表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい  作者: パラレル・ゲーマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/194

第49話

 その日、世界の歴史は、静かに、そして不可逆的に、その新しい一ページをめくった。

 舞台は、イタリア、ローマ。二千年の長きにわたり、西洋文明の精神的支柱であり続けた、カトリック教会の総本山、バチカン市国。

 その心臓部であるサン・ピエトロ大聖堂は、早朝から固くその門を閉ざしていた。「施設の緊急メンテナンスのため」という、誰も信じるはずのない公式発表。周囲には、イタリアのカラビニエリ(国家憲兵)と、バチカンを警護するスイス衛兵が、歴史上例のない厳戒態勢を敷いていた。

 世界中のメディアは、この異常事態を「四カ国が選定した『モデルケース』に関する、極秘の会談が行われているのではないか」と報じ、バチカン上空には、各国の偵察衛星が、その無慈悲な電子の眼を向けていた。

 彼らの予測は、正しく、そして、完全に間違っていた。

 これから行われるのは、単なる政治的な会談などではない。

 人間と、そして、神との、謁見だった。


 アポストリコ宮殿、教皇の私的な書斎。

 壁一面を埋め尽くす、歴代の教皇たちが収集した、神学と哲学に関する膨大な蔵書。その革の背表紙と、古い紙の匂いが、部屋の空気に荘厳な重みを与えている。窓から差し込むローマの柔らかな光が、天井に描かれたフレスコ画の天使たちを、淡く照らし出していた。

 部屋の主である、第268代ローマ教皇、レオ14世は、静かに祈りを捧げていた。

 彼は、八十歳を超えていた。その身体は老い、心臓には持病を抱えている。自分に残された時間が、そう長くはないことを、彼は誰よりも自覚していた。

 彼の前には、二人の、異質な訪問者が座っていた。

 日本の官房長官、九条。その鉄仮面のような無表情は、この神聖な空間において、異物以外の何物でもなかった。

 そして、その隣には、KAMIの代理人として全ての交渉を担ってきた外交官、小此木。彼の顔には、隠しきれない極度の緊張が浮かんでいた。

 彼らは、これから自分たちが引き起こす事態の、その重大さを、痛いほど理解していた。


「……長官。そろそろ、時間です」

 小此木が、かすれた声で言った。

 九条は、無言で頷いた。

 そして、祈りを終えた教皇に向き直り、静かに、しかし明瞭に告げた。

「教皇猊下。お待たせいたしました。間もなく、KAMIが、お見えになります」


 その言葉と、同時だった。

 何の前触れもなく。

 音もなく。

 教皇の目の前、重厚なマホガニーのテーブルの向かい側に置かれた、空席の椅子の上に。

 すぅっと、あのゴシック・ロリタ姿の少女が、姿を現した。


 部屋にいた、屈強なスイス衛兵たちが、一斉にハルバード(斧槍)を構える。教皇の側近である国務長官が、鋭く息を呑んだ。

 だが、教皇本人は、動じなかった。

 彼は、ただ静かに、そのありえないほど美しい、しかし人間的な温かみを一切感じさせない少女の姿を、その深い皺の刻まれた瞳で、見つめていた。

 その瞳には、恐怖も、驚愕もなかった。

 あるのは、自らの人生の最後に現れた、この巨大な謎に対する、静かな、そして深い好奇心だけだった。


「……初めまして、教皇猊下」

 少女――KAMIの分身は、まるで近所の老人会にでも挨拶に来たかのように、軽い口調で言った。

「KAMIです。よろしく」


「……お待ちしておりました」

 教皇は、穏やかな、しかし芯のある声で答えた。「遠路はるばる、よくお越しくださいました。神の、使者よ」


「うーん、まあ、そんな感じ」

 少女は、つまらなそうに相槌を打つと、本題を切り出した。

「おっほん。じゃあ、早速だけど、イエス・キリストからの伝言ですわ」


 イエス・キリスト。

 その名前が、この部屋で、この文脈で、これほどまでに軽い響きで口にされたことは、二千年の歴史の中で、一度たりともなかっただろう。

 国務長官が、侮辱されたかのように、顔を真っ赤にした。

 だが、教皇は、静かにその手を上げて、彼を制した。そして、目の前の少女を、まっすぐに見据えた。

「……拝聴、いたします」


 その言葉を、合図のように。

 少女の身体に、異変が起きた。

 それまで、どこか退屈そうで、子供っぽささえ感じさせた、その赤い瞳が、すっと閉じられる。

 次の瞬間、部屋の空気が、変わった。

 それまで部屋を満たしていた、歴史とインクの匂いが、すっと消え失せた。代わりに、言葉では表現できないような、温かく、そしてどこまでも慈愛に満ちた、柔らかな「気配」が、部屋全体を満たしていく。

