表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい  作者: パラレル・ゲーマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/194

第50話

 あの日、KAMIがイエス・キリストそのものをその身に降ろし、二千年の時を超えた神託を授けてから、数日。

 バチカン市国は、表面上はいつもと変わらぬ静けさを保っていた。だが、その水面下、アポストリコ宮殿の最深部では、人類の歴史を永遠に塗り替える、極秘の準備が着々と進められていた。

 場所は、歴代の教皇たちが私的な祈りを捧げてきた、宮殿内で最も神聖で、そして最も機密性の高いとされる『聖霊の礼拝堂』。

 その壁という壁は、キリストの生涯を描いた荘厳なフレスコ画で埋め尽くされ、祭壇には、ペテロの時代のものと伝えられる、簡素な石造りの十字架が静かに佇んでいる。空気は、長い年月の祈りと、焚きしめられた乳香の香りで、満ちていた。


 その神聖な空間に、しかし、今は異様な緊張感が漂っていた。

 祭壇の前には、三人の枢機卿が、祈るように、あるいは何かに怯えるように、ひざまずいている。教皇の右腕である国務長官ヴァレリアーニ。信仰の番人である教理省長官ベルラルミーノ。そして、バチカン銀行の総裁を兼ねる財務長官。政治、信仰、そして財産。カトリック教会の全てを司る三人の重鎮たちだ。

 そして、その後ろ。

 まるで、この神聖な劇の観客であるかのように、日本の官房長官、九条と、外交官の小此木が、ただ静かに佇んでいた。彼らの顔には、もはや緊張や驚愕の色はない。ただ、これから始まる、世界の常識が破壊される瞬間を、歴史の証人として見届けるという、冷徹な覚悟だけがあった。


 礼拝堂の中央。

 教皇レオ14世は、白い祭服に身を包み、静かに祭壇の前に立っていた。

 数日前、神の言葉を受け、その魂に再び生命の炎を灯したこの老人の佇まいは、もはや単なる宗教指導者のそれではなかった。その一挙手一投足に、内側から滲み出るような、神聖なオーラがまとわりついている。彼は、もはや教皇ではない。生ける『聖人』そのものだった。

 そして、その聖人の前に、彼の家庭教師が、立っていた。

 黒いゴシック・ロリータのドレスに身を包んだ、神の器。KAMI。


「じゃあ、始めましょうか」

 少女は、まるでピアノのレッスンでも始めるかのように、軽い口調で言った。

「いい? これからあなたに教えるのは、『因果律改変能力』よ。 難しく考えなくていいわ。要は、あなたは、これから、あなたの意思の力だけで、因果律を改変する。つまり、『奇跡』を起こすの」

 彼女は、教皇の目の前まで歩み寄ると、その赤い瞳で、じっと老人の顔を見上げた。

「いいこと? あなたは、もうただの人間じゃない。あなたは、数日前に、イエスの言葉を直接受けた、正真正銘の『聖人』よ。聖人が、奇跡を使える。そんなの、当たり前の話でしょう? だから、あなたに奇跡が使えるのは、当然なの。分かった?」


 その、あまりにも単純で、そしてあまりにも力強い、洗脳にも似た言葉。

 それは、この能力の根幹である「自分はできると思い込む」という、自己暗示のプロセスを、ショートカットするための、神からのショートカットキーだった。

「……はい。理解、いたしました」

 教皇は、静かに、そして力強く頷いた。彼の心に、もはや疑いはなかった。


「よろしい」

 少女は、満足げに頷いた。「じゃあ、まず、手始めに光の球でも出しましょうか。見てなさい? 私が、まず実践してあげるから」

 彼女は、そう言うと、右の掌を、すっと天に掲げた。

 そして、まるで世界に命じるかのように、たった一言、呟いた。

「――光よ、あれ」


 その瞬間。

 彼女の掌の上に、小さな、しかし太陽のように眩い光の球が、音もなく生まれた。

 礼拝堂の中が、昼間のように明るく照らし出される。フレスコ画の天使たちが、その光を浴びて、まるで本当に動き出すかのように、生き生きと輝いた。

 少女は、楽しそうに、その光球を自在に操り始めた。指先で弾けば、それは部屋の中を蝶のように舞い、手招きすれば、それは忠実なペットのように、彼女の手元へと戻ってくる。

