第59話
オークション当日。東京の空は、まるでこの歴史的な一日を祝福するかのように、どこまでも高く、青く澄み渡っていた。だが、その穏やかな空の下、帝国ホテル『孔雀の間』は、人類がその歴史上、経験したことのないほどの熱と、欲望と、そして静かな狂気に満ちていた。
会場は、この日のために特別に改装されていた。孔雀の羽をモチーフにした壮麗なシャンデリアは、その輝きを増し、壁一面には、このオークションの模様を全世界に生中継するための、数え切れないほどの超高精細カメラが、無機質な電子の眼を光らせている。
円卓ではない。全ての参加者は、まるでオペラ劇場の観客のように、壇上の一点に向けて設えられた、ビロード張りの豪奢な個人席に、一人ずつ座らされていた。その数、わずか百。だが、その百の席に座る者たちが、今この瞬間、地球という惑星の富と権力の、その頂点に立つ者たちだった。
彼らの間に、会話はない。あるのは、互いの資産状況と精神状態を探り合うかのような、鋭い視線の応酬だけだ。その異様なまでの静寂は、これから始まる戦いが、単なる社交の場ではなく、魂と魂を削り合う、真剣勝負であることを物語っていた。
壇上に、一人の男が、静かに姿を現した。
クリスティーズやサザビーズといった、世界の名だたるオークションハウスが、その威信をかけて競い合った末に、この歴史的な舞台の進行役として選ばれた、伝説のオークショニア、サイモン・ド・ラクロワ。その白髪の紳士は、数々の世紀の取引をその槌一つで裁いてきた、この世界の生きる伝説だった。
彼が、静かにマイクの前に立つ。それだけで、会場の空気が、さらに張り詰めた。
「皆様。紳士、淑女の皆様。そして、この歴史的瞬間を、全世界で見守る、数十億の視聴者の皆様」
サイモンの、よく通る、そしてどこまでも優雅なバリトンの声が、会場と、そして世界に響き渡った。
「本日は、人類の歴史において、最も記憶に残る一日となるでしょう。我々は、今日、ただ一つの商品を取引するために、ここに集いました。しかし、それは単なる商品ではありません。それは、我々が抗うことのできない『時間』という名の摂理に、一筋の光を差し込む、奇跡の結晶。我々の、最も根源的な夢の、具現であります」
彼の背後の巨大なスクリーンに、一枚の声明文が、荘厳な音楽と共に映し出された。
そこには、KAMI、日本の沢村総理、そしてアメリカのトンプソン大統領の、三者の電子署名が記されていた。
『我々は、ここに、本オークションが、国際法及び人道の精神に則り、公正かつ安全に行われることを、その全ての権威をもって保証する』
神と、世界最強の二大国家による、絶対的なお墨付き。それは、これから始まる狂乱の宴が、決して無法なものではなく、新しい時代の秩序の下で行われる、公式な儀式であることを、世界に宣言するものだった。
そして、ついに、その瞬間が訪れた。
壇上の床の一部が、静かにせり上がってくる。その上に置かれていたのは、チタン合金と強化ガラスで作られた、寸分の装飾もない、しかし絶対的な堅牢さを感じさせる、一つのセキュリティケースだった。
サイモンが、厳かにそのケースに歩み寄る。彼の指紋認証と、虹彩認証によって、幾重にもかけられたロックが、甲高い電子音と共に、一つ、また一つと解除されていく。
会場の、そして世界中の、何十億という人々が、固唾を飲んで見守る。
ついに、ケースの蓋が、ゆっくりと開かれた。
その、中から。
一筋の、光が、溢れ出した。
サイモンが、白い手袋に包まれた手で、慎重に、そして恭しく、それを取り出す。
それは、何の変哲もない、手のひらサイズの、シンプルな水晶の小瓶だった。
だが、その中に満たされた液体は、この世のものとは思えぬ輝きを放っていた。
虹色。
いや、違う。それは、見る角度によって、黄金色にも、翠玉色にも、あるいは夜明けの空の色にも見える、千変万化の輝き。液体そのものが、自らの意思で光を発し、そして周囲の光を飲み込み、そしてまた新たな光を生み出しているかのようだった。
『若返りのポーション』。
