第49話
その日、世界の歴史は、静かに、そして不可逆的に、その新しい一ページをめくった。
舞台は、イタリア、ローマ。二千年の長きにわたり、西洋文明の精神的支柱であり続けた、カトリック教会の総本山、バチカン市国。
その心臓部であるサン・ピエトロ大聖堂は、早朝から固くその門を閉ざしていた。「施設の緊急メンテナンスのため」という、誰も信じるはずのない公式発表。周囲には、イタリアのカラビニエリ(国家憲兵)と、バチカンを警護するスイス衛兵が、歴史上例のない厳戒態勢を敷いていた。
世界中のメディアは、この異常事態を「四カ国が選定した『モデルケース』に関する、極秘の会談が行われているのではないか」と報じ、バチカン上空には、各国の偵察衛星が、その無慈悲な電子の眼を向けていた。
彼らの予測は、正しく、そして、完全に間違っていた。
これから行われるのは、単なる政治的な会談などではない。
人間と、そして、神との、謁見だった。
アポストリコ宮殿、教皇の私的な書斎。
壁一面を埋め尽くす、歴代の教皇たちが収集した、神学と哲学に関する膨大な蔵書。その革の背表紙と、古い紙の匂いが、部屋の空気に荘厳な重みを与えている。窓から差し込むローマの柔らかな光が、天井に描かれたフレスコ画の天使たちを、淡く照らし出していた。
部屋の主である、第268代ローマ教皇、レオ14世は、静かに祈りを捧げていた。
彼は、八十歳を超えていた。その身体は老い、心臓には持病を抱えている。自分に残された時間が、そう長くはないことを、彼は誰よりも自覚していた。
彼の前には、二人の、異質な訪問者が座っていた。
日本の官房長官、九条。その鉄仮面のような無表情は、この神聖な空間において、異物以外の何物でもなかった。
そして、その隣には、KAMIの代理人として全ての交渉を担ってきた外交官、小此木。彼の顔には、隠しきれない極度の緊張が浮かんでいた。
彼らは、これから自分たちが引き起こす事態の、その重大さを、痛いほど理解していた。
「……長官。そろそろ、時間です」
小此木が、かすれた声で言った。
九条は、無言で頷いた。
そして、祈りを終えた教皇に向き直り、静かに、しかし明瞭に告げた。
「教皇猊下。お待たせいたしました。間もなく、KAMIが、お見えになります」
その言葉と、同時だった。
何の前触れもなく。
音もなく。
教皇の目の前、重厚なマホガニーのテーブルの向かい側に置かれた、空席の椅子の上に。
すぅっと、あのゴシック・ロリタ姿の少女が、姿を現した。
部屋にいた、屈強なスイス衛兵たちが、一斉にハルバード(斧槍)を構える。教皇の側近である国務長官が、鋭く息を呑んだ。
だが、教皇本人は、動じなかった。
彼は、ただ静かに、そのありえないほど美しい、しかし人間的な温かみを一切感じさせない少女の姿を、その深い皺の刻まれた瞳で、見つめていた。
その瞳には、恐怖も、驚愕もなかった。
あるのは、自らの人生の最後に現れた、この巨大な謎に対する、静かな、そして深い好奇心だけだった。
「……初めまして、教皇猊下」
少女――KAMIの分身は、まるで近所の老人会にでも挨拶に来たかのように、軽い口調で言った。
「KAMIです。よろしく」
「……お待ちしておりました」
教皇は、穏やかな、しかし芯のある声で答えた。「遠路はるばる、よくお越しくださいました。神の、使者よ」
「うーん、まあ、そんな感じ」
少女は、つまらなそうに相槌を打つと、本題を切り出した。
「おっほん。じゃあ、早速だけど、イエス・キリストからの伝言ですわ」
イエス・キリスト。
その名前が、この部屋で、この文脈で、これほどまでに軽い響きで口にされたことは、二千年の歴史の中で、一度たりともなかっただろう。
国務長官が、侮辱されたかのように、顔を真っ赤にした。
だが、教皇は、静かにその手を上げて、彼を制した。そして、目の前の少女を、まっすぐに見据えた。
「……拝聴、いたします」
その言葉を、合図のように。
少女の身体に、異変が起きた。
それまで、どこか退屈そうで、子供っぽささえ感じさせた、その赤い瞳が、すっと閉じられる。
次の瞬間、部屋の空気が、変わった。