 まるで、春の陽だまりの中にいるかのような、絶対的な安らぎ。

 九条も、小此木も、そして屈強なスイス衛兵たちでさえ、そのあまりにも心地よい感覚に、心が解きほぐされていくのを感じた。心の奥底に沈殿していた、日々のストレスや、不安や、恐怖が、まるで雪解水のように、清められていく。

 少女の身体から、淡い、黄金色の光が、後光のように放たれ始めた。

 その顔つきが、変わっていた。

 退屈そうな子供の表情は消え失せ、そこには、人類の全ての悲しみを、その一身に背負ったかのような、深い、深い慈愛と、そしてどこか物悲しげな、穏やかな青年の面影が、浮かび上がっていた。


 やがて、その唇が、ゆっくりと開かれた。

 響いたのは、もはや少女の声ではなかった。

 優しく、温かく、そして、聞く者の魂を直接揺さぶるような、不思議な男性の声。

 その声は、教皇の母国語である、流暢なイタリア語だった。


『――アンジェロ』


 その一言。

 その、あまりにも懐かしい響き。

 それは、彼がまだ、神学校に入る前の、ただの腕白な少年だった頃。

 亡き母親だけが、彼を呼んだ、幼名だった。

 教皇レオ14世――アンジェロ・ベルッチは、その瞬間、全身が凍りついたかのように、硬直した。

 彼の脳裏に、七十年以上も前の、遠い、遠い記憶が、鮮やかに蘇る。


『……アンジェロ。覚えているかい?』

 その声は、続けた。

『君が、まだ十歳だった、あの雪の日のことを。村の皆に、自分の勇気を示したくて、一人で吹雪の山に入り、そして道に迷ってしまった、あの日のことを。凍える身体で、死を覚悟した君は、小さな洞穴の中で、必死に祈りを捧げた。母の、そして、私の名を呼びながら』


 それは、彼が生涯、誰にも語ったことのない、彼と、そして神だけが知る、秘密の記憶だった。


『その時、君は見たはずだ。厚い雪雲の切れ間から、ただ一つだけ、強く輝く星が、君を照らし出すのを。君は、その星の光だけを頼りに、夜通し歩き続け、そして夜明け前、奇跡的に村の明かりを見つけ出すことができた』


『……私は、あの時、君と共にいた。凍える君の心を、温め、そして、君が進むべき道を、星の光で照らし続けた。あの日、君が一人ではなかったように。今、この瞬間も、君は、一人ではないのだよ』


 その、あまりにも個人的で、そしてあまりにも温かい思い出話。

 もはや、疑う余地はなかった。

 今、自分の目の前で語りかけているこの存在は、紛れもなく、自分がその生涯の全てを捧げて仕えてきた、主、その人なのだと。


「……ああ。ああ…!」

 教皇の、その老いた瞳から、一筋の、熱い涙が、深い皺を伝って流れ落ちた。

 二千年の時を超えた、再会。

 彼は、もはや教皇という、重い法衣を纏った存在ではなかった。

 ただ、迷子の果てに、ようやく親と再会できた、一人の、か弱い子供に戻っていた。


 そして、その声は、最後の、そして最も重要な神託を、彼に告げた。


『アンジェロよ。我が、愛する子よ。君は、近頃、自らの人生の終わりを、意識しているね。老いた肉体と、病に蝕まれた心臓。そして、この混沌の時代に、教会を導くという、あまりにも重い責務。その重圧に、君の魂は、疲れ果てている』


『だが、聞きなさい。君の使命は、まだまだ、終わりではない。 これまで、君がその生涯をかけて行ってきたように。これからも、ただ、愛を広めなさい。 貧しい者に、病める者に、争う者たちに、そして、道に迷う全ての子羊たちに。私の愛を、ただ、伝え続けなさい』


