様。ご議論、ありがとうございます」
その声に、全ての指導者が、はっとしたように、口を噤んだ。
「皆様の、その篤い信仰心と、ご自身の共同体に対する深い責任感、感服いたしました。ですが、残念ながら、時間切れです」
時間切れ?
何のことだ、と。訝しげな視線が、一斉に九条へと突き刺さる。
九条は、動じなかった。
彼は、手元の端末を操作し、円卓の中央に、一枚の、あまりにも場違いなホログラム映像を、投影した。
そこに映し出されたのは、日本の、どこにでもある市役所の窓口で使われているような、無味乾燥な、一枚の「申請用紙」だった。
その、あまりにも官僚的な書式。
そして、その最上部に、明朝体で記された、信じがたいタイトル。
『様式734-B:神聖存在との謁見、及び、奇跡授与に関する申請プロトコル』
「…………は?」
誰かが、素っ頓狂な声を上げた。
九条は、その申請用紙を、まるで法律の条文でも読み上げるかのように、淡々と、そして事務的に、説明し始めた。
「皆様。ご理解いただきたい。KAMIは、我々人間の、複雑な歴史や、神学的な論争には、一切、興味をお持ちではありません。KAMIが理解するのは、論理と、手続きと、そして明確な意思表示のみです。皆様の、その熱意と信仰は、残念ながら、KAMIのシステムが処理できる、定量的なパラメータではないのです」
彼は、ホログラムの、特定の箇所を指し示した。
「つきましては、皆様には、この『申請書』に、ご署名をいただくことになります。そして、皆様が選択できる項目は、二つしかございません」
彼は、まず、一つ目の選択肢を指した。
「選択肢A: 『代表者一名を選定する』。この場合、本日中に、皆様の全会一致で、ただ一人の代表者を選出していただく必要があります。もし、選定が叶わなかった場合、この申請は、自動的に棄却されます」
そして彼は、二つ目の選択肢を指した。その声は、悪魔の囁きのようだった。
「選択肢B: 『本日、この場に参集した、全ての公認された指導者による、合同使節団として、謁見を申請する』。この場合、皆様は、宗派や国家の垣根を超え、ただ一つの『イスラム代表団』として、KAMIとの謁見に臨むことになります。そして、その際に授けられる『奇跡』は、特定の宗派の教義を利するものではなく、全ての信徒に、等しく恩恵がもたらされる、普遍的なものとなります」
その、あまりにも官僚的で、そしてあまりにも冒涜的な、究極の二択。
会議室は、水を打ったように静まり返った。
指導者たちは、声も出せずに、目の前の、その馬鹿げた、しかし、あまりにも現実的な「申請書」を、見つめていた。
九条は、彼らの心を、完全に読んでいた。
彼らのプライドは、決して、宿敵を唯一の代表者として認めることを、許さない。
だが、彼らの野心は、この千載一遇の機会を、自らの手で棒に振ることを、決して許さない。
ならば、答えは、一つしかない。
数分間にも感じられる、長い、長い沈黙。
その沈黙を破ったのは、やはり、アズハル総長の、賢明な声だった。
彼は、深い、深いため息をつくと、静かに言った。
「……アッラーは、時に、我々が思いもよらぬ形で、その道をお示しになる。…分裂の道は、全ての者にとっての、破滅に通じる。ならば、我らが進むべき道は、一つであろう」
彼は、九条に向かって、静かに、そして力強く、頷いた。
「…賢人会議ではなく、我ら全員で、か。よかろう。その『選択肢B』とやらを、我らは、受け入れよう」
その一言が、雪崩の始まりだった。
サルマン国王が、苦虫を噛み潰したような顔で、しかし、頷いた。ここでハーメネイー師を利するくらいなら、全員で恩恵を受けた方がマシだ、と。
ハーメネイー師もまた、厳しい表情のまま、しかし、頷いた。ここでサウジの王に頭を下げるくらいなら、対等な立場でテーブルに着いた方が良い、と。
一人、また一人と、指導者たちが、その屈辱的な、しかし、唯一可能な選択肢に、同意していく。
その日、ジュネーブの国連欧州本部で、奇跡は起きた。
外交的な奇跡、と呼ぶには、あまりにも泥臭く、そして官僚的だったが。
千四百年以上にわたり、決して交わることのなかった、イスラム世界の巨人たちが、初めて、一つの目的のために、手を取り合うことを、決定したのだ。
彼らは、共に、神の天使と、会う。
会議が終わった。
九条は、会議室の外で待ち構えていた、世界中のメディアの前に立った。
そして、その鉄仮面のような表情を、わずかに和らげ、こう告げた。
「本日、イスラム世界の指導者の皆様は、歴史的な英断を下されました。彼らは、宗派や国家の違いを超え、一つの声として、KAMIとの対話に臨むことを、全会一致で、決定されたのです。これは、世界平和への、そして、宗教間の対話における、偉大なる、新たな一歩であります」
その言葉に、世界は熱狂した。
不可能を可能にした、日本の、そして九条の、神がかりの外交手腕。誰もが、そう信じた。
その裏側で、一枚の、馬鹿げた「申請書」が、全ての決め手となったことなど、誰も知る由もなかった。
その夜。
ジュネーブのホテルの一室。
九条は、その二つの身体で、一人、窓の外に広がる、平和な街の夜景を見下ろしていた。
一方の身体は、東京の沢村総理と回線を繋ぎ、この歴史的勝利を報告している。
もう一方の身体は、ただ、静かに、グラスの中の、琥珀色の液体を、揺らしていた。
勝利の、祝杯。
だが、彼の心に、勝利の昂揚は、なかった。
あるのは、ただ、深い、深い、魂がすり減るような、疲労感だけだった。
彼は、勝った。人類を、新たな宗教戦争の危機から、救った。
だが、そのために、彼がやったことは。
信仰を、手続きに貶め。
神学を、多数決で処理し。
そして、神を、市役所の窓口係のように、扱った。
その、あまりにも冒涜的な、そしてあまりにも効率的な勝利。
(……これが、私の仕事か)
彼は、グラスを一気に呷った。
喉を焼く、強いアルコールの感覚。
それが、彼が、まだかろうじて、人間であることの、唯一の証明のようだった。
神の不在のまま、神の秘書官として、この狂った世界の、面倒な調整役を、演じ続ける。
その、あまりにも不条理で、そしてどこまでも終わりのない、地獄。
彼の、眠らない戦いは、また一つ、その駒を、進めたのだった。




