第60話
木槌の、乾いた音が、世界に響き渡った。
その瞬間、帝国ホテル『孔雀の間』を支配していた、人間の理性を麻痺させるほどの熱狂は、まるで幻であったかのように、すっと潮が引くように消え失せた。後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして、歴史の目撃者となった百人の男たちの、呆然とした吐息だけだった。
10兆円。
その、もはや金銭というよりは、一つの天文学的な概念に過ぎない数字が、スクリーンに静かに表示されている。
その数字の持つ、巨大な重力の前に、誰もが言葉を失っていた。
その静寂を破るように、全世界のあらゆる情報端末が、一斉に、けたたましい速報の通知音を鳴らし始めた。テレビ、スマートフォン、街頭の大型ビジョン。人類が生み出した、ありとあらゆる情報伝達網が、ただ一つの、同じ事実を、同じ見出しで、報じていた。
『【歴史的瞬間】若返りのポーション、10兆円で落札! 勝者は、中東のハリド・ビン・サルマン首長!』
その見出しが、世界を駆け巡った瞬間から、世界は、再び動き始めた。
ニューヨークのウォール街。トレーダーたちは、絶叫に近い声を上げながら、原油価格の先物取引と、中東関連のファンドの売買注文を、猛烈な勢いで叩き込み始めた。オイルマネーの、その底知れない力を、世界は改めて見せつけられたのだ。金融市場は、感謝祭でも、クリスマスでもない、ただ一人の男の勝利によって、未曾有の狂乱に突入した。
シリコンバレーの巨大ITキャンパス。社員食堂のモニターで、その瞬間を見守っていたエンジニアたちは、静かに、そして重々しく、沈黙していた。自分たちの神、アレクサンダー・ヴェンスの、初めての、そして完全な敗北。それは、テクノロジーと合理主義が、必ずしも世界の全てを支配するわけではないという、残酷な現実を、彼らに突きつけるものだった。
そして、世界中のリビングルーム。市井の人々は、ただ、呆然と、その天文学的な金額と、一個人の手に渡った「若さ」という奇跡の行方を、見守っていた。それは、もはや自分たちの日常とはかけ離れた、神々の世界の物語。ある者は、それを羨望の眼差しで、ある者は、それを嫉妬と諦観の混じったため息と共に、そしてまたある者は、それを最高のエンターテイメントとして、消費していた。
帝国ホテルの壇上。
勝者となったハリド・ビン・サルマン首長は、二人の侍従に支えられながら、ゆっくりと、しかし、その足取りには確かな威厳を湛えて、立ち上がった。彼は、壇上へと歩み寄ると、サイモン・ド・ラクロワから、あの虹色に輝く小瓶が収められたセキュリティケースを、恭しく受け取った。
その顔に、狂喜の色はなかった。勝者の傲慢さも、見られなかった。
ただ、静かに、そのケースを両手で捧げ持つと、天を仰ぎ、そして深く、深く、頭を垂れた。その姿は、勝利を収めた王というよりは、長い、長い砂漠の旅の果てに、ついに聖杯を授かった、一人の敬虔な巡礼者のようだった。彼のその静かな祈りの姿は、この狂乱のオークションに、不思議なほどの荘厳さと、神聖なまでの重みを与えていた。
オークションは、終わった。
サイモンが、閉会を宣言しようと、マイクに手をかけた、その時だった。
会場の、特別来賓席。それまで、まるで美しいエルフの置物のように、静かに、そして一切の感情を見せずに、この一部始終を見守っていた大魔導師エルドラが、すっと、その席から立ち上がった。
会場の全ての視線が、その人間離れした美貌を持つ、異世界の賢者へと注がれる。
彼女は、付き添っていた日本の儀典官に、何事かを小声で囁いた。儀典官は、一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに壇上のサイモンの元へと駆け寄り、その耳に、エルドラの意向を伝えた。
サイモンは、大きく目を見開いた。そして、数秒後、プロフェッショナルとしての冷静さを取り戻すと、再びマイクに向かって、高らかに告げた。
「皆様! しばし、ご静粛に! この歴史的なオークションの閉会にあたり、この奇跡の秘薬の寄託者であられる、アステルガルド・リリアン王国、女王陛下の名代、大魔導師エルドラ様より、皆様に、一言、ご挨拶があるとのことでございます!」
