第47話
首相公邸の執務室は、眠らない。
神の恩恵によって、その主である沢村総理と九条官房長官が、眠りを必要としない存在へと変貌して以来、この場所から「夜」という概念は消え失せた。
四つの身体、二つの意識。
彼らは、完璧な同期と思考共有によって、二十四時間三百六十五日、この国の、そして世界の舵を取り続ける、超効率的な統治マシーンと化していた。
ゲート構想を巡る国内の泥沼の調整会議、異世界との外交、超大国間のパワーゲーム。その全てを、彼らは人間業とは思えぬ精度で、同時に処理し続けていた。
その様は、あまりにも非人間的で、そして、あまりにも静かだった。
彼らの間に、もはや不要な会話はない。報告も、相談も、全ては思考の共有によって、瞬時に完了する。
静寂。
それは、彼らが人間性を対価に手に入れた、究極の効率の果てにある、静かな地獄だった。
その、機械仕掛けの神殿のような静寂を、破壊者は、いつも唐突に、そして悪びれもせずに訪れる。
空気が、揺れた。
四つの身体が、寸分の狂いもなく、同時に全ての作業を停止する。そして、ゆっくりと、部屋の中央へと顔を向ける。
そこに、すぅっと音もなく、あのゴシック・ロリタ姿の少女が、立っていた。
「元気?」
少女――KAMIの分身は、まるで久しぶりに友人の部屋にでも遊びに来たかのように、屈託のない笑みを浮かべていた。
「今日は、ちょっと用事があって来たの」
その、あまりにも軽い口調。
沢村の四つの瞳が、絶望の色に染まった。
用事。
この神が口にする「用事」という言葉が、これまでどれほどの厄介事と、どれほどの心労を、自分たちにもたらしてきたことか。
だが、彼に拒否権はない。
「……はい。KAMI様。ご要件を、お伺いいたします」
本体の沢村が、代表して、乾いた声でそう答えるのが精一杯だった。
「うん」と、少女は頷いた。「大したことじゃないんだけどね」
彼女は、まるで週末の予定でも話すかのように、続けた。
「実は、ちょっと、世界中の宗教家の人たちに、挨拶回りでもしようかなって思ってて」
宗教家。
その言葉に、九条の二つの意識が、瞬時に最高レベルの警戒態勢に入った。
(……まずい。最も、触れてはならない領域だ…!)
「それでね」と、少女は楽しそうに続けた。「あの人たち、すごいじゃない? 私の先輩の神様たち…イエスとか、仏陀とかが、もう何千年も前に地球を去ってるのに、未だにその教えを健気に守って、広めようと頑張ってる。ついでに、頑張ってて偉いから、何かご褒美でもあげようかなって」
ご褒美。
その言葉が持つ、不吉な響き。
「だから、奇跡の起こし方でも、教えてあげようと思ってて」
その一言が、執務室の静寂を、完全に粉砕した。
沢村の四つの手が、同時にわなわなと震え始める。
九条の二つの脳が、その言葉が意味する、カタストロフ的な未来図を、超高速でシミュレートし、そしてエラーを吐き出した。
バチカンが、神の軍隊を持つ。
イスラムの指導者たちが、神の御業を自在に操る。
チベットの僧侶たちが、物理法則を捻じ曲げる。
それは、国家という枠組みの、完全なる崩壊。
科学文明の、終わり。
そして、神の代理人たちによる、血で血を洗う、新しい宗教戦争の時代の幕開けだった。
「……つきましては」と、少女は、いつものように、最も無邪気で、そして最も残酷な要求を、にこやかに口にした。
「ローマ教皇とか、ダライ・ラマとか、そういう偉い人たち、全員と面会したいから。悪いんだけど、そのための予定を、組んで欲しいの」
「…………」
九条は、生まれて初めて、官僚として、そして人間として、完全に思考がフリーズするのを、感じていた。
無理だ。
不可能だ。
この女は、自分が何を言っているのか、全く分かっていない。
これは、善意などではない。
これは、人類文明に対する、無差別テロに等しい行為だ。
止めなければ。
何としても、止めなければならない。
「か、KAMI様…!」
九条が、絞り出すような声で、口を開いた。その声は、上ずっていた。
「そ、それだけは…! それだけは、どうか、ご再考を…! 我々人類の社会は、宗教という、あまりにもデリケートで、そして爆発性の高い問題を、長い、長い時間をかけて、ようやく国家という理性の枠組みの中に封じ込めてきたのです! そこに、あなたが『本物の奇跡』などという、規格外の力を与えれば、世界は…!」
その、魂からの、悲痛なまでの諫言。
それを、少女は、まるで言うことを聞かない子供を諭すかのように、静かに遮った。
「あ、ダメって言われても、これはもう、決まったことだから」
その、あまりにも無慈悲な一言。
九条の顔から、血の気が引いていく。
「というか」と、少女は、少しだけ面倒くさそうに、頬を膨らませた。「そもそも、これは、イエス・キリストとか、仏陀とか、あなたたちの星の、大先輩の神々からのお願いなのよ。私の、個人的な要望じゃないの」
神々の、お願い。
その、絶対的な、そして反論の余地のない、究極の切り札。
九条は、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
チェックメイトだ。
完全に、詰んでいる。
「彼らが、『地上の後輩たちが、健気に頑張っているから、褒めて、力を与えてあげてほしい』って。すごく、熱心に言うものだから」
少女は、少しだけ、楽しそうな、意地悪な笑みを浮かべた。
「だから、あなたたちが反対するのは、この私にではなく、あなたたちがかつて祈りを捧げた、その神々に対して、ということになるわよ? それでも、いいのかしら?」
その、悪魔の論理。
もはや、反論の言葉など、見つかるはずもなかった。