それまで部屋を満たしていた、歴史とインクの匂いが、すっと消え失せた。代わりに、言葉では表現できないような、温かく、そしてどこまでも慈愛に満ちた、柔らかな「気配」が、部屋全体を満たしていく。
まるで、春の陽だまりの中にいるかのような、絶対的な安らぎ。
九条も、小此木も、そして屈強なスイス衛兵たちでさえ、そのあまりにも心地よい感覚に、心が解きほぐされていくのを感じた。心の奥底に沈殿していた、日々のストレスや、不安や、恐怖が、まるで雪解水のように、清められていく。
少女の身体から、淡い、黄金色の光が、後光のように放たれ始めた。
その顔つきが、変わっていた。
退屈そうな子供の表情は消え失せ、そこには、人類の全ての悲しみを、その一身に背負ったかのような、深い、深い慈愛と、そしてどこか物悲しげな、穏やかな青年の面影が、浮かび上がっていた。
やがて、その唇が、ゆっくりと開かれた。
響いたのは、もはや少女の声ではなかった。
優しく、温かく、そして、聞く者の魂を直接揺さぶるような、不思議な男性の声。
その声は、教皇の母国語である、流暢なイタリア語だった。
『――アンジェロ』
その一言。
その、あまりにも懐かしい響き。
それは、彼がまだ、神学校に入る前の、ただの腕白な少年だった頃。
亡き母親だけが、彼を呼んだ、幼名だった。
教皇レオ14世――アンジェロ・ベルッチは、その瞬間、全身が凍りついたかのように、硬直した。
彼の脳裏に、七十年以上も前の、遠い、遠い記憶が、鮮やかに蘇る。
『……アンジェロ。覚えているかい?』
その声は、続けた。
『君が、まだ十歳だった、あの雪の日のことを。村の皆に、自分の勇気を示したくて、一人で吹雪の山に入り、そして道に迷ってしまった、あの日のことを。凍える身体で、死を覚悟した君は、小さな洞穴の中で、必死に祈りを捧げた。母の、そして、私の名を呼びながら』
それは、彼が生涯、誰にも語ったことのない、彼と、そして神だけが知る、秘密の記憶だった。
『その時、君は見たはずだ。厚い雪雲の切れ間から、ただ一つだけ、強く輝く星が、君を照らし出すのを。君は、その星の光だけを頼りに、夜通し歩き続け、そして夜明け前、奇跡的に村の明かりを見つけ出すことができた』
『……私は、あの時、君と共にいた。凍える君の心を、温め、そして、君が進むべき道を、星の光で照らし続けた。あの日、君が一人ではなかったように。今、この瞬間も、君は、一人ではないのだよ』
その、あまりにも個人的で、そしてあまりにも温かい思い出話。
もはや、疑う余地はなかった。
今、自分の目の前で語りかけているこの存在は、紛れもなく、自分がその生涯の全てを捧げて仕えてきた、主、その人なのだと。
「……ああ。ああ…!」
教皇の、その老いた瞳から、一筋の、熱い涙が、深い皺を伝って流れ落ちた。
二千年の時を超えた、再会。
彼は、もはや教皇という、重い法衣を纏った存在ではなかった。
ただ、迷子の果てに、ようやく親と再会できた、一人の、か弱い子供に戻っていた。
そして、その声は、最後の、そして最も重要な神託を、彼に告げた。
『アンジェロよ。我が、愛する子よ。君は、近頃、自らの人生の終わりを、意識しているね。老いた肉体と、病に蝕まれた心臓。そして、この混沌の時代に、教会を導くという、あまりにも重い責務。その重圧に、君の魂は、疲れ果てている』
『だが、聞きなさい。君の使命は、まだまだ、終わりではない。 これまで、君がその生涯をかけて行ってきたように。これからも、ただ、愛を広めなさい。 貧しい者に、病める者に、争う者たちに、そして、道に迷う全ての子羊たちに。私の愛を、ただ、伝え続けなさい』
『それこそが、君が、この世に生まれた意味なのだから』
『さあ、生きなさい、アンジェロ。 これからも、私の、そして、我々の愛と共に』
その言葉を最後に、部屋を満たしていた、温かい黄金色の光が、すぅっと消えた。
慈愛に満ちた青年の面影も、魂を揺さぶる声も、もうどこにもない。
後に残されたのは、ただ、静かに涙を流し続ける、一人の老人と、そして、彼を取り巻く、圧倒的な静寂だけだった。
「……あら? 終わった?」
その静寂を破ったのは、再び、あの子供のような、無邪気な声だった。
