第58話
その夜、東京の中心、日比谷は静寂に包まれていた。だが、それは安らかな眠りの静寂ではない。巨大な獣が、息を殺して獲物を待ち構えるかのような、張り詰めた、極限の静寂だった。
皇居の深い森と、官庁街の無機質なビル群に挟まれた一角。日本の迎賓館として、一世紀以上にわたり世界の要人たちをもてなしてきた帝国ホテルは、今、その歴史ある優雅な姿とは裏腹に、地上で最も厳重に警備された要塞と化していた。
警視庁は、オークション開催の二十四時間前から、ホテルを中心に半径1キロメートルに及ぶ特別交通規制を発令。内堀通りから晴海通りに至る主要幹線道路は、バリケードと物々しい装甲車両によって完全に封鎖され、ゴーストタウンのような静けさが支配している。普段なら観光客やビジネスマンで賑わう日比谷公園も、今は閉鎖され、その闇の中には、赤外線センサーと無数の監視ドローンが、見えざる蜘蛛の巣を張り巡らせていた。
上空もまた、日本の主権が及ぶ限り、完璧な真空地帯となっていた。防衛省技術研究本部がこの日のために急遽展開した、指向性エネルギーを用いた対ドローン・対空防衛システム『天御柱』が、ホテル周辺の空域をドーム状に覆い、許可なき航空機の接近を一切許さない。羽田・成田の両国際空港を発着する全ての民間航空機は、この空域を大きく迂回する特別ルートの飛行を義務付けられている。夜空には、星々の瞬きに混じって、成層圏を周回する日米の偵察衛星が放つ、無慈悲な電子の光が時折きらめいていた。
地上は、さらに凄惨なまでの緊張感に満ちていた。
ホテルの正面玄関前には、一分の隙もなく整列した儀仗隊の姿があったが、それはあくまで表向きの顔。その周囲、そしてホテルの全ての出入り口、屋上、地下駐車場に至るまで、黒い戦闘服に身を包んだ日本の警察特殊部隊(SAT)と、警視庁警備部警護課(SP)の精鋭たちが、壁のように展開していた。彼らのヘルメットのバイザーの奥の瞳は、あらゆる些細な動きも見逃すまいと、血走っている。
そして、その日本の警備網に、まるで当然のように食い込んでいるのが、アメリカのシークレットサービスだった。彼らは、自国の大統領を警護するのと全く同じレベルの権限を、日本政府に半ば強引に認めさせ、独自のセキュリティチェックポイントをホテル内にいくつも設置していた。黒いスーツに身を包み、耳にインカムを付けた彼らの冷徹な視線は、日本のSAT隊員たちさえも「潜在的な脅威」として監視対象に含んでいるかのようだった。
ホテル内部は、まさに人種のるつぼであり、そして諜報戦の最前線だった。
ロビーの豪奢なシャンデリアの下では、アラビアの伝統衣装カンドゥーラを纏った中東の警護官が、同じく屈強なロシアのFSB(連邦保安庁)のエージェントと、無言のまま視線を交錯させている。中国の国家安全部の者たちは、その存在感を巧みに消し、ホテルの従業員と見分けがつかぬほど周囲の風景に溶け込んでいた。誰もが、互いが敵であり、互いが監視者であることを、痛いほど理解していた。彼らの間に交わされる会話はない。ただ、ピリピリとした、一触即発の緊張感だけが、大理石の床を静かに這い回っていた。
この異常事態は、当然、世界中のメディアの、最高の餌食となった。
ホテルから数百メートル離れた規制線の外側には、さながら野戦病院のように、世界中の主要メディアの特設スタジオと中継車が、巨大なキャンプを形成していた。CNN、BBC、アルジャジーラ、新華社通信。あらゆる言語が飛び交い、ジャーナリストたちは、この「人類史上最大のショー」の開幕を、24時間体制で世界に報じ続けていた。
『The Eve of the Rejuvenation: Tokyo Holds Its Breath!(若返りの前夜:東京は息を殺す!)』
『Who Will Buy Immortality? A Look at the Billionaire Bidders(不死を買うのは誰だ? 億万長者の入札者たち)』
扇情的な見出しが、世界中のテレビ画面とニュースサイトのトップを飾る。視聴率は、オリンピックやワールドカップ決勝を遥かに凌駕し、人類の歴史上、これほどまでに多くの人々が、同時に一つの出来事に注目したことは、かつてなかっただろう。
戦争でも、災害でもない。
ただ、一つの小瓶を巡る、人間の欲望の物語。
