第45話
橘栞は、神になった。
その事実を、彼女はまだ実感として受け止めきれてはいなかったが、状況証拠は揃っていた。
人知を超えたスキル、眠らない肉体、世界を裏から操る分身、そして、不死身の独裁者たちという、厄介な「顧客」。
だが、その全てをもってしても、彼女の心は満たされてはいなかった。むしろ、自分が本当に「神」なのかという、哲学的な疑問さえ抱き始めていた。
その答えの、ほんの入り口が、目の前のチャットウィンドウの向こう側にあるのかもしれない。
彼女は、淹れたてのコーヒーを片手に、再び『TERRA-DIVINITY-NET :: LOUNGE-01』へと意識を接続した。
[Shiori_KAMI]: 皆様、こんにちは。
彼女がそう打ち込むと、瞬時に、時差など存在しないかのように、歓迎のメッセージが殺到した。
[Jesus Christ]: やあ、栞さん! 元気にしてたかい? \(^o^)/
[Buddha]: おお、栞殿。お待ちしておりましたぞ。今日もお茶が美味いですな(湯呑の絵文字)
[Amaterasu]: キャー! 栞ちゃん、いらっしゃーい! こっちの天岩戸、最近Wi-Fiの調子が悪くって大変なのよー!
その、あまりにも俗世的な、神々の駄弁り。
栞は、思わず苦笑しながら、キーボードの代わりに思考を巡らせた。
[Shiori_KAMI]: 皆様、お変わりないようで何よりです。実は、少しばかり、行き詰まっておりまして。皆様のご意見を伺えればと。
[Jesus Christ]: おや、悩み事かい? よしよし、このお兄さん…いや、元・お兄さんが、何でも聞いてあげようじゃないか。
その言葉に、チャットルームの空気が、少しだけ真面目なものに変わった。
栞は、この数ヶ月の地球での出来事を、かいつまんで説明した。
ゲート構想を巡る、人間たちの醜い利権争い。
異世界との、危険な外交駆け引き。
そして、神の力を巡って、いがみ合い、疑心暗鬼に陥る、世界の指導者たち。
[Shiori_KAMI]: …というわけでして。私は、ただ『全能』に至るための対価が欲しいだけなのですが。どうも、人間たちは、私が何かをするたびに、勝手に混乱し、争い、そして疲弊していくようなのです。正直、少しだけ、うんざりしておりまして。
その、神にあるまじき、中間管理職のような愚痴。
それに、最初に反応したのは、意外な人物だった。これまで発言のなかった、大地の女神ガイアだった。
[Gaia]: あらあら、栞ちゃん。あなた、真面目なのねぇ。
[Shiori_KAMI]: ガイア様、ですか?
[Gaia]: ええ、私よ。地球そのもの、と言ってもいいわ。あなたのおかげで、最近、あの忌々しいプラスチックの瘡蓋が消えて、少しだけ肌の調子が良いの。感謝してるわ。
その、あまりにもスケールの大きな「肌の調子」。
[Gaia]: あなた、人間たちの顔色を気にしすぎよ。あの子たちは、そういうものなの。放っておけば、勝手に転んで、勝手に泣いて、そして勝手に立ち直るわ。それよりも、もっと、あなた自身が楽しいと思うことを、やったらどうかしら?
[Shiori_KAMI]: 私が、楽しいこと…ですか?
[Gaia]: ええ。例えばね、私、ずっと昔から、気に入らないシミがあるのよ。サハラとか、ゴビとか呼ばれてる、あの辺りの。あそこ、乾燥してて肌がカサカサするの。だから、いっそのこと、あの辺の砂漠を、全部緑地化したり、荒野を野原にしたりしない? あなたのスキルなら、できるでしょう? きっと、人間たちも喜ぶわよ! 緑が増えて、食べ物が増えるんだもの。絶対、喜ぶって!
その、惑星規模の「スキンケア」提案。
栞は、思わず絶句した。
(……砂漠の、緑地化?)
彼女の脳が、瞬時にそのプロジェクトの概要と、それに伴うリスクを計算する。気候変動、生態系の破壊、そして何より、新たに生まれた広大な土地を巡る、国家間の新たな紛争。
人間たちが、大混乱に陥る未来しか、見えない。
[Shiori_KAMI]: ……ホントですか? 本当に、喜んでくれますかね?
[Ra]: 間違いない! 我がエジプトの民も、ナイルの恵みが増えれば、必ずや汝を称えるであろう!
[Yahweh]: うむ。約束の地に、再び緑が戻るのであれば、それは祝福されるべき御業だ。
[Jesus Christ]: 良いじゃないか、栞さん! 愛だよ、愛! 大地を愛で満たすんだ!
