第50話
あの日、KAMIがイエス・キリストそのものをその身に降ろし、二千年の時を超えた神託を授けてから、数日。
バチカン市国は、表面上はいつもと変わらぬ静けさを保っていた。だが、その水面下、アポストリコ宮殿の最深部では、人類の歴史を永遠に塗り替える、極秘の準備が着々と進められていた。
場所は、歴代の教皇たちが私的な祈りを捧げてきた、宮殿内で最も神聖で、そして最も機密性の高いとされる『聖霊の礼拝堂』。
その壁という壁は、キリストの生涯を描いた荘厳なフレスコ画で埋め尽くされ、祭壇には、ペテロの時代のものと伝えられる、簡素な石造りの十字架が静かに佇んでいる。空気は、長い年月の祈りと、焚きしめられた乳香の香りで、満ちていた。
その神聖な空間に、しかし、今は異様な緊張感が漂っていた。
祭壇の前には、三人の枢機卿が、祈るように、あるいは何かに怯えるように、ひざまずいている。教皇の右腕である国務長官ヴァレリアーニ。信仰の番人である教理省長官ベルラルミーノ。そして、バチカン銀行の総裁を兼ねる財務長官。政治、信仰、そして財産。カトリック教会の全てを司る三人の重鎮たちだ。
そして、その後ろ。
まるで、この神聖な劇の観客であるかのように、日本の官房長官、九条と、外交官の小此木が、ただ静かに佇んでいた。彼らの顔には、もはや緊張や驚愕の色はない。ただ、これから始まる、世界の常識が破壊される瞬間を、歴史の証人として見届けるという、冷徹な覚悟だけがあった。
礼拝堂の中央。
教皇レオ14世は、白い祭服に身を包み、静かに祭壇の前に立っていた。
数日前、神の言葉を受け、その魂に再び生命の炎を灯したこの老人の佇まいは、もはや単なる宗教指導者のそれではなかった。その一挙手一投足に、内側から滲み出るような、神聖なオーラがまとわりついている。彼は、もはや教皇ではない。生ける『聖人』そのものだった。
そして、その聖人の前に、彼の家庭教師が、立っていた。
黒いゴシック・ロリータのドレスに身を包んだ、神の器。KAMI。
「じゃあ、始めましょうか」
少女は、まるでピアノのレッスンでも始めるかのように、軽い口調で言った。
「いい? これからあなたに教えるのは、『因果律改変能力』よ。 難しく考えなくていいわ。要は、あなたは、これから、あなたの意思の力だけで、因果律を改変する。つまり、『奇跡』を起こすの」
彼女は、教皇の目の前まで歩み寄ると、その赤い瞳で、じっと老人の顔を見上げた。
「いいこと? あなたは、もうただの人間じゃない。あなたは、数日前に、イエスの言葉を直接受けた、正真正銘の『聖人』よ。聖人が、奇跡を使える。そんなの、当たり前の話でしょう? だから、あなたに奇跡が使えるのは、当然なの。分かった?」
その、あまりにも単純で、そしてあまりにも力強い、洗脳にも似た言葉。
それは、この能力の根幹である「自分はできると思い込む」という、自己暗示のプロセスを、ショートカットするための、神からのショートカットキーだった。
「……はい。理解、いたしました」
教皇は、静かに、そして力強く頷いた。彼の心に、もはや疑いはなかった。
「よろしい」
少女は、満足げに頷いた。「じゃあ、まず、手始めに光の球でも出しましょうか。見てなさい? 私が、まず実践してあげるから」
彼女は、そう言うと、右の掌を、すっと天に掲げた。
そして、まるで世界に命じるかのように、たった一言、呟いた。
「――光よ、あれ」
その瞬間。
彼女の掌の上に、小さな、しかし太陽のように眩い光の球が、音もなく生まれた。
礼拝堂の中が、昼間のように明るく照らし出される。フレスコ画の天使たちが、その光を浴びて、まるで本当に動き出すかのように、生き生きと輝いた。
