第48話
官邸の地下深く、四カ国首脳レベルを結ぶ最高機密の会議室は、人類の未来を決定づけるにしては、あまりにも人間臭い、そして醜い緊張感に包まれていた。
議題は、神が投げ込んだ最大の爆弾――『人類への奇跡の実装』。
その、あまりにも危険なプロジェクトを、いかにして制御し、ソフトランディングさせるか。
前回の会議で、日本の九条官房長官が提示した「奇跡の免許制」という官僚的解決策は、そのあまりの馬鹿馬鹿しさと、しかしそれを超える現実的な魅力によって、奇妙な説得力を持っていた。だが、議論を進めるうちに、誰もが気づいてしまった。
全世界の宗教を公平に審査し、格付けし、免許を与えるなどという行為は、それ自体が新たな宗教戦争の火種となりかねない、神をも恐れぬ所業であると。
「――では、改めて提案したい」
重苦しい沈黙を破ったのは、アメリカのトンプソン大統領だった。彼は、この数日間、自国のシンクタンクと国務省の最高の頭脳たちを結集させ、一つの結論にたどり着いていた。
「全世界の宗教家に、同時に力を与えるのは、リスクが高すぎる。 それは、我々四カ国の共通認識であると理解している。ならば、答えは一つだ。まず、**一つの宗教、一人の指導者を『モデルケース』として選定し、そこで得られたデータを元に、今後の展開を慎重に考える。これこそが、唯一可能な、現実的な道筋ではないだろうか」
その、いかにもアメリカらしい「パイロット・プログラム」という考え方。
それは、この混沌とした議論に、初めて具体的な道筋を示すものだった。
モニターの向こうで、中国の王将軍とロシアのヴォルコフ将軍も、渋々ながら、その合理性を認めざるを得ないという顔で頷いている。
「よろしい。では、その方針で話を進めよう」
議長役である日本の沢村総理が、安堵の息をついた。
だが、本当の地獄は、ここからだった。
「では、大統領。その、栄光ある、そして最も危険な『最初の被験者』の椅子に、一体誰を座らせるべきだと、お考えかな?」
沢村のその問いに、待ってましたとばかりに、トンプソンは自信に満ちた声で答えた。
「候補は、一人しかいない。世界的な知名度、そして何よりも、千年以上にわたって世界中に信徒を持つ、巨大な組織力。そのいずれにおいても、他の追随を許さない。私は、バチカンのローマ教皇を、その最初の候補者として、強く推薦する」
ローマ教皇。
その名前が挙げられた瞬間、会議室の空気が、再び凍りついた。
北京とモスクワのモニターから、露骨な、そして冷たい敵意のオーラが放たれるのを、沢村と九条は肌で感じていた。
「……ほう。教皇、ですかな」
最初に、その静寂を破ったのは、モスクワのヴォルコフ将軍だった。その声は、凍てつくシベリアの冬のように、冷たかった。
「トンプソン大統領。あなたは、またしても世界の主導権を、西側諸国だけで握ろうとしておられるように、私には見えますが?」
彼は、身を乗り出した。
「カトリック教会が、巨大な組織であることは認めよう。だが、それはあくまで、西側の価値観が生み出した組織に過ぎん。我がロシアには、千年の歴史を持つ、ロシア正教がある。それは、我が国の民の魂の拠り所であり、国家の精神的支柱だ。神の奇跡という、これ以上ない栄誉を、なぜ我々の総主教ではなく、ローマの司教に与えねばならんのか。自国の影響力を最大化するという観点から言えば、我が国は、モスクワ総主教を、その候補者として推薦せざるを得ない」
その、あまりにも剥き出しの国家主義的な主張。
それに、今度は北京の王将軍が、静かな、しかし、それゆえに不気味な声で続いた。
「お二人とも、お待ちいただきたい。あなた方の議論は、根本的な前提が間違っている」
彼は、モニターの向こうの三人を、侮蔑の色さえ浮かべた瞳で見据えた。
「宗教とは、本来、国家の安寧と秩序のために、適切に『指導』されるべきものです。その組織が、国家のコントロールを超えて、外国の勢力と繋がっているなど、論外。言語道断。ましてや、その手に、神の力まで持たせるなど、国家への反逆を容認するに等しい」
そして彼は、当然の結論を口にした。