「ほらね? こんなに、簡単!」

 彼女は、にこりと笑った。

「じゃあ、今度はあなたの番。難しく考えないで。ただ、心の中で、光が集まってくるイメージをして。そして、言ってみて。『光よ、あれ!』とね」


 教皇は、促されるままに、ゆっくりと、震える右手を掲げた。

 彼は、目を閉じた。

 そして、心の中に、数日前に聞いた、あの温かいイエスの声を、思い描いた。

『さあ、生きなさい、アンジェロ』

 そうだ。私は、生かされている。そして、導かれている。ならば、できないはずがない。

 彼の唇が、ゆっくりと開かれた。


「――光よ、あれ」


 その、か細い、しかし、揺るぎない信念に満ちた声が、礼拝堂に響き渡った、その瞬間。

 彼の掌の上に。

 ぽっ、と。

 小さな、蝋燭の炎ほどの、か弱く、そして温かい光が灯った。

 それは、KAMIが生み出した太陽のような輝きとは、比べ物にならないほど、ちっぽけな光だった。

 だが、それは、確かに、そこに存在していた。

 人間の意思が、無から有を生み出した、その最初の瞬間だった。


「おお…!」

「神よ…!」

 ひざまずいていた三人の枢機卿たちから、嗚咽にも似た、感嘆の声が漏れた。

 九条と小此木もまた、そのありえない光景に、息を呑む。

 科学という、彼らが信じてきた世界の法則が、今、目の前で、静かに、そして完全に、否定されたのだ。


「……出来たわね」

 少女は、満足げに頷いた。「上出来よ、最初のステップとしては。じゃあ、次」

 彼女は、まるでレッスンの次のステップに進むかのように、あっさりと、そして残酷な要求を口にした。

「次は、その病にまみれた、あなた自身の身体を、治しなさい」


 その言葉に、教皇は、はっとしたように、自らの胸に手を当てた。

 長年、彼を苦しめてきた、老いた心臓。その、不規則な鼓動。


「他者への治癒と違って、自分自身への治癒は、簡単なのよ。 なぜなら、自分の身体の設計図は、あなたの魂が、一番よく知っているから」

 少女は、教皇の掌の上で、か弱く揺らめく光の球を指さした。

「ほら。その光を、ゆっくりと操作して、あなたの胸に当てなさい。そして、強く、イメージするの。あなたが、まだ若く、健康だった頃の、力強い心臓の鼓動を」


 教皇は、促されるままに、その光の球を、ゆっくりと、自らの胸の、祭服の上から当てた。

 光が、彼の身体に触れた、その瞬間。

 凄まじい輝きが、礼拝堂全体を包み込んだ。

 か弱かったはずの光が、まるで超新星爆発を起こしたかのように、純白の閃光となって、溢れ出したのだ。

 あまりの眩しさに、誰もが目を開けていられない。


「おお…! おお、主よ! これは、神の奇跡です!」

 枢機卿たちが、その光の中にひれ伏し、涙ながらに祈りの言葉を叫んでいる。

 九条と小此木は、腕で顔を庇いながら、その科学では説明のつかない、絶対的なエネルギーの奔流を、ただ肌で感じるしかなかった。


 やがて、数秒にも、数分にも感じられた光が、ゆっくりと収まっていった。

 後に残されたのは、静寂と、そして、祭壇の前に、呆然と立ち尽くす、一人の老人の姿だけだった。

 いや、違う。

 彼は、もはや、老人ではなかった。

 それまで、彼の顔を覆っていた、深い疲労の色と、死の影が、嘘のように消え失せている。背筋は、若い頃のように、まっすぐに伸び、その肌には、血の通った艶が戻っている。

 そして何よりも、その瞳。

 そこには、先ほどまでの穏やかな老人のそれではない、自信と、そして生命力に満ち溢れた、壮年の指導者の光が、力強く宿っていた。


 彼は、ゆっくりと、自らの胸に手を当てた。

 そして、深く、深く、息を吸い込んだ。

 肺が、空気を求める喜びに、打ち震えている。心臓が、規則正しく、そして力強く、生命の賛歌を歌っている。

「……おお。おお…! 身体が、羽のように、軽い…!」

 その、驚きに満ちた声は、もはや老人のそれではなく、若々しい張りと、力に満ちていた。