少女は、楽しそうに、その光球を自在に操り始めた。指先で弾けば、それは部屋の中を蝶のように舞い、手招きすれば、それは忠実なペットのように、彼女の手元へと戻ってくる。
「ほらね? こんなに、簡単!」
彼女は、にこりと笑った。
「じゃあ、今度はあなたの番。難しく考えないで。ただ、心の中で、光が集まってくるイメージをして。そして、言ってみて。『光よ、あれ!』とね」
教皇は、促されるままに、ゆっくりと、震える右手を掲げた。
彼は、目を閉じた。
そして、心の中に、数日前に聞いた、あの温かいイエスの声を、思い描いた。
『さあ、生きなさい、アンジェロ』
そうだ。私は、生かされている。そして、導かれている。ならば、できないはずがない。
彼の唇が、ゆっくりと開かれた。
「――光よ、あれ」
その、か細い、しかし、揺るぎない信念に満ちた声が、礼拝堂に響き渡った、その瞬間。
彼の掌の上に。
ぽっ、と。
小さな、蝋燭の炎ほどの、か弱く、そして温かい光が灯った。
それは、KAMIが生み出した太陽のような輝きとは、比べ物にならないほど、ちっぽけな光だった。
だが、それは、確かに、そこに存在していた。
人間の意思が、無から有を生み出した、その最初の瞬間だった。
「おお…!」
「神よ…!」
ひざまずいていた三人の枢機卿たちから、嗚咽にも似た、感嘆の声が漏れた。
九条と小此木もまた、そのありえない光景に、息を呑む。
科学という、彼らが信じてきた世界の法則が、今、目の前で、静かに、そして完全に、否定されたのだ。
「……出来たわね」
少女は、満足げに頷いた。「上出来よ、最初のステップとしては。じゃあ、次」
彼女は、まるでレッスンの次のステップに進むかのように、あっさりと、そして残酷な要求を口にした。
「次は、その病にまみれた、あなた自身の身体を、治しなさい」
その言葉に、教皇は、はっとしたように、自らの胸に手を当てた。
長年、彼を苦しめてきた、老いた心臓。その、不規則な鼓動。
「他者への治癒と違って、自分自身への治癒は、簡単なのよ。 なぜなら、自分の身体の設計図は、あなたの魂が、一番よく知っているから」
少女は、教皇の掌の上で、か弱く揺らめく光の球を指さした。
「ほら。その光を、ゆっくりと操作して、あなたの胸に当てなさい。そして、強く、イメージするの。あなたが、まだ若く、健康だった頃の、力強い心臓の鼓動を」
教皇は、促されるままに、その光の球を、ゆっくりと、自らの胸の、祭服の上から当てた。
光が、彼の身体に触れた、その瞬間。
凄まじい輝きが、礼拝堂全体を包み込んだ。
か弱かったはずの光が、まるで超新星爆発を起こしたかのように、純白の閃光となって、溢れ出したのだ。
あまりの眩しさに、誰もが目を開けていられない。
「おお…! おお、主よ! これは、神の奇跡です!」
枢機卿たちが、その光の中にひれ伏し、涙ながらに祈りの言葉を叫んでいる。
九条と小此木は、腕で顔を庇いながら、その科学では説明のつかない、絶対的なエネルギーの奔流を、ただ肌で感じるしかなかった。
やがて、数秒にも、数分にも感じられた光が、ゆっくりと収まっていった。
後に残されたのは、静寂と、そして、祭壇の前に、呆然と立ち尽くす、一人の老人の姿だけだった。
いや、違う。
彼は、もはや、老人ではなかった。
それまで、彼の顔を覆っていた、深い疲労の色と、死の影が、嘘のように消え失せている。背筋は、若い頃のように、まっすぐに伸び、その肌には、血の通った艶が戻っている。
そして何よりも、その瞳。
そこには、先ほどまでの穏やかな老人のそれではない、自信と、そして生命力に満ち溢れた、壮年の指導者の光が、力強く宿っていた。
彼は、ゆっくりと、自らの胸に手を当てた。
そして、深く、深く、息を吸い込んだ。