「神の力を授けるにふさわしいのは、国家と人民への忠誠を誓い、その活動の全てが完全に管理可能な組織だけです。我が国は、中国共産党の指導の下にある、中国仏教協会の会長を、唯一の候補者として推薦する」
アメリカが推す、国際的組織のトップ。
ロシアが推す、国家と一体化した宗教のトップ。
そして、中国が推す、国家によって完全に管理された宗教のトップ。
三者の主張は、それぞれの国家が持つ、宗教と国家の関係に対する、根本的な価値観の違いを、残酷なまでに浮き彫りにしていた。
そして、その三者三様の、剥き出しのエゴのぶつかり合いの中で。
「……あの、よろしいですかな」
沢村が、まるで学級会で恐る恐る手を挙げる生徒のように、弱々しく口を開いた。
三つの大国の、鋭い視線が、一斉に東京のモニターへと突き刺さる。
「……我が国、日本は、その…」
彼は、九条の方をちらりと見た。九条は、ただ無表情で、小さく頷いた。
「ご存知の通り、我が国は、神道と仏教が、極めて複雑に、そして重層的に共存している、独特の宗教文化を持っております。伊勢神宮を中心とする神道は、皇室の伝統と不可分に結びついており、これを政治的な候補者として推すことは、極めてデリケートな問題を孕んでおります。かといって、仏教界は、数多くの宗派に分かれており、その中からたった一人の代表を選ぶことは、国内に深刻な宗教対立を引き起こしかねない。あるいは、近年勢力を伸ばしている新興宗教を推せば、世論の猛反発は必至でしょう。つきましては…」
沢村は、情けない顔で、深々と頭を下げた。
「我が国は、現段階で、特定の候補者を一人に絞ることが、困難な状況にあります。誠に、申し訳ない…」
日本は、国内の宗教勢力をまとめきれずに、右往左往していたのだ。
その、日本のあまりにも頼りない態度。
だが、皮肉にも、その「候補者を立てられない」という立場が、日本をこの泥沼の議論における、唯一の「中立的な調停役」という、奇妙なポジションへと押し上げることになった。
議論は、完全に紛糾した。
「教皇は、西側の傀儡だ!」
「国家に従属しない宗教など、危険思想の温床に過ぎん!」
「そもそも、神の存在を認めぬ共産党が、宗教を語るなど片腹痛い!」
罵詈雑言が、最高機密の回線を飛び交う。それは、もはや首脳会議ではなかった。子供の喧嘩、そのものだった。
「――静粛に!!!!」
沢村の、珍しく張り上げた怒声が、その不毛な応酬を断ち切った。
彼は、疲れ果てた顔で、モニターの中の三人の男たちに、懇願するように言った。
「皆様。どうか、冷静になっていただきたい。我々は今、いがみ合っている場合ではないのです。我々がこうして不毛な議論を続けている間にも、KAMIは、我々の答えを待っている。もし、我々が結論を出せないと判断されれば、彼女は、どうするでしょう? おそらく、我々の意見など無視して、彼女自身の判断で、誰かに力を与えてしまうでしょう。それこそが、我々が最も避けなければならない、最悪のシナリオではないのですか?」
その言葉に、誰もが押し黙った。
そうだ。
自分たちの上には、いつ爆発するか分からない、気まぐれな神という、時限爆弾があるのだ。
「……では、日本」と、トンプソンが言った。「君たちは、候補者を出せない代わりに、何か解決策を持っているのかね?」
その問いに、答えたのは九条だった。
彼は、それまで黙って戦況を分析していたチェスプレイヤーのように、静かに、そして冷徹に、その結論を述べ始めた。
「……皆様。我々は、視点を変えるべきです。誰が、最も『ふさわしいか』ではありません。誰が、最も『世界に受け入れられやすいか』。そして、誰が、最も『我々四カ国にとって、コントロールしやすいか』。その二つの基準で、もう一度、各候補者を評価し直すべきです」
彼は、まず王将軍とヴォルコフ将軍の顔を、まっすぐに見据えた。
「失礼ながら申し上げます。あなた方が推薦された、それぞれの国の宗教指導者は、素晴らしい人物なのでしょう。ですが、彼らが力を得た場合、国際社会は、それをどう見るか。『神の力が、中国とロシアの国家権力と、完全に一体化した』と見るでしょう。それは、世界の他の国々にとって、祝福ではなく、新たな脅威の誕生を意味します。彼らは、決してそれを受け入れない。結果として、世界は、我々四カ国と、それ以外の全ての国々との間で、決定的に分断されることになる」