少女が、ゆっくりと目を開ける。その赤い瞳は、先ほどまでの神々しい光を失い、いつもの、退屈そうな色に戻っていた。
彼女は、目の前で静かに肩を震わせている教皇の姿を、不思議そうに見つめた。
「あれ、泣いてるのね。そんなに、感動した?」
彼女は、こてんと首を傾げた。
「ごめんなさいね。私は、ああなると、完全に意識がなくなるから、彼が何を言ったのか、全然分からないのよね」
その、あまりにも無邪気な、そして残酷なまでの無関心。
九条と小此木は、戦慄していた。
この少女は、ただの「器」なのだ。
その中には、イエス・キリストでさえも、あるいは、仏陀でさえも、この世のあらゆる神々が、自在に降りてくることができる、空っぽの、しかし無限の可能性を秘めた、神の器。
その事実が、彼女という存在の、底知れない恐ろしさを、改めて彼らに突きつけていた。
そして、少女は、まだ静かに涙を流し続けている教皇に向かって、悪戯っぽく、小さな声で囁いた。
「ねえ、猊下。あとで、こっそり教えてね。 イエスが、なんて言ってたのか」
その、あまりにも場違いな一言。
だが、その言葉を聞いた瞬間。
教皇の顔に、ふっと、穏やかな、そして人間的な笑みが、浮かんだ。
彼は、涙に濡れたその手で、そっと十字を切った。
そして、目の前の、神の器として遣わされた、この奇妙な少女に、深く、深く、頭を下げた。
彼に与えられた、新しい使命。
その重さと、そして、その喜びに、打ち震えながら。
謁見は、終わった。
日本の代表団が、アポストリコ宮殿を退出する際、それまで石像のように控えていた国務長官が、九条の元へと駆け寄ってきた。
彼の顔には、先ほどまでの敵意や警戒心は、もはや欠片もなかった。
あるのは、同じ奇跡を目の当たりにした、同志としての、深い、深い畏敬の念だけだった。
「……長官殿」
彼の声は、感動に震えていた。
「感謝、いたします。あなた方が、もたらしてくださった、この奇跡に。我々カトリック教会は、全霊をもって、あなた方、そしてKAMIの進める、平和への道に、協力することを、ここにお誓いいたします」
その、あまりにも力強い、そして予想外の言葉。
九条は、何も答えず、ただ静かに、その差し出された手を、固く握り返しただけだった。
ローマのホテルに戻る車中、小此木は、まだ興奮冷めやらぬ様子で、九条に語りかけた。
「……やりましたな、長官。最高の、結果です。これで、バチカンは、我々の最も強力な協力者となるでしょう。モデルケースとしては、これ以上ない成功です!」
「……ああ」
九条は、窓の外に流れるローマの街並みを、どこか虚ろな目で見つめながら、答えた。
「成功、だな。成功、しすぎたのかもしれん」
「……と、申しますと?」
「小此木君。我々は、今日、確かに奇跡を見た。だが、同時に、とんでもないものを、この世に解き放ってしまったのかもしれんぞ」
九条の脳裏には、あの時の教皇の顔が、焼き付いて離れなかった。
老いと、病と、そして責務に疲れ果てていた、一人の老人の顔。
それが、神の言葉によって、再び生命の炎を燃え上がらせた、聖人の顔へと、変貌した、あの瞬間。
「我々は、ただのモデルケースを選んだつもりだった。だが、結果として、我々は、神から直接、その権威を承認された、生ける預言者を、この世に誕生させてしまったのだ。その彼が、これから、その絶対的な影響力をもって、世界に何を語りかけるのか。それは、もはや、我々人間の、誰にも、コントロールすることはできんのだぞ…」
その言葉の、本当の恐ろしさに、小此木は、ようやく気づいた。
そうだ。
自分たちは、神の力を、人間の作った「政治」という枠の中に、閉じ込めようとしていた。
だが、それは、驕りだったのだ。
本物の奇跡は、そんな矮小な枠など、いとも容易く、破壊してしまうのだ。
彼らが開けたパンドラの箱から、最後に飛び出したのは、「希望」などという、生易しいものではなかったのかもしれない。
人間の理性を、焼き尽くすほどの、圧倒的な「信仰」という名の、炎だったのかもしれない。
その炎が、これから世界をどう変えていくのか。
その答えを、知る者は、まだ誰もいなかった。




