第62話
帝国ホテルでの、人類史上最も高価な一夜が明けてから、一週間。
世界は、熱に浮かされていた。10兆円という、もはや金銭というよりは天文学的な概念と化した数字の衝撃。そして、大魔導師エルドラが残した「次の機会」という、甘美な希望。その二つが、世界中の国家と富豪たちの心を、新たな競争の舞台へと駆り立てていた。
『アステルガルド貢献競争』。
誰が、異世界の発展に最も貢献し、次の奇跡の果実を手にするにふさわしいか。その、ルールもゴールのない、しかし終わりなきマラソンが、水面下で静かに、そして熾烈に始まっていた。
だが、その華やかな熱狂の裏側で、もう一つの、より深刻で、そして血生臭いゲームが、最終局面を迎えようとしていた。
次なる『聖者』の椅子。
KAMIから直接『奇跡』を授かる、二人目の人間。その栄光の座を、一体誰が手にするのか。
四カ国会議での密約通り、その候補者は「イスラム世界の指導者」と内定していた。だが、その一言こそが、パンドラの箱の、最後の蓋を開ける合言葉だったのだ。
深夜。首相公邸、眠らない執務室。
沢村総理と九条官房長官、そして彼らの完璧な分身たちは、四つの身体で、一つの巨大な絶望と向き合っていた。
部屋の中央に投影された、巨大なホログラムの世界地図。その、中東から北アフリカ、東南アジアにかけての広大な領域が、無数の赤い警告マーカーで、明滅を繰り返している。
「……以上が、この二十四時間で、外務省及び内閣情報調査室が収集した、最新の状況です」
九条の分身の一人が、感情のない声で報告を締めくくった。
「サウジアラビアの国王陛下が、『二大聖地の守護者として、イスラム世界を代表する資格は、我にこそある』と、OIC(イスラム協力機構)の緊急首脳会談をリヤドで開催することを提唱。これに対し、イランの最高指導者が、『シーア派の信徒の声を無視した選定は、イスラム世界への裏切りである』と、テヘランでの対抗会談の開催を呼びかけ、猛反発しております」
「エジプトのアズハル総長は、『政治と信仰は切り離されるべき』との声明を発表。カイロでの、純粋な神学的会談を提唱。トルコ、インドネシア、パキスタンといった、非アラブの大国も、それぞれ独自の候補者を擁立する動きを見せ、水面下で激しい多数派工作を開始」
「各地で、宗派間の小規模な衝突や、テロの発生頻度が、前週比で300%以上に増加。SNS上では、『異教徒の傀儡になるな』『我が宗派こそが正統だ』といった、過激な言説が、ウイルスのように拡散しております」
報告を聞き終えた沢村の本体は、その青ざめた顔を、両手で覆った。
「……地獄だ。九条君、これは、我々が想像していた以上の、地獄だぞ」
彼の声は、もはや何の力もなかった。
神の「全員で良いわよ」という、あまりにも無邪気な神託。それは、問題を解決するどころか、イスラム世界という、ただでさえ複雑怪奇な火薬庫に、同時に複数の火種を投げ込むという、最悪の結果を招いていた。
誰もが、「自分こそが代表にふさわしい」と信じ、「自分以外の全員」を排除しようと動き始めたのだ。
「問題は」と、九条の本体が、冷徹な声で続けた。「この混沌を、アメリカ、中国、そしてロシアが、それぞれの国益のために、裏で巧みに利用し始めていることです」
彼は、ホログラムの地図を切り替えた。そこには、三国の諜報機関の、生々しい活動記録が、無数の線となって表示されている。
「アメリカは、穏健派であるアズハル総長を支持することで、中東における影響力を維持しようと画策。ロシアは、イランとの軍事的な連携を強化し、反米の旗頭として担ぎ上げようとしている。そして、最も厄介なのが中国です。彼らは、サウジアラビアに莫大な経済支援を約束する一方、パキスタンや中央アジアの国々とも個別に接触し、『一帯一路』の経済圏の中で、独自のイスラム同盟を形成しようと動いている。三者が三様、この混乱を自国の覇権争いの道具として利用し、互いの足を引っ張り合っている。おかげで、我々が目指していた『一つのテーブル』に着かせるという目標は、絶望的な状況です」
「……つまり」と、沢村の分身が呻いた。「我々は、千年以上続く、スンニ派とシーア派の対立の仲裁をしながら、その背後で糸を引く、米中露のパワーゲームをも、同時に捌かなければならない、ということか…」
それは、もはや外交などではない。
神々の戦争の、代理人。
その、あまりにも重すぎる役割。
その時だった。
執務室の、最高機密回線が、甲高い電子音を響かせた。
ディスプレイに表示されたのは、ワシントンのホワイトハウス、トンプソン大統領の顔だった。彼の顔にもまた、同じ地獄を共有する者としての、深い、深い疲労の色が刻まれていた。
『――総理。もう、限界だ』
モニターの向こうで、トンプソンは、開口一番、そう吐き捨てた。『我が国の国務省も、もはや匙を投げている。彼らは、対話などする気はない。ただ、自らの正当性を主張し、我々を自陣営に引き込もうとしているだけだ。このままでは、本当に、中東全土を巻き込んだ、大規模な戦争になりかねん』
そして、彼は、最後の、そして最も無責任な提案を口にした。
『……もう、KAMIに、決めてもらうしかないのではないか? 我々人間の手に余る、と。正直に、白旗を上げるしか…』
その、あまりにも情けない、しかし、今の彼らにとっては最も魅力的な選択肢。
沢村も、一瞬、その甘い誘惑に心が揺らいだ。
だが、それを、氷のように冷たい声で、断ち切った者がいた。