スポットライトを浴び、その妖しいまでに美しい輝きを世界中に晒す、たった一瓶の液体。その、か弱く、そして強大な存在感は、それだけで会場の空気を歪ませ、人々の呼吸を奪うほどの、絶対的なプレッシャーを放っていた。
「――では、皆様。準備は、よろしいですかな」
サイモンは、そのポーションを、防弾仕様のアクリルケースの中に静かに安置すると、その手に、オークションハンマーを握った。
「これより、人類史上、最も価値ある宝、『若返りのポーション』のオークションを、開始いたします」
「皆様がた本日のレートは日本円でお願いします!」
彼は、一度、大きく息を吸った。
「開始価格は――1兆円」
その、常識を逸脱した数字。
だが、この会場にいる誰一人として、驚きはしなかった。彼らにとって、それは当然の、あるいは、安すぎるとさえ思える、始まりの合図に過ぎなかった。
会場の約半数の参加者が、その瞬間に、静かに、そして無言で、手元の入札用の端末の電源を落とした。彼らは、この狂ったゲームの、真のプレイヤーではない。ただ、この歴史的な場の空気を吸うためだけに、途方もない参加費を支払った、観客に過ぎなかったのだ。
真のプレイヤーだけが、盤上に残った。
その数、およそ五十名。
「……1兆1000億円」
最初に、静寂を破ったのは、アメリカのIT富豪、アレクサンダー・ヴェンスだった。彼は、まるでカフェでコーヒーでも注文するかのように、こともなげに、その天文学的な数字を口にした。
その瞬間、堰は切られた。
「1兆5000億円!」
「2兆円!」
「2兆2000億円!」
価格は、もはや金銭というよりは、単なる記号の応酬となって、信じられない速度で吊り上がっていく。
ヨーロッパの老舗財閥の当主が、震える声で価格を提示すれば、南米の麻薬王と噂される謎の富豪が、それを鼻で笑うかのように、一気に倍額を叩きつける。
その狂乱の序盤戦を、冷ややかに見下ろしている者たちがいた。
ロシアのオリガルヒ、ヴィクトル・イワノフは、ただ腕を組み、その氷のような瞳で、ライバルたちの表情と、その背後にある国家の動きを、冷静に分析していた。
中国の『紅龍』は、依然として沈黙を守っている。彼らは、まだ動かない。この戦いが、消耗戦であることを、誰よりも理解していた。
「――4兆円! 4兆円でございます! 他に、ございませんか!?」
サイモンの声が、熱を帯びる。
その時だった。
「……5兆円だ」
イワノフが、初めて口を開いた。その、低く、そして脅迫的ですらある響きを持った声。それは、これまでのゲームの空気を、一変させた。
もはや、遊びではない。
国家の代理人たちが、本格的に盤上へと上がってきたのだ。
そのイワノフの提示に、すかさず、ヴェンスが涼しい顔で応じる。
「5兆1000億円」
そして、それまで沈黙を守っていた『紅龍』の代理人が、初めて、その手元の端末を操作した。
スクリーンに、無機質なゴシック体の数字が、静かに表示される。
『5兆5000億円』
やがて、価格は、誰もが予想していた一つの壁、5兆円を、あっさりと突破した。
その数字を超えたあたりから、個人の資産で戦っていた富豪たちが、一人、また一人と、静かに戦線から離脱していく。
イワノフが、舌打ちをした。彼の背後にあるロシアの国家予算もまた、無限ではない。西側諸国からの経済制裁は、確実に、その国力を蝕んでいた。彼は、ヴェンスと『紅龍』の顔を交互に睨みつけると、最後のブラフのように、声を張り上げた。
「……7兆円!」
だが、その声は、もはや虚勢にしか聞こえなかった。
「7兆1000億円」と、ヴェンスが即座に返す。
『7兆5000億円』と、『紅龍』の端末が、無慈悲に表示する。
イワノフは、天を仰いだ。そして、小さく、誰にも聞こえないほどの声で、「任務、失敗だ」と呟くと、静かに席を立った。
戦いは、アメリカの新興資本、中東の伝統的権威、そして中国の国家資本という、三つのイデオロギーの代理戦争の様相を呈してきた。
「――8兆円!」
ハリド首長が、初めて、その威厳に満ちた声を発した。それまで、彼は代理人に囁くだけで、自ら声を発することはなかった。その一声は、彼が、本気でこの戦いに臨んでいることを、会場の全ての人間に知らしめた。
