第53話
迎賓館『和風別館・游心亭』。その、日本の伝統建築の粋を集めた静謐な空間は、今、歴史上いかなる首脳会談にも匹敵する、濃密な緊張感に支配されていた。
一日がかりの視察を終え、日本の『科学』という名の魔法の洗礼を浴びた大魔導師エルドラ。彼女を主賓として開かれたささやかな晩餐会は、和やかな雰囲気のうちに終わりを告げた。だが、それはあくまで前座に過ぎない。本当の交渉は、ここから始まる。
障子窓の外では、ライトアップされた見事な日本庭園が、幻想的な夜の闇に浮かび上がっている。部屋に満ちる、ほのかな白檀の香り。
だが、その静けさとは裏腹に、テーブルを挟んで向かい合う二人の男の心は、嵐の前の静けさの只中にあった。
官房長官、九条。そして、彼の補佐として控える外交官、小此木。
彼らの視線は、テーブルの中央に、まるでこの世の全ての光をその一点に凝縮したかのように鎮座する、一つの小さな水晶の小瓶に注がれていた。
虹色の液体が、自ら淡い光を放ちながら、ゆっくりと揺らめいている。
『若返りのポーション』。
人の『老い』という、科学でさえ抗えぬ絶対の摂理を覆す、禁断の秘薬。
「――さて、九条殿」
沈黙を破ったのは、エルドラだった。彼女の若々しいエルフの姿は、この和の空間において異質なはずなのに、不思議と、数百年の時を生きてきた賢者としての威厳が、周囲の空気に溶け込んでいる。
「わらわは、貴国の『科学』の力、その一端を、確かに見せていただいた。実に見事なものじゃった。特に、あの『インターネット』とかいう、知性の集合網。そして、『スーパーコンピュータ』とかいう、世界の理を計算する機械。あれらは、我らの魔法とは全く異なる道筋じゃが、同じく世界の真理へと至る、偉大なる道であると、認めざるを得ない」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。そして、その翠色の瞳に、老獪な勝負師の光を宿した。
「わらわは、貴国から多くのものを見せていただいた。その礼として、今度は、わらわが、我が世界の『力』を、貴国にお見せする番じゃな」
彼女は、テーブルの上の小瓶を、細く美しい指でそっと指し示した。
「わらわは、この秘薬の秘密…その製法の一部、あるいは完成品そのものを、貴国に提供しても良いと考えておる。もちろん、それに見合うだけの『対価』を、貴国が支払うというのなら、の話じゃがな」
そして、彼女は、悪魔の問いを投げかけた。
「さて、九条殿。貴国の『科学』は、人の『老い』に、一体どれほどの価値を、つけるかな?」
その問いは、静かだった。だが、九条の耳には、雷鳴のように轟いた。
彼の背後で、小此木が息を呑むのが分かった。同席を許された科学者の須田教授に至っては、もはや興奮のあまり、その呼吸が荒くなっている。
九条の脳は、彼に与えられた神のスキルによって強化された超高速思考で、瞬時にあらゆる可能性を計算し始めた。
若返り。
それは、単なるアンチエイジングなどという生易しいものではない。権力者が、その権力を永遠に維持するための、究極の道具。富豪が、その富を永遠に享受するための、無限のパスポート。
このポーションの存在が公になれば、世界中の権力と富が、この小瓶一つを目指して、津波のように押し寄せてくるだろう。
その価値は、計り知れない。
いや、計り知れないからこそ、厄介なのだ。
「……そうですね…」
九条は、完璧なポーカーフェイスの下で、思考を巡らせながら、ゆっくりと口を開いた。彼の声は、どこまでも冷静だった。
「正直に申し上げて、エルドラ様。その秘薬の価値を、我々日本という一国家だけで付けることは、不可能ですね」
意外な、そして謙虚な答え。
エルドラの眉が、わずかに、ぴくりと動いた。
「ほう? 不可能、とな。それはまた、なぜじゃ?」
「二つ、理由があります」と、九条は指を一本立てた。「一つは、このポーションがもたらすであろう、社会倫理的な影響が、巨大すぎるからです。誰が、若返る権利を得るのか。その選定を、我々政府が行うなど、国民の合意を得られるはずもない。それは、新たな差別と、深刻な社会の分断を生むだけでしょう」
そして彼は、二本目の指を立てた。その瞳には、冷徹な戦略家の光が宿っていた。
「そして、もう一つの理由。それは、このポーションの価値を、我々日本だけで決めてしまうのは、『もったいない』からです」