九条だった。
「――お言葉ですが、大統領」
彼は、モニターの向こうの、世界のリーダーに向かって、静かに、しかし、一切の敬意を払わずに、言った。
「それは、我々が最も犯してはならない、最悪の過ちです」
『何だと…?』
「思い出してください」と、九条は続けた。「KAMIは、我々に何と言いましたか? 『面倒だから、一箇所に集めなさい。できるでしょう?』と。あれは、単なる丸投げではない。我々人間に対する、テストです。この程度の厄介事を、自分たちの知恵と努力で解決できないような種族に、未来を委ねる価値はない、と。彼女は、そう言っているのです」
彼の目が、鋭い光を宿した。
「もし、我々がここで匙を投げ、『無理でした』と泣きつけば、どうなるか。彼女は、失望するでしょう。そして、興味を失う。我々人類という、面倒なプロジェクトそのものに。そして、彼女は、もっとシンプルで、もっと効率的な方法を選ぶでしょう。すなわち、彼女自身の判断で、誰か一人を選び、あるいは、全ての候補者を、消し去ってしまう、という選択を」
その、あまりにも恐ろしい、しかし、あの神ならばやりかねない、可能性の指摘。
トンプソンは、言葉を失った。
「我々には、後がないのです」と、九条は断言した。「この地獄は、我々自身の手で、終わらせるしかない」
彼は、大きく息を吸った。そして、この混沌を終わらせるための、唯一の、そして最も危険な、悪魔的な一手
を、口にした。
「――総理。大統領。そして、北京とモスクワの、友人たちにも、お伝えいただきたい」
彼は、部屋にいる四つの身体、そしてモニターの向こうのトンプソンに、宣言した。
「これより、我が国、日本は、KAMIの代理人としてではなく、この問題の**『最終調停者』**として、行動を開始いたします」
最終、調停者。
その、あまりにも傲慢な言葉。
「これより、我が国の沢村総理の名において、イスラム世界の、全ての主要な指導者に対し、**『最終通告』**を発出します」
九条は、その計画の、恐るべき全貌を語り始めた。
「通告の内容は、三つ。
第一に、一週間以内に、全ての敵対的行動、及び、水面下での政治工作を、即時停止すること。
第二に、我々が指定する、中立国の、一つのテーブルに着くこと。
そして、第三に、もし、この二つの要求に従えないというのであれば――」
彼は、そこで一度、言葉を切った。その瞳は、もはや人間のそれではなく、国家という非情な機械の、冷たいレンズとなっていた。
「KAMIへの謁見の権利は、全ての候補者から、永久に剥奪される。 そして、KAMIは、イスラム世界を、対話の価値なき、混沌とした領域であると見なし、未来永劫、一切の関与をしない、と。…そう、通告するのです」
それは、もはや外交ではなかった。
脅迫だった。
神の威を借りた、究極の、そして最後の、脅迫。
言うことを聞かなければ、お前たちの文明は、神の恩恵の輪から、永遠に弾き出されるのだ、と。
「……九条君。それは、あまりにも、危険すぎる…!」
沢村が、かすれた声で言った。「そんなことをすれば、彼らのプライドを、信仰を、根底から踏みにじることになる! 暴発しかねん!」
「ええ。暴発するでしょうな」と、九条は、あっさりと認めた。「ですが、総理。彼らが今、最も恐れているのは、我々異教徒からの侮辱ではありません。彼らが、最も恐れているのは、自分以外の誰かが、神の恩恵を独占すること。そして、その競争から、自分たちが脱落することです。我々が提示するのは、その競争のテーブルに、全員が平等に着くための、最後のチャンスなのです。彼らは、乗るしかありません。たとえ、それが屈辱であったとしても」
その、人間の、最も醜く、そして最も根源的な欲望である「嫉妬」を逆手に取った、悪魔の脚本。
トンプソンは、モニターの向こうで、ただ、呆然と、その日本の官僚の、底知れない悪知恵に、戦慄していた。
「……分かった」
やがて、彼は、絞り出すような声で言った。「君の、狂った作戦に、乗ろう。北京とモスクワの説得は、私に任せろ。…ただし、長官。もし、これで失敗したら、我々は、全世界を敵に回すことになる。その覚悟は、できているのだろうな」
その問いに、九条は、初めて、その鉄仮面に、かすかな、そして疲弊しきった、人間的な笑みを浮かべた。
「大統領。我々は、もうとっくの昔から、全世界を、いや、神さえも敵に回しておりますよ」
その日、東京から発せられた、一本の「最終通告」が、世界を震撼させた。
イスラム世界は、激怒した。異教徒からの、あまりにも傲慢な、内政干渉。
だが、彼らは、同時に、戦慄した。
もし、この最後通牒を拒否すれば、どうなるのか。
自分たちのライバルだけが、神の奇跡を手に入れ、自分たちは、永遠に、歴史の敗者となる。
その、悪夢のような未来。
プライドか、実利か。
信仰か、欲望か。
究極の選択を突きつけられた、指導者たち。
そして、一週間後。
スイス、ジュネーブの国連欧州本部。
その、歴史的な会議場の円卓に。
千年以上にわたり、互いを決して認め合うことのなかった、スンニ派とシーア派の、最高指導者たちが、初めて、同じテーブルに、着いていた。
彼らの顔には、深い屈辱と、そしてそれを上回る、剥き出しの野心が、浮かんでいた。
その、人類史上、最も危険で、そして最も希望に満ちた会議の、議長席。
そこに、日本の官房長官、九条が、静かに座っていた。
彼の、神の不在のままの、最後の戦いが、今まさに、始まろうとしていた。