その、蠱惑的で、そして下世話なドラマに、全世界が釘付けになっていた。
その、要塞と化した東京の中心へと、物語の主役たちが、続々と舞い降りてきた。
羽田空港に、この日のためだけに特別に設けられたVVIP専用ターミナル。そこには、湾岸戦争以降、初めてとなるほどの数のプライベートジェットが、その白鳥のような翼を休めていた。機体の尾翼に刻まれた紋章やロゴは、それ自体が国家予算に匹敵する富と権力の象徴だった。
最初にタラップを降りてきたのは、現代の錬金術師、アレクサンダー・ヴェンスだった。シリコンバレーのガレージから、世界を支配する巨大IT帝国を一代で築き上げたカリスマ創業者。四十代半ばにして、その髪には既に白いものが混じり、その目の下には、眠らない思考の証である深い隈が刻まれている。だが、その瞳は、少年のような好奇心と、全てを計算し尽くす合理主義の冷たい光で、爛々と輝いていた。
彼は、出迎えた日本政府の儀典官の挨拶もそこそこに、ポケットから取り出した最新鋭のARグラスを装着した。
「ふむ。大気中の粒子濃度は平常。放射線レベルも問題ない。…面白い。この国の空気は、私が予測したよりも、クリーンだ」
彼の目に、世界は常に、解決すべき課題と、最適化すべきデータとして映っている。そして、彼にとって『老い』と『死』は、その中でも最も厄介で、最も優先順位の高い『バグ』に過ぎなかった。
「若さを取り戻し、人類を火星に導く。私の野望を完遂させるためには、あと百年は必要だ。会社の資産を全て注ぎ込んでも、惜しくはない」
彼は、誰に言うでもなくそう呟くと、黒塗りのリムジンに乗り込み、帝国ホテルへと向かった。
次に姿を現したのは、砂漠の王、ハリド・ビン・サルマン首長だった。中東の巨大産油国を、その絶対的な権力で半世紀にわたり治めてきた老いたる石油王。その身体は、八十歳を超える老いによって深く蝕まれ、二人の屈強な侍従に両脇を支えられなければ、歩くことさえままならない。だが、その鷲のような鋭い眼光だけは、未だ衰えを知らなかった。
彼は、日本の蒸し暑い空気に、わずかに眉をひそめた。
「……神は、アッラーは、人の生と死を、その御心のうちにお定めになった。金で若さを買うなどという行為は、神への冒涜にあたるのかもしれん」
彼は、傍らに控えるイスラム法学者に、そう問いかけた。法学者は、静かに答えた。「首長様。コーランには、こうもございます。『汝、知識を求めよ。たとえ、それが中国にあろうとも』と。これもまた、神が我々にお与えになった、試練であり、そして機会なのかもしれませぬ」
その言葉に、ハリド首長は、深く、深く頷いた。そうだ。これは、信仰の問題ではない。一族の、そして国家の、存亡がかかった戦いなのだ。
「……分かっておる。我が血族と、我が民の未来のためだ。この競争、降りるわけにはいかん」
彼の瞳の奥で、数千年の歴史を持つ、砂漠の民の誇りと、現実主義が、静かに火花を散らした。
ロシアからは、ヴィクトル・イワノフが、たった一人で降り立った。KGB出身とも、マフィアのボスとも噂される、ロシアの影の世界を牛耳る謎多きオリガルヒ。その素性は、西側の諜報機関でさえ、完全には掴めていない。派手なブランド品に身を包む他のオリガルヒとは異なり、彼の服装は、どこにでもいる中年のビジネスマンのように、地味で、控えめだった。だが、その男が歩くだけで、周囲の空気が凍りつくほどの、異様なプレッシャーが放たれていた。
彼は、出迎えたロシア大使館の武官に、ただ一言だけ、低い声で命じた。
「……クレムリンには、伝えておけ。『獲物は、必ず仕留める』と」
彼は、プーチン大統領の暗黙の支持を取り付け、国家の代理人としてこのオークションに参加していた。プーチンにとって、ひいてはイワノフにとって、このオークションは新たな冷戦の戦場であった。彼の至上命題は、この究極の力と生命の象徴を、何としてでも西側諸国の手に渡らせないこと。 最良の結果は、祖国ロシアの威光を示すために、ポーションを落札すること。だが、次善の結果――すなわち、西側の勝者が財政的に破綻するほど価格を吊り上げ、たとえ落札できなくとも、あらゆる手段を用いてロシアの優位を確保すること――もまた、許容されるべき勝利と見なされていた。彼の目的は若さへの渇望ではなく、冷徹な地政学的計算に基づいていた。彼は財宝を求める商人ではなく、敵から戦略兵器を奪う、あるいは無力化するための兵士だったのだ。