「よしよし。これで、伝授はOKね」

 少女は、まるで教え子の成長を喜ぶ教師のように、満足げに頷いた。

 そして彼女は、最後に、最も重要な「注意書き」を、この新しい奇跡の担い手に告げた。

「いいこと? あなたは、今、自分の身体を治した。でも、他者を癒すのは、全く別の話よ。他者への奇跡による治癒は、この世界の医者がやるのと同じくらい、いや、それ以上に、人体の構造を勉強しないと、絶対にダメ。 人間の身体は、あなたが思うより、ずっと複雑な機械なの。その設計図も理解せずに、下手に手を出すと、良かれと思ってやった治癒が、相手を殺すことになるかもしれないから。これは、私との、約束ね」


 その、あまりにも現実的で、そして恐ろしい警告。

 教皇は、その言葉の真の意味を理解し、厳粛な面持ちで、深く頷いた。

「……はい。心に、刻みます」


「よろしい」

 少女は、もう全ての仕事が終わったとばかりに、パンパンと、ドレスについた見えない埃を払った。

「じゃあ、伝授も済んだし、私は帰るわ。じゃあ、またね」

 その、あまりにも軽い別れの言葉を残して。

 少女の姿は、来た時と同じように、ふっとその場から、消え失せた。


 後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして、神の奇跡の余韻。

 ひざまずいていた枢機卿たちが、おそるおそる顔を上げる。

 そして、彼らは見た。

 完全に若さを取り戻し、神々しいまでのオーラを放ちながら、静かに佇む、自分たちの主の姿を。

 彼らは、再び、その場にひれ伏した。

 今度は、恐怖や驚愕からではない。

 自分たちの目の前に、今、確かに、生ける聖人が誕生したという、揺るぎない確信と、歓喜からだった。


 その日の夜。

 官邸の沢村総理の元に、九条から、最高レベルの機密回線を通して、報告が入った。

『……総理。モデルケース事業は、完了いたしました。結果は…我々の、あらゆる予測を、遥かに超えるものでした』

 モニターの向こうの九条の顔は、その完璧なポーカーフェイスさえも保てないほど、蒼白だった。

 彼は、今日、自らの目で見た、奇跡の全てを、ありのままに、主君に報告した。


『……我々は、とんでもないものを、この世に生み出してしまいました』

 九条は、絞り出すような声で言った。

『我々は、ただのモデルケースを選んだつもりだった。ですが、結果として、我々は、神から直接、奇跡の行使を公認され、そして自らの老いさえも克服した、生ける預言者を、この世に誕生させてしまったのです。彼の言葉は、もはやただの教皇の言葉ではない。神の言葉そのものとして、これから世界中に響き渡ることになるでしょう。その影響力は、もはや、我々四カ国でさえ、コントロールすることは、不可能です』


 その、あまりにも重い報告。

 沢村は、何も答えられなかった。

 ただ、窓の外の暗い空を、見上げるだけだった。

 彼らが、必死に、そして巧みに組み上げてきた、人間たちによる、人間たちのための、新しい世界の秩序。

 その、脆いチェス盤の上に、今、誰も予測しなかった、そして誰もコントロールできない、絶対的な「ジョーカー」が、投下されたのだ。

 そのジョーカーが、これから世界に、何をもたらすのか。

 祝福か、それとも、破滅か。

 その答えを、知る者は、もはや、神でさえも、いなかったのかもしれない。

 物語は、またしても、人間たちの矮小な思惑を、遥かに超えた場所へと、その舵を切ろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
更新お疲れ様です! ついに人類が魔法を使えるようになるんですね。因果律改変能力とか発想と工夫次第でかなり面白い事できそうですね! これから魔法を与えられた聖者が何をするのか、世間にどう影響を与えていく…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