「8兆2000億円」と、ヴェンス。
『8兆5000億円』と、『紅龍』。
「9兆円!」と、ハリド首長。
数字が、もはや現実感を失い、ただの巨大な記号として、スクリーン上を飛び交う。それは、単なる金の力比べではなかった。それぞれの文明が、その未来と、誇りの全てを賭けて、激突しているかのようだった。
ついに、価格は、9兆円の大台を突破した。
その数字を前にして、これまで鉄壁のポーカーフェイスを崩さなかった『紅龍』の代理人の額に、初めて、一筋の汗が浮かんだ。彼らの背後にある、中国という巨大な国家の、その限界が、見え始めていた。
『……9兆2000億円』
それが、彼らの最後の声だった。
ヴェンスが、間髪入れずに、告げる。
「9兆3000億円」
『紅龍』は、沈黙した。慎重だった彼らは、ついに、この狂ったチキンレースから、降りることを決断したのだ。
最後は、ヴェンスとハリド首長の一騎打ちとなった。
新世界の覇者と、旧世界の王。
アメリカのIT富豪と、中東の石油王。
二人の、剥き出しの意志と意志が、会場の中央で、火花を散らす。
「9兆4000億円」
「9兆5000億円」
「9兆6000億円」
互いに、一歩も引かない。千億円単位の、もはや常人には想像もつかないほどの金額が、まるでゲームのスコアのように、積み上がっていく。会場は、その二人の人間の、神々の戦いにも似た、壮絶な殴り合いに、完全に呑み込まれていた。誰もが、呼吸を忘れ、ただ、その結末を見守っていた。
「――9兆7000億円! ハリド首長!」
サイモンの声が、震えている。
その数字に、アレクサンダー・ヴェンスは、初めて、その冷静な仮面の下にある、人間的な苦悩の色を浮かべた。彼の脳裏を、自らが率いる巨大IT帝国の、そのバランスシートが、高速で駆け巡る。これ以上は、危険だ。会社の存亡そのものを、揺るがしかねない。
だが、目の前には、夢が、ある。死というバグを克服し、人類を新たなステージへと導く、その壮大な夢が。
彼は、覚悟を決めた。
その、痩せた指が、最後の力を振り絞るように、入札端末のボタンを押した。
スクリーンに表示された数字。
それは、彼が、今この瞬間に動かせる、全個人資産、その全てだった。
「――9兆8000億円!! ヴェンス様より、9兆8000億円でございます!」
会場が、どよめいた。誰もが、これで決まる、と確信した。これ以上の金額を提示できる人間など、この地球上には、もはや存在しないはずだ、と。
サイモンが、ハンマーを、ゆっくりと振り上げた。
「9兆8000億円…他に、ございませんか? よろしいですかな?」
その時だった。
それまで、代理人を通じて静かに入札を続けていたハリド首長が、ゆっくりと、そして、どこまでも穏やかに、一度だけ、その老いた手を、挙げた。
たった、それだけの仕草。
だが、その静かな動きには、数千年の歴史を持つ王者の、絶対的な貫禄が宿っていた。
全ての視線が、彼に注がれる。
サイモンは、ゴクリと喉を鳴らすと、震える声で、その最終宣告を、世界に告げた。
「――……10兆円ッ!! 10兆円ッ!! ハリド・ビン・サルマン首長より、10兆円でございますッ!!!」
10兆円。
その、人類の歴史上、一個の商品に付けられた、最も高く、そして最も重い値段。
アレクサンダー・ヴェンスは、数秒間、悔しげに唇を噛んだ後、静かに、そして深く、息を吐いた。そして、勝者である老人に向かって、小さく、しかし明確に、頷いた。完敗だ、と。彼は、静かに席に着いた。
勝負は、決した。
「10兆円…! 10兆円にて、他に、ございませんか!?」
サイモンは、叫んだ。
「よろしいですな!? …Sold!!!」
オークショニアのハンマーが、世界中に響き渡るかのように、高らかに、そして重々しく、振り下ろされた。
その乾いた木槌の音が、一つの時代の終わりと、そして、新たな時代の、狂乱の幕開けを告げていた。
落札者は、中東の石油王、ハリド・ビン・サルマン首長。
若さは、砂漠の王の手に、落ちた。