「……まあ」と、少女は、勝ち誇ったように、しかしその口調はあくまで優しく、続けた。「もちろん、私も鬼じゃないわ。あなたたちの世界の、面倒な手続きや、事情があることも、少しは学んだつもりよ。だから、最終的には、私の判断で強行するかもしれないけど、その前に、一応、あなたたちの同意は、得ておきたいなって。そのための、話し合いの場よ、これは」
同意。
それは、もはや同意などではなかった。
ただ、これから執行される死刑の、執行方法について、囚人の意見を聞いてやろう、という、王者の気まぐれな慈悲に過ぎなかった。
「……分かり、ました」
九条は、絞り出すような声で、それだけを言った。もはや、彼の完璧なポーカーフェイスは、絶望の色にひび割れていた。
「よろしい」
少女は、満足げに頷いた。「じゃあ、そういうことだから。中国、ロシア、アメリカの、お友達にも、よろしく伝えておいてね。これは、四カ国で協力して進めるべき、グローバルなプロジェクトでしょうから」
その、どこまでも他人事な、責任の丸投げ。
「じゃあ、またね」
その言葉を残して、少女は、来た時と同じように、ふっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、四つの身体を持つ、二人の抜け殻のような男たちだけだった。
数分間、誰も、動けなかった。
まるで、巨大な台風が通り過ぎた後のように、思考が、感情が、全てが麻痺していた。
やがて、本体の沢村が、ゆっくりと、ゆっくりと、顔を上げた。
そして、彼は、壊れた機械のように、笑い出した。
「……あはは。はははははははははは!」
それは、もはや笑い声ではなかった。
人間の精神が、その許容量を超えるストレスに晒された時に発する、ただの悲鳴だった。
「終わりだ…! 九条君、もう終わりだ! 我々は、もう、どうすることもできない!」
彼は、子供のように、その場に突っ伏して、泣き始めた。
一国の総理大臣が、その分身と共に、嗚咽を漏らしている。
その、あまりにも異常で、そしてあまりにも哀れな光景。
だが、その地獄の底で、唯一、まだ正気を保っている男がいた。
九条官房長官。
彼の分身の一人が、静かに立ち上がると、泣きじゃくる主君の肩に、そっと手を置いた。
「総理」
その声は、不思議なほど、落ち着いていた。
「まだです。まだ、終わってはいません」
「何がだ! 何がまだ、終わっていないというのだ!」
「ええ」と、九条は頷いた。「我々は今、確かに、人類文明の根幹を揺るがす、最大の危機に直面しています。ですが、同時に、我々は、神から、一つの、そして唯一の『武器』を与えられました」
彼の目が、死んだ魚のようだったそれから、再び、あの冷徹な戦略家の光を取り戻していく。
「『同意は、得たい』と、彼女は言いました。それは、交渉の余地が、まだゼロではないということです。そして何より、彼女は、この厄介事を、我々四カ国に丸投げした。それはつまり、このプロジェクトの具体的な進め方…その『やり方』に関する裁量権は、我々人間側にある、ということです」
彼は、もう一人の自分と、そして二人の沢村を見渡した。
「我々が、やるべきことは、一つ。直ちに、米中露の三カ国と、緊急の協議の場を持つ。そして、この神の善意という名のテロリズムを、いかにして、我々人間がコントロール可能な、無害な『政治ショー』へと変質させるか。そのための、知恵を絞るのです」
彼の言葉は、絶望の淵にいた沢村の心に、か細い、しかし確かな一本の光を灯した。
そうだ。
まだ、終わっていない。
この男がいる限り。
この、日本という国が誇る、最強にして、最もしたたかな官僚機構の化身がいる限り。
まだ、戦える。
「……分かった」
沢村は、涙を拭うと、よろめきながら立ち上がった。その目には、再び、一国のリーダーとしての光が戻っていた。
「すぐに、会議を招集しろ。人類の、叡智の見せ所だな。神が作った、この最悪のシナリオを、我々人間の手で、どこまで書き換えることができるか。…やってやろうじゃないか」
その日の深夜。
再び、四カ国の首脳たちの顔が、モニターの中に揃った。
日本の九条から、今回の神の神託の全てを聞かされた、三人のリーダーたちの反応は、様々だった。
トンプソンは、沢村と同じように、頭を抱え、天を仰いだ。
王将軍とヴォルコフ将軍は、最初は「面白い」と不敵な笑みを浮かべていたが、やがて、自国内の宗教勢力が、自分たちのコントロールを超えた力を手にするという、その恐るべき可能性に気づき、顔を青ざめさせた。
彼らは、初めて、真の意味で、一つの恐怖を共有した。
神の、善意。
それこそが、この世界で、最も恐ろしい破壊の力であるという、その事実を。
「……それで、長官」
長い沈黙の後、トンプソンが、絞り出すような声で言った。「君に、何か策は、あるのかね?」
その問いに、九条は、静かに、そして力強く頷いた。
「ええ。一つだけ」
彼は、モニターの向こうの三人の男たちを、まっすぐに見据えた。
「神を、利用するのです。神の言葉を、我々の都合の良いように『解釈』し、そして『演出』する。それしか、道はありません」
その言葉から始まった、人類の存亡を賭けた、史上最大の茶番劇の計画。
その詳細が語られるのは、また、別の話である。
ただ、その日、四人の男たちは、初めて、神という共通の脅威(あるいは理不尽な上司)を前に、奇妙な、そして歪な、一つの運命共同体となったことだけは、確かだった。
彼らの、眠らない、そして終わりのない戦いは、またしても、新たな、そしてより困難なステージの幕を開けたのだった。