『それこそが、君が、この世に生まれた意味なのだから』


『さあ、生きなさい、アンジェロ。 これからも、私の、そして、我々の愛と共に』


 その言葉を最後に、部屋を満たしていた、温かい黄金色の光が、すぅっと消えた。

 慈愛に満ちた青年の面影も、魂を揺さぶる声も、もうどこにもない。

 後に残されたのは、ただ、静かに涙を流し続ける、一人の老人と、そして、彼を取り巻く、圧倒的な静寂だけだった。


「……あら? 終わった?」


 その静寂を破ったのは、再び、あの子供のような、無邪気な声だった。

 少女が、ゆっくりと目を開ける。その赤い瞳は、先ほどまでの神々しい光を失い、いつもの、退屈そうな色に戻っていた。

 彼女は、目の前で静かに肩を震わせている教皇の姿を、不思議そうに見つめた。


「あれ、泣いてるのね。そんなに、感動した?」

 彼女は、こてんと首を傾げた。

「ごめんなさいね。私は、ああなると、完全に意識がなくなるから、彼が何を言ったのか、全然分からないのよね」


 その、あまりにも無邪気な、そして残酷なまでの無関心。

 九条と小此木は、戦慄していた。

 この少女は、ただの「器」なのだ。

 その中には、イエス・キリストでさえも、あるいは、仏陀でさえも、この世のあらゆる神々が、自在に降りてくることができる、空っぽの、しかし無限の可能性を秘めた、神の器。

 その事実が、彼女という存在の、底知れない恐ろしさを、改めて彼らに突きつけていた。


 そして、少女は、まだ静かに涙を流し続けている教皇に向かって、悪戯っぽく、小さな声で囁いた。

「ねえ、猊下。あとで、こっそり教えてね。 イエスが、なんて言ってたのか」


 その、あまりにも場違いな一言。

 だが、その言葉を聞いた瞬間。

 教皇の顔に、ふっと、穏やかな、そして人間的な笑みが、浮かんだ。

 彼は、涙に濡れたその手で、そっと十字を切った。

 そして、目の前の、神の器として遣わされた、この奇妙な少女に、深く、深く、頭を下げた。

 彼に与えられた、新しい使命。

 その重さと、そして、その喜びに、打ち震えながら。


 謁見は、終わった。

 日本の代表団が、アポストリコ宮殿を退出する際、それまで石像のように控えていた国務長官が、九条の元へと駆け寄ってきた。

 彼の顔には、先ほどまでの敵意や警戒心は、もはや欠片もなかった。

 あるのは、同じ奇跡を目の当たりにした、同志としての、深い、深い畏敬の念だけだった。


「……長官殿」

 彼の声は、感動に震えていた。

「感謝、いたします。あなた方が、もたらしてくださった、この奇跡に。我々カトリック教会は、全霊をもって、あなた方、そしてKAMIの進める、平和への道に、協力することを、ここにお誓いいたします」


 その、あまりにも力強い、そして予想外の言葉。

 九条は、何も答えず、ただ静かに、その差し出された手を、固く握り返しただけだった。


 ローマのホテルに戻る車中、小此木は、まだ興奮冷めやらぬ様子で、九条に語りかけた。

「……やりましたな、長官。最高の、結果です。これで、バチカンは、我々の最も強力な協力者となるでしょう。モデルケースとしては、これ以上ない成功です!」


「……ああ」

 九条は、窓の外に流れるローマの街並みを、どこか虚ろな目で見つめながら、答えた。

「成功、だな。成功、しすぎたのかもしれん」


「……と、申しますと?」


「小此木君。我々は、今日、確かに奇跡を見た。だが、同時に、とんでもないものを、この世に解き放ってしまったのかもしれんぞ」

 九条の脳裏には、あの時の教皇の顔が、焼き付いて離れなかった。

 老いと、病と、そして責務に疲れ果てていた、一人の老人の顔。

 それが、神の言葉によって、再び生命の炎を燃え上がらせた、聖人の顔へと、変貌した、あの瞬間。

「我々は、ただのモデルケースを選んだつもりだった。だが、結果として、我々は、神から直接、その権威を承認された、生ける預言者を、この世に誕生させてしまったのだ。その彼が、これから、その絶対的な影響力をもって、世界に何を語りかけるのか。それは、もはや、我々人間の、誰にも、コントロールすることはできんのだぞ…」


 その言葉の、本当の恐ろしさに、小此木は、ようやく気づいた。

 そうだ。

 自分たちは、神の力を、人間の作った「政治」という枠の中に、閉じ込めようとしていた。

 だが、それは、驕りだったのだ。

 本物の奇跡は、そんな矮小な枠など、いとも容易く、破壊してしまうのだ。

 彼らが開けたパンドラの箱から、最後に飛び出したのは、「希望」などという、生易しいものではなかったのかもしれない。

 人間の理性を、焼き尽くすほどの、圧倒的な「信仰」という名の、炎だったのかもしれない。

 その炎が、これから世界をどう変えていくのか。

 その答えを、知る者は、まだ誰もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
光あれかし
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