神々の、あまりにも無邪気な、そして楽観的な賛同の嵐。
(……この人たち、本当に分かってるのかしら…)
栞は、もはや反論する気力も失せ、ただ曖昧な返事だけを返した。
[Shiori_KAMI]: …はあ。まあ、検討課題の一つとして、リストには加えておきます。
その時、これまで黙っていた釈迦が、静かに、しかし重要な助言を口にした。
[Buddha]: 栞殿。あなたが、人間たちの反応を気に病むのは、あなたが、彼らから直接『対価』を得ておらぬからかもしれませぬな。
[Shiori_KAMI]: と、申しますと?
[Buddha]: あなたは今、ゴミや、地脈といった『物質』を対価としておられる。それは、効率は良いでしょう。しかし、あなたと人間との間に、直接的な関係性を生みはしない。故に、彼らはあなたの行動を、天変地異と同じように、ただ受け止めることしかできぬのです。
[Jesus Christ]: ああ、なるほど! 釈迦君、良いことを言うね! 栞さん、君のスキルツリー、もう一度よく見てごらんよ。確か、『信仰』を、直接『対価』に変換するスキルがあるはずだから、それを取った方が良いね。
[Shiori_KAMI]: 信仰を、対価に…?
[Jesus Christ]: そうだよ! 神になる、というのはね、結局のところ、膨大なエネルギーを必要とするんだ。そして、人間の祈りや、感謝、畏敬の念といった『精神エネルギー』は、そこらの物質エネルギーなんかとは比べ物にならないくらい、高純度で、高効率なんだよ。 だから、僕たちも、かつては人々の信仰を集めたのさ。
その、あまりにもプラグマティックな、「信仰」の解説。
栞の脳裏に、新たなビジネスモデルが、閃いた。
(……なるほど。これまでは、BtoB(企業間取引)ならぬ、GtoG(神対政府)モデルだったけど。信仰を対価にするということは、BtoC(消費者直接取引)、GtoP(神対人民)モデルへの、事業転換…!)
[Shiori_KAMI]: なるほど、信仰エネルギーですね。 非常に、興味深いです。メモしておきます。
その、あまりにも事務的な返答に、チャットルームの神々が、少しだけずっこけたような気配がした。
その時だった。
それまでROMに徹していた、ギリシャ神話の伝令神ヘルメスが、突如として、爆弾のようなメッセージを投下した。
[Hermes]: 信仰エネルギーも良いけどさー! もっとデカいこと、やろうぜ! ムー大陸、浮上させようぜ!!!
[Shiori_KAMI]: ムー大陸、ですか? …失礼ですが、それは、私の世界のオカルト雑誌にしか載っていないような、都市伝説では?
[Hermes]: いや? そんなことないよ! あいつら、昔、アトランティスと大喧嘩してさ、自分たちの身を守るために、大陸ごと別の次元に隠れちゃっただけなんだよね。異次元に隠れてて、今の人間たちには見つけられないだけで、ちゃんと実在してるんだって! 俺、昔、よく遊びに行ったから、座標も知ってるぜ!
その、あまりにも軽々しく明かされた、超古代文明の真実。
チャットルームは、一気に同窓会のような雰囲気になった。
[Shiva]: おお! ムーか! 懐かしいな! あそこの酒は、最高にイカしてたぜ!
[Amaterasu]: あたし、ムーの王族のファッション、好きだったわー! すごい露出度なのよねー!
[Zeus]: うむ。あそこの巫女たちは、実に、その…情熱的でな…。
[Hera]: @Zeus あなた、まだ反省していなかったのですね?
(……この人たち、自由すぎるわ)
栞は、もはやツッコミを入れることさえ放棄した。
だが、同時に、彼女の心の中の、ゲーマーとしての魂が、疼き始めていた。
隠された、大陸。
超古代文明。
それは、あまりにも魅力的な、巨大な隠しステージではないか。
[Shiori_KAMI]: …ムー大陸。それも、やることリストには、加えておきます。座標、後でDMで送っておいてください。
[Hermes]: りょ! (`・ω・´)ゞ
その、神々のあまりにも壮大で、そして迷惑な井戸端会議を、静かに見守っていた釈迦が、ふと、話を本題へと戻した。
[Buddha]: …栞殿。あなたが、信仰エネルギーに興味を持たれたのであれば、一つ、我らからのお願いを聞いてはいただけませぬかな。
[Shiori_KAMI]: なんでしょうか。
[Buddha]: 地球に残る、我らの教えを守り続ける者たち。現代の、宗教家たちに、『君たちは、よく頑張っている』と、どうか、褒めてあげては欲しいのです。
その、あまりにも意外な、そして謙虚な願い。
[Jesus Christ]: そうだねー! 僕も、それ、ずっと思ってたんだ! 彼ら、僕たちみたいに、もう奇跡なんて使えないのに、それでも必死に、僕たちの言葉を、愛を、伝えようと、本当に、よく頑張ってるよ、彼ら!