その、全く予定になかったサプライズ。
会場と、そして全世界の視聴者が、何事かと、固唾を飲んで壇上を見守る。
エルドラは、その翠色の瞳に、穏やかな、しかし全てを見通すかのような、深い叡智の光を宿して、ゆっくりと壇上へと歩み寄った。彼女が歩くだけで、その周囲の空気が、清浄なものへと変わっていくかのようだった。
彼女は、マイクの前に立つと、まず、壇上の脇で静かに佇むハリド首長に向かって、深く、そして優雅に、一礼した。
「ハリド・ビン・サルマン首長。まずは、貴殿の、その揺るぎない意志と、勇気に、心からの敬意を表します。その秘薬は、今や、貴殿のものです。その大いなる力が、貴殿と、貴殿が愛する民の、輝かしい未来を照らさんことを」
そして彼女は、会場にいる全ての参加者、そしてカメラの向こうの、数十億の人々に向かって、語り始めた。その声は、若々しく、そしてどこまでも清らかで、聞く者の魂を直接震わせるような、不思議な力を持っていた。
「そして、この歴史的な一夜に、その情熱を注いでくださった、全ての参加者の皆様。主催国として、完璧な舞台を用意してくださった、日本の皆様。そして、この瞬間を、固唾を飲んで見守ってくださった、地球の、全ての皆様に、リリアン王国を代表し、心からの感謝を、述べさせていただきます」
その、真摯で、そして気品に満ちた、感謝の言葉。
会場の、張り詰めていた空気が、わずかに和らいだ。
そして、彼女は、このオークションの、本当の意味を、高らかに、そして感動的に、語り始めた。
「皆様。今宵、皆様が競り合ったのは、単なる一つの秘薬ではございません。 それは、確かに、人の老いを癒し、若さを取り戻す、奇跡の力を持つものでしょう。ですが、その真の価値は、そこに在るのではありません」
彼女は、眼下に広がる、世界の富と権力の頂点に立つ者たちを、まっすぐに見据えた。
「皆様が、その富と、プライドの全てを賭けて、投じてくださったこの莫大な富は、我らアステルガルドの世界にとって、未来そのものでございます。 我が世界は、美しく、そして豊かです。ですが、我らの民は、まだ、飢えに苦しみ、病に倒れ、そして、自然の猛威の前には、無力です。我らの文明は、まだ、黎明期にあるのです」
彼女の声に、熱がこもり始めた。
「ですが、これで、我らの世界は、発展できるのです!」
その力強い宣言に、誰もが、息を呑んだ。
「我々は、このオークションで得られた、この尊い資金を、我ら自身の欲望のために使うつもりは、毛頭ございません。我々は、この資金で、皆様の世界が持つ、偉大なる『科学』という名の知恵を、買わせていただきたいのです!」
彼女は、数日前に自らの目で見た、あの驚異の光景を、その言葉に乗せた。
「病から人々を救う、医学の知識を。飢えをなくす、農業の技術を。そして、民が安心して暮らせる、頑丈な家を建てるための、建築の技を。我々は、皆様の世界が、数千年かけて築き上げてきた、その偉大なる遺産を学び、そして、我らの世界を、より良き場所へと、変えていきたいのです」
その演説は、もはや単なる挨拶ではなかった。
一つの文明が、もう一つの、より進んだ文明に対して抱く、純粋な尊敬と、そして未来への、切実な祈りの言葉だった。
「地球の皆さんに、心から感謝いたします。」
彼女の翠色の瞳が、わずかに、潤んだ。
「あなた方は、ただ若さを買ったのではない。あなた方の世界の、名も知らぬ隣人である、我らアステルガルドの民の、未来に、投資してくださったのです。 我らは、そのご恩を、決して忘れません。いつか、我らの世界が、貴国と同じように、豊かで、そして平和な場所になった時。その時は、必ずや、この御恩に、報いることを、ここにお誓いいたします」
その、高潔で、そして感動的なスピーチ。
会場は、万雷の拍手に包まれた。
敗者となったヴェンスも、イワノフも、そして『紅龍』の代理人でさえ、その顔には、もはや悔しさの色はなかった。あるのは、この歴史的なイベントに参加できたことへの、純粋な感動と、そして誇りだけだった。
このオークションは、単なる金満なショーではなかったのだ。
二つの世界の未来を架ける、崇高な、そして希望に満ちた、チャリティイベントだったのだ。
誰もが、そう信じ始めていた。