肺が、空気を求める喜びに、打ち震えている。心臓が、規則正しく、そして力強く、生命の賛歌を歌っている。
「……おお。おお…! 身体が、羽のように、軽い…!」
その、驚きに満ちた声は、もはや老人のそれではなく、若々しい張りと、力に満ちていた。
「よしよし。これで、伝授はOKね」
少女は、まるで教え子の成長を喜ぶ教師のように、満足げに頷いた。
そして彼女は、最後に、最も重要な「注意書き」を、この新しい奇跡の担い手に告げた。
「いいこと? あなたは、今、自分の身体を治した。でも、他者を癒すのは、全く別の話よ。他者への奇跡による治癒は、この世界の医者がやるのと同じくらい、いや、それ以上に、人体の構造を勉強しないと、絶対にダメ。 人間の身体は、あなたが思うより、ずっと複雑な機械なの。その設計図も理解せずに、下手に手を出すと、良かれと思ってやった治癒が、相手を殺すことになるかもしれないから。これは、私との、約束ね」
その、あまりにも現実的で、そして恐ろしい警告。
教皇は、その言葉の真の意味を理解し、厳粛な面持ちで、深く頷いた。
「……はい。心に、刻みます」
「よろしい」
少女は、もう全ての仕事が終わったとばかりに、パンパンと、ドレスについた見えない埃を払った。
「じゃあ、伝授も済んだし、私は帰るわ。じゃあ、またね」
その、あまりにも軽い別れの言葉を残して。
少女の姿は、来た時と同じように、ふっとその場から、消え失せた。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして、神の奇跡の余韻。
ひざまずいていた枢機卿たちが、おそるおそる顔を上げる。
そして、彼らは見た。
完全に若さを取り戻し、神々しいまでのオーラを放ちながら、静かに佇む、自分たちの主の姿を。
彼らは、再び、その場にひれ伏した。
今度は、恐怖や驚愕からではない。
自分たちの目の前に、今、確かに、生ける聖人が誕生したという、揺るぎない確信と、歓喜からだった。
その日の夜。
官邸の沢村総理の元に、九条から、最高レベルの機密回線を通して、報告が入った。
『……総理。モデルケース事業は、完了いたしました。結果は…我々の、あらゆる予測を、遥かに超えるものでした』
モニターの向こうの九条の顔は、その完璧なポーカーフェイスさえも保てないほど、蒼白だった。
彼は、今日、自らの目で見た、奇跡の全てを、ありのままに、主君に報告した。
『……我々は、とんでもないものを、この世に生み出してしまいました』
九条は、絞り出すような声で言った。
『我々は、ただのモデルケースを選んだつもりだった。ですが、結果として、我々は、神から直接、奇跡の行使を公認され、そして自らの老いさえも克服した、生ける預言者を、この世に誕生させてしまったのです。彼の言葉は、もはやただの教皇の言葉ではない。神の言葉そのものとして、これから世界中に響き渡ることになるでしょう。その影響力は、もはや、我々四カ国でさえ、コントロールすることは、不可能です』
その、あまりにも重い報告。
沢村は、何も答えられなかった。
ただ、窓の外の暗い空を、見上げるだけだった。
彼らが、必死に、そして巧みに組み上げてきた、人間たちによる、人間たちのための、新しい世界の秩序。
その、脆いチェス盤の上に、今、誰も予測しなかった、そして誰もコントロールできない、絶対的な「ジョーカー」が、投下されたのだ。
そのジョーカーが、これから世界に、何をもたらすのか。
祝福か、それとも、破滅か。
その答えを、知る者は、もはや、神でさえも、いなかったのかもしれない。
物語は、またしても、人間たちの矮小な思惑を、遥かに超えた場所へと、その舵を切ろうとしていた。