そして、最も不気味な存在が、**『紅龍』**だった。彼らは、決してその姿を見せない。ただ、北京から派遣された、顔のない外交官と銀行家たちの集団が、帝国ホテルのスイートルームを一つ丸ごと借り切り、そこを前線の司令室としていた。
複数の国営企業、謎の民間富豪、そして党の最高幹部たちが連合した、正体不明の入札グループ。彼らの目的は、ただ一つ。国家の威信をかけ、このポーションを、祖国の土へと「回収」すること。
彼らにとって、これはオークションではない。アヘン戦争以来、西側列強に奪われ続けてきた、中華の誇りを取り戻すための、聖戦だった。彼らは、金で戦うのではない。戦略で、そして時には、ルールさえも無視した非合法な手段で、勝利を掴み取ろうと画策していた。
その、世界中の欲望が渦巻く坩堝と化した東京の喧騒を、地上で最も静かで、そして最も孤独な場所から、見つめている者たちがいた。
首相官邸の地下深く、危機管理センター。
沢村総理と九条官房長官、そして彼らの完璧な分身たちは、眠らない目で、都内各所に設置された数千台の監視カメラの映像と、世界中の通信を傍受する諜報網からの報告を、ただひたすらに睨み続けていた。
モニターには、帝国ホテルに向かうリムジンの車列、羽田空港に降り立つプライベートジェット、そして、世界中のSNSでリアルタイムに更新されていく、人々の熱狂と憶測が、無数のウィンドウとなって表示されている。
だが、彼らの表情に、その祭りに浮かれる国民のような高揚感は、微塵もなかった。
あるのは、この危険な花火大会が、大惨事にならずに無事終わることだけを祈る、極度の、そして人間性を麻痺させるほどの、心労と緊張感のみ。
「……九条君。現在の、脅威レベルは?」
本体の沢村が、乾いた声で問いかける。彼の四つの身体は、それぞれ別の業務をこなしながらも、その意識は完全に、この一点に集中していた。
「レベル4(深刻)を維持。予断を許しません」
本体の九条が、淡々と答えた。彼の四つの身体もまた、完璧な連携で、この危機管理オペレーションを指揮していた。
「現在までに、オークション参加者を標的としたと思われる、DDoS攻撃(分散型サービス妨GEOINT(地理空間情報)の両面から分析した結果、複数の国家が関与しているものと見られますが、特定には至っておりません」
「物理的な脅威についても、同様です。ホテル周辺で、複数の不審者が身柄を拘束されました。いずれも、他国の諜報機関の関係者である可能性が高い」
彼らの最大の懸念は、オークションそのものではなかった。落札価格がいくらになろうと、それは国家の財政に直接影響するものではない。
彼らが最も恐れていたのは、その裏で、水面下で、必ず動くであろう各国の諜報機関による、非合法活動だった。
ポーションそのものを強奪しようとする計画。
ライバルとなる参加者の資産状況を探るためのサイバー攻撃。
あるいは、オークションそのものを混乱させるための、物理的なテロの可能性。
このオークションは、もはや単なる競売ではない。
世界中のスパイたちが、その総力を挙げて暗躍する、見えざる戦争の、最前線となっていたのだ。
彼らにとって、この一夜は、人類史上、最も複雑で、そして最も神経をすり減らす、究極の危機管理オペレーションだった。
「……KAMIは、何と?」
沢村が、最後の、そして最も重要な問いを口にした。
「……『面白そうだから、頑張ってね』と。その後、アステルガルドの発展計画のシミュレーションに夢中で、こちらの通信には、一切応答がありません」
九条は、事実だけを、淡々と述べた。
「……そうか」
沢村は、力なく笑った。
そうだ。
神は、不在なのだ。
この、人間臭く、そして危険なゲームの盤上には。
自分たち、哀れな人間たちだけが、残されている。
互いに傷つけ合い、騙し合い、そして、それでもなお、この破滅的なショーを、最後まで演じきらなければならない。
彼は、モニターに映し出された、帝国ホテルの煌びやかなシャンデリアを見つめた。
その光が、まるでこれから始まる、狂乱の宴の舞台を照らし出す、地獄の業火のように、彼には見えた。
祭りの前夜。
東京は、そして世界は、その欲望の頂点で、静かに、そして確実に、狂い始めていた。