[Shiva]: だな! 祈りだけじゃ、腹は膨れねえってのに、大したもんだぜ!
その、神々の、地上に残してきた者たちへの、温かい、そしてどこか切ない眼差し。
栞は、初めて、彼らがただの超越者ではなく、かつてこの星で、人間として、悩み、苦しみ、そして人々を愛した存在であったという事実を、肌で感じていた。
[Amaterasu]: ねえ、栞ちゃん! そうだ、いっそのこと、彼らも、奇跡、使えるようにしてあげなよ!
その、あまりにも無邪気な、天照大神の一言。
それが、この日の会議の、最後の、そして最大の爆弾となった。
[Shiori_KAMI]: …奇跡を、ですか? そんなことが、可能なのでしょうか。
[Jesus Christ]: 可能だよ、君ならね。
イエスは、静かに、そして、この世界の根源に関わる、最大の秘密を、彼女に明かし始めた。
[Jesus Christ]: そうだな。まず、君のスキルリストの中に、『因果律改変能力』という項目があるはずだ。それを、開発するんだ。
[Shiori_KAMI]: 因果律の、改変…?
[Jesus Christ]: そう。僕たちが『奇跡』と呼び、君たちの世界の異世界人が『魔法』と呼ぶものの、本当の正体さ。それは、世界のプログラム…因果律のソースコードを、直接書き換える、神の御業だ。君は、その因果律改変能力を、必死に勉強して、学ぶんだ。そうすることで、君自身も、自在に奇跡や魔法を覚えることができるようになる。
[Buddha]: そして、その理を、あなたが完全に会得した時。あなたは、その力を、他者に分け与えることも、可能になるでしょう。もちろん、誰もが使えるわけではない。膨大な精神力と、揺るぎない信念が必要となる。ですが、現代の信心深い宗教家たちなら、あるいは、その力を受け止め、小さな奇跡くらいなら、起こせるようになると思うのです。
それは、もはや国家の未来などという、矮小な話ではなかった。
人類という種の、進化の可能性。
科学の道とは別に、魔法、あるいは奇跡という、新しい道を、人類に与える。
その、あまりにも壮大な可能性。
[Shiori_KAMI]: なるほど…。 やることが、多すぎますね。とりあえず、やることリストに、書いておきますね。
その、どこまでも事務的な返答。
しかし、その言葉の裏で、橘栞の心は、かつてないほど、激しく燃え上がっていた。
因果律の、ソースコード。
それこそ、自分が、このスキルを手に入れて以来、ずっと探し求めていた、究極の「仕様書」ではないか。
それを解き明かせば、自分は、本当の意味で、『全能』へと至れるのかもしれない。
チャットは、終わった。
神々は、また会おう、と言い残し、それぞれの神話の世界へと帰っていった。
後に残された、マンションの一室。
コーヒーは、とっくに冷め切っていた。
だが、栞の心は、熱かった。
彼女は、目の前の空間に、新しいウィンドウを開いた。
そして、そこに、今日の会議で得た、あまりにも巨大な宿題を、一つ一つ、打ち込んでいった。
【神託:ToDoリスト】
地球の砂漠、緑地化計画(ガイア様案件)
『信仰エネルギー変換スキル』の取得と、新たな対価収集システムの構築
ムー大陸の浮上(ヘルメス様案件・座標待ち)
現代宗教家への賛辞(仏陀様・イエス様案件)
『因果律改変能力』の習得と、人類への『奇跡』の実装
その、あまりにも荒唐無稽な、しかし、今の彼女にとっては、極めて現実的なToDoリスト。
それを眺めながら、橘栞は、久しぶりに、心の底から、楽しそうに笑った。
(……ああ、忙しくなる。本当に、忙しくなるぞ、これは)
彼女の、孤独だと思っていた全能への道は、いつの間にか、神々の期待と、人類の未来と、そして宇宙の真理へと、繋がっていた。
その、あまりにも壮大で、そしてあまりにも面白いゲームの盤上で。
彼女は今、ようやく、本当の意味での、最初のプレイヤーとして、その第一歩を踏み出そうとしていた。