「もったいない?」
「ええ」と、九条は頷いた。そして、彼は、この交渉の、そして世界の未来さえも左右する、壮大な、そして悪魔的な提案を口にした。
「どうでしょう、エルドラ様。このポーションの価値を、我々だけで決めるのではなく、世界中を参加させて、『オークション』を行うというのは?」
「オークション…?」
エルドラの翠色の瞳に、純粋な疑問の色が浮かんだ。彼女の世界には、まだその資本主義的な概念が存在しないか、あるいは一般的ではないのだろう。
「ええ」と、九条は、まるで子供にゲームのルールを教えるかのように、丁寧に、そして戦略的に言葉を紡ぎ始めた。
「オークションとは、こういうものです。まず、我々がこの『若返りのポーション』という、世界でただ一つの商品を、提示する。そして、それを欲しがる世界中の富豪、国家、権力者たちを、一つの場所に集めるのです。そして、彼らに、値段を競わせる。『これは、一つの物の値段を、みんなで次々と高い値段を付けていき、最終的に、一番高い値段を付けた者が、それを買い取る』という、極めて単純なルールです」
彼は、そこで一度、言葉を切った。そして、その提案が持つ、本当の恐ろしさを、エルドラに叩きつけた。
「この方法であれば、我々が価値を決める必要はありません。その価値は、それを最も渇望する者たちの、剥き出しの欲望そのものが、決定してくれる。そして、その結果として生み出される金額は、おそらく、我々の想像を絶する領域に達するでしょう」
九条は、こともなげに続けた。
「おそらく、5兆…と言っても、単位が違うので分からないですね。円という、我々の通貨単位での話ですが。少なくとも、あなたの国の国家予算の、数百年分に相当する、かなりの値段になります」
その、あまりにも天文学的な数字。
エルドラは、さすがに言葉を失い、その美しい顔に驚愕の色を浮かべていた。だが、それ以上に彼女の心を捉えたのは、その金額の巨大さではなかった。
自らが提示した切り札の価値を、自分たちで決めるのではなく、敵であるはずの世界全体に委ね、そしてその結果として得られる利益を最大化するという、そのしたたかで、そして合理的な発想。
彼女は、目の前の、この感情の見えない黒髪の男に、初めて、畏怖に近い感情を抱き始めていた。
(……なんという男じゃ。わらわが、生涯をかけて戦ってきた、宮廷の魔術師や、老獪な政治家たちとは、全く質の異なる、恐るべき知性…!)
だが、彼女もまた、ただの学者ではない。一国の命運を背負う、老練な外交官でもあった。
「……なるほど。オークション、か。面白い。実に、面白い仕組みじゃな」
彼女は、体勢を立て直すと、小瓶に視線を落とした。「じゃが、九条殿。それほどまでの価値を持つというのなら、その『商品』の仕様は、正確にお伝えしておかねばなるまい」
彼は、静かに問いかけた。
「失礼ですが、その効果は、どれほどのものでしょうか?」
「そうじゃな」と、エルドラは、待ってましたとばかりに、その究極の秘薬の性能を語り始めた。「伝承では、人格や記憶はそのままに、肉体の年齢だけを、その者が最も心身ともに充実していたとされる、二十歳の頃にまで戻す、とある。ただし、その効果は、生涯において、ただ一回限りしか使えぬ。効果が凄まじい分、厳しい制限があるのう」
「なるほど、なるほど…。凄まじい効果ですね…」
九条は、感嘆の声を漏らしながら、その効果がもたらすであろう、政治的、経済的なインパクトを、脳内で高速で計算していた。
一代限りの若返り。それは、後継者問題を抱える独裁者や、一代で富を築いた老富豪にとって、まさに喉から手が出るほど欲しい力。オークションは、間違いなく熾烈を極めるだろう。
これは、いける。
この交渉、我々の勝ちだ。
九条が、内心で勝利を確信した、まさにその時だった。
その、高度に張り詰められた知的な交渉の場に、場違いな、そして破壊的な、のんきな声が割り込んだ。
「えー、そう? 私も若返りスキルあるけど、配ろうか?」
声の主は、それまで退屈そうに、出された和菓子を黙々と食べていただけの、KAMIだった。
彼女は、きょとんとした顔で、テーブルの上のポーションと、顔面蒼白になっている九条たちを、交互に見比べていた。
その一言が、部屋の空気を完全に破壊した。
九条の、完璧に構築されつつあった戦略が、音を立てて崩れ落ちていく。
(――なっ…!? こ、この神は、一体何を…!?)