万雷の拍手が鳴り止まぬ中、エルドラは、最後に、悪戯っぽく、そして最高に蠱惑的な微笑みを、浮かべた。
その微笑みは、全世界の権力者たちの心を、再び鷲掴みにした。
「そして、最後に、一つだけ」
彼女の声が、再び、静まり返った会場に響く。
「皆様、ご安心ください。我がリリアン王国の宝物庫には、まだ、この『若返りのポーション』の在庫が、いくつか、眠っております。」
その一言が、会場に、そして世界に、新たな、そしてより巨大な衝撃を、もたらした。
在庫が、まだ、ある。
「今回の取引が、我々二つの世界の、輝かしい未来へと繋がるものであると、証明されたなら…。 我が国の王も、きっと、お喜びになるでしょう。そして、再び、その宝物庫の扉を、開くことを、お許しになるやもしれません。後々、また、このような機会が、訪れるやもしれませぬね」
その、思わせぶりな、そして巧みな一言。
それが、何を意味するか。
この会場にいる、百戦錬磨のプレイヤーたちに、分からないはずがなかった。
今回のオークションは、終わりではない。
始まりなのだ。
アステルガルドの発展に貢献し、彼らとの友好関係を深めた者だけが、次の、そしてそのまた次の、奇跡の果実を手にするチャンスを得られる。
その、明確な、そして抗いがたいメッセージ。
世界中の富と権力は、これからも、この『異世界』という名の、巨大な磁場に、引き寄せられ続けるのだ。
その一言が、世界中に、新たな、そしてより大きな希望と、期待感を植え付けた。オークションは、一度きりの祭りではない。これからも続く、壮大な物語の、序章なのだと。
エルドラのスピーチによって、オークションは、単なる富豪たちの金満なショーから、二つの世界の未来を架ける、崇高なチャリティイベントへと、その意味合いを、完璧に変貌させた。
富の再分配。文明間の相互扶助。
誰もが、この歴史的な一夜を、そう記憶することになるだろう。
その、美しい物語の裏側で、全ての絵図を描き、そして今、その絵図さえも、より巧みな物語によって上書きされてしまった、二人の男がいることを、世界は知らない。
官邸の地下司令室。
沢村総理と九条官房長官は、その四つの身体で、疲労困憊の極みの中で、その一部始終を、見届けていた。
モニターには、万雷の拍手の中、壇上で優雅に微笑む、エルフの横顔が映し出されている。
「…………」
長い、長い沈黙の後。
沢村の分身の一人が、力なく、そしてどこか楽しそうに、笑った。
「……やられたな、九条君」
「ええ。やられましたな、総理」と、九条の分身も、静かに答えた。
「我々は、チェスを指しているつもりだったが、どうやら、盤上には、我々よりも遥かに上手なプレイヤーが、もう一人いたらしい」
九条が仕掛けた「オークション」という悪知恵を、エルドラが「未来への投資」という、さらに巧みな物語で、鮮やかに上書きしてしまったのだ。
彼女は、ただの賢者ではなかった。
自らの国の利益を最大化し、そして世界の心さえも掴んでみせる、恐るべき、そして最高に魅力的な、外交官だった。
彼らは、安堵していた。最悪の事態は、避けられた。 テロも、強奪も、外交問題も起きなかった。オークションは、大成功のうちに、幕を閉じた。
だが、同時に、理解していた。この祭りが終われば、また新たな、そして、より困難な日常が、始まるのだと。
エルドラが残した、「次のオークション」という、巨大な宿題。 世界中の権力者たちが、今度は、アステルガルドへの「貢献競争」という名の、新たなゲームを始めるだろう。その調整役を、一体誰がやるというのか。
そして、未だ解決せぬ、イスラム世界の指導者選定問題。 このオークションの熱狂が冷めれば、彼らの突き上げは、再び、いや、以前にも増して激しくなるに違いない。
「……九条君」
本体の沢村が、まるで世界の全ての重みをその肩に背負ったかのような声で、呟いた。
「我々に、休む日は、来るのだろうか」
その問いに、九条は答えなかった。
ただ、彼の四つの身体のうちの一つが、静かに立ち上がり、主君のために、新しい、熱い茶を淹れ始めただけだった。
彼らの、眠らない夜は、まだまだ、どこまでも続いていく。史上最大のショーは、終わった。だが、本当の戦いは、これからだった。