その、あまりにも的確な分析。王とヴォルコフは、ぐうの音も出ないという顔で、唇を噛んだ。
そして、九条は、トンプソンの方を向いた。
「次に、大統領。あなたが推薦された、ローマ教皇。確かに、彼は世界的な指導者です。ですが、彼もまた、カトリックという、巨大な組織のトップに過ぎない。彼が力を得れば、イスラム世界は、仏教世界は、ヒンドゥー教の世界は、どう思うか。『世界は、キリスト教の神に支配される』と、そう受け取るでしょう。それは、新たな宗教戦争の時代の幕開けを意味しかねない」
その指摘に、トンプソンもまた、厳しい顔で押し黙った。
「では、どうしろと言うのだ、長官! 全ての候補者が、不適格だと言うのか!」
「いいえ」と、九条は静かに首を振った。「私が申し上げたいのは、どの選択肢も、完璧ではない、ということです。我々が選べるのは、完璧な答えではない。最も、害の少ない選択肢。いわば、『ベター』な選択でしかないのです」
そして彼は、その結論を口にした。
「その観点から言えば、やはり、トンプソン大統領が最初に提示された、ローマ教皇が、現時点では、最も『ベター』な選択であると、我々日本政府は考えます」
「……何だと?」
王とヴォルコフが、同時に声を上げた。
九条は、動じなかった。
「理由は、三つあります。第一に、先ほど申し上げた通り、彼が特定の国家権力と直接結びついていないこと。第二に、カトリック教会が持つ、世界規模の慈善活動の実績。力の使い方を、致命的に誤る可能性が、比較的低い。そして、第三に、これが最も重要ですが…」
彼は、三人の顔を、ゆっくりと見渡した。
「彼の組織は、あまりにも巨大で、そしてあまりにも古い。その意思決定のプロセスは、驚くほど遅く、そして保守的です。もし、彼が暴走しようとしても、その巨大な官僚機構が、強力な『枷』となるでしょう。つまり、彼は、我々にとって、最も御しやすい相手なのです」
最も、御しやすい。
その、あまりにも冷徹で、そしてあまりにも現実的な分析。
それは、もはや宗教や倫理の問題ではなかった。
純粋な、パワーポリティクスの結論だった。
王とヴォルコフは、しばらくの間、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙していたが、やがて、互いの顔を見合わせ、小さく、そして不本意そうに、頷いた。
九条の論理は、完璧だった。反論の余地は、なかった。
議論の末、アメリカ案のローマ教皇が、ベターという話になったのだ。
「……よろしい。では、その方針で、合意としよう」
沢村が、疲労しきった声で、会議の終わりを告げた。
「ただし、だ。これは、我々四カ国の、秘密の合意でしかない。これを、他の宗教、他の国々に、どう説明するのか。それが、我々に残された、最大の、そして最も困難な仕事だ」
「ええ」と、九条が頷いた。「事前に、関係する全ての宗教団体へ、根回しの連絡を入れることを、決して忘れてはなりません」
彼は、手元の端末に、これから連絡を取るべき相手の、絶望的なほど長いリストを映し出した。
カンタベリー大主教、コンスタンティノープル総主教、世界ユダヤ人会議、世界イスラム連盟、世界仏教徒連盟…。
「彼らには、こう説明するのです」と、九条は、これから始まる、史上最大の「言い訳」の草稿を、淡々と読み上げ始めた。
「『これは、あくまで最初のモデルケースです。ローマ教皇が選ばれたのは、その世界的組織網が、この未知の力の検証に最も適していると、我々が判断したからに過ぎません。皆様の、偉大なる信仰と伝統を、我々が決して軽んじているわけではないのです』と…」
その、あまりにも見え透いた、しかし、それしか言いようのない、苦しい言い訳。
沢村は、頭を抱えた。
これから始まるのだ。
世界中の、全ての宗教指導者たちからの、怒りと、嫉妬と、そして絶望の電話を、一本一本、受け止めなければならない、新しい地獄が。
神の奇跡は、いつだって、人間たちに、あまりにも重い請求書を、突きつけてくる。
そのことを、彼は、今、改めて、骨の髄まで、思い知らされていた。