「すみません、交渉中なので、黙っててください、神!」
九条の口から、もはや敬語さえもかなぐり捨てた、悲鳴に近い声が飛び出した。
「そうじゃのう」
九条の悲痛な叫びに、意外にも同調したのは、エルドラだった。彼女もまた、この交渉の場の空気を、この気まぐれな神に破壊されることだけは、避けたかったのだ。彼女は、KAMIに向かって、まるで言うことを聞かない孫娘を諭すかのように、穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
「神に出られると、この交渉が台無しになるのでな。少しだけ、黙っていてくだされ」
人間と、エルフ。
利害を異にする二人の交渉役が、この瞬間だけ、奇跡的なまでの連携を見せた。
その、二方向からの、真剣な「お願い」に。
KAMIは、さすがに、少しだけ、不満そうな顔をした。
「はーい。しょうがないな…」
彼女は、頬をぷくりと膨らませると、近くに控えていた給仕の女性に、声をかけた。
「すみません! このケーキ、おかわりで!」
そして、新しく運ばれてきたショートケーキに、再び夢中になり始めた。
嵐は、去った。
九条は、額に滲んだ冷や汗を、誰にも気づかれぬように、そっとハンカチで拭った。
そして、大きく咳払いをした。
「おほん。…気を取り直して。そうですね」
彼は、再び冷徹な官僚の仮面を被り直した。「エルドラ様のご提案、そして、その秘薬の驚異的な効果、確かに理解いたしました。おそらく、このポーションを狙って、我が国は、いや、世界は、えらいことになります。ですが、それだけの価値があるからこそ、オークションという手法は、極めて有効であると、改めて確信いたしました」
彼は、エルドラに向き直り、最後の提案を行った。
「つきましては、その貴重なポーション、現物を一旦お預かりして、厳重に保管の上、オークションの準備を進める、ということで、よろしいですかな?」
その、大胆な、しかし理に適った提案。
エルドラは、しばらくの間、腕を組んで黙考していた。
だが、やがて、彼女の顔に、満足げな笑みが浮かんだ。
彼女は、この交渉の、本当の着地点を見出したのだ。
「うむ。オークション、か。よかろう」
彼女は、静かに頷いた。「その提案、飲もう。じゃが、その売却金額は、全て、今後の我らと貴国との取引の、資金源とさせてもらいたい。のう?」
彼女の目が、九条の心の奥底を、見透かすように光る。
「わらわは、科学技術を買いたい。チョコレートや酒ではない。貴国が持つ、あのスーパーコンピュータや、インターネット、そして、あの鉄の鳥(航空機)を生み出した、その根源たる知恵そのものを、な。そのためならば、値段は、全てそちらに任せる。なぜなら、科学技術を買うということは、我らアステルガルドの世界が、さらに発展することに繋がる。我らにとって、これ以上ない投資じゃからのう」
賢明で、そして未来を見据えた、エルドラの返答。
九条は、もはや感服するしかなかった。
彼女は、ただの魔法使いではない。一国の未来を、その双肩に担う、真の為政者だった。
そして、その彼女が、自分たちの『科学』を、金銀財宝以上の価値があると、明確に認めてくれた。
その事実は、九条の胸に、静かな、しかし確かな誇りを灯した。
「分かりました。その前提で、動きます」
九条は、深く、深く頭を下げた。
「この歴史的な取引が、我々二つの世界の、輝かしい未来への第一歩となることを、お約束いたします」
交渉は、成立した。
人類の『老い』を克服する、禁断の秘薬。
その所有権は、今、確かに、日本政府の手に委ねられた。
そして、その対価として、異世界は、地球の『科学』という、もう一つの魔法を手に入れる権利を得た。
その夜、九条は、眠らない身体で、眠れない夜を過ごした。
彼の頭の中では、既に、史上最大にして、史上最も危険なオークションの、その壮大な計画書が、組み上がり始めていた。
世界中の王、独裁者、そして億万長者たちが、一つの小瓶を巡って、その富と、プライドと、そして国家の威信さえも賭けて争い合う、狂乱の宴。
蠱惑的で、そして破滅的なショーの、幕開けを告げるゴングを、今まさに、自分自身が鳴らさなければならないのだ。
彼の、中間管理職としての苦悩は、また一つ、その深さと、そしてその面白さを、増したのだった。




