第41話
首相公邸の静寂は、世界の喧騒とは隔絶された、嵐の目の中心にも似ていた。
執務を行う「官邸」とは異なり、ここは沢村総理が、そして今は九条官房長官もが、その心身を束の間休めるための私的な空間。のはずだった。
しかし、今のこの場所に、安らぎはなかった。
広い和室。その中央には、3人の男が座っていた。
正確には、1人の男と、その完璧な分身たち。
本体の沢村総理は、縁側で庭の闇を虚ろに見つめている。その分身は、テーブルの上で山と積まれた報告書の束に、機械のように目を通している。
分身の九条は、沢村の分身の隣で、別の報告書を冷徹な視線でさばいている。
四つの身体、二つの意識。
神から与えられたこの力は、確かに彼らを物理的な限界から解放した。だが、その代償として、彼らから「休息」という概念を奪い去った。彼らはもはや、人間ではない。国家という巨大機械を動かし続けるための、眠らない部品だった。
「…………」
ふと、報告書を読んでいた方の九条の分身が、顔を上げた。
「……終わったようです」
その声には、何の感情もなかった。
「先ほど、北京での会談を終えた我々の随行団が、帰国の途についたと。これにて、ロシア連邦、及び中華人民共和国、両国首脳への『能力譲渡』は、全て完了いたしました」
その報告に、庭を眺めていた本体の沢村が、ゆっくりと振り返った。
「……ご苦労だった」
その声は、ひどく乾いていた。
本体の沢村は言う。
「これで、不死の政治家が、新たに二人。いや…」
彼は、自嘲するように、部屋にいる三つの身体を見渡した。
「私や、総理も含めれば、四人か。この地球上に、死なない権力者が四人生まれたわけだが…。一体、これからどうなることやら…」
その言葉に、部屋の空気が、ずしりと重くなった。
彼らが、この手で開けてしまった、パンドラの箱。
不死身の独裁者。
その存在が、これから先の未来に、どれほどの災厄と、どれほどの血を流すことになるのか。
その罪の意識が、鉛のように彼らの魂にのしかかる。
その、絶望的なまでの沈黙が支配する部屋。
その、まさに中央に。
何の兆候もなく、神は三度、舞い降りた。
すぅっと、まるで最初からそこにいたかのように、ゴシック・ロリタ姿の少女が、立っていた。
「そう悲観しなさんな」
その、場違いに明るい声。
三人の男たちは、もはや驚きもせず、ただ疲弊しきった目で、その声の主を見上げた。
「あなたたちが、そんなに思い詰めることないじゃない」
少女――KAMIの分身は、まるで慰めるかのように、しかしその瞳には一切の同情の色を浮かべずに、言った。
そして彼女は、まるでゲームの仕様変更でも告げるかのように、あっさりと、とんでもない爆弾を投下した。
「あなたたちが、そんなに嫌なら、別に辞めてもいいのよ? その役目」
「…………は?」
沢村の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
「だから」と、少女は続けた。「その『分身スキル』、少しだけアップデートしておいたから。この力は、譲渡できるようにしたわ」
譲渡。
その一言が持つ意味を、彼らの高性能化した脳が理解するのに、数秒を要した。
「お互いの完全な同意があれば、そのスキルを、他人に丸ごと渡せるようにしておいたの。まあ、一種の引継ぎ機能みたいなものね」
少女は、楽しそうに、そして少しだけ意地悪く、にっこりと微笑んだ。
「だから、アンタ達は、この面倒なゲームに、無限に付き合う必要なんてないわよ?」
それは、宣告だった。
無期懲役の囚人に、突如として与えられた、仮釈放の可能性。
永遠に続くと思われた、この神の代理人という名の地獄。
そこに、出口が、ある。
「……お、おお…。そうですか…!」
最初に、その言葉の意味を噛み締め、歓喜の声を上げたのは、沢村だった。
その顔には、ここ数ヶ月、彼が完全に失っていた、人間らしい、純粋な喜びの表情が浮かんでいた。
「良かった…! 引退できる時が、いつか来ると思うと、それだけで…! 嬉しいですよ、私は…!」
彼の目には、涙さえ滲んでいた。
彼は、想像したのだ。
数年後か、十年後か。この重すぎる責務を、信頼できる後継者に譲り渡し、自分はただの「沢村」という名の老人に戻る。孫の顔を見ながら、穏やかに縁側で茶をすする。そんな、当たり前で、そして何よりも尊い未来。
その可能性が、まだ自分に残されていた。
その事実が、彼のすり減った心を、どれほど救ってくれたことか。
だが、そのあまりにも人間的な、そして正直な反応。
それを、目の前の神は、心底不思議そうな、そして少しだけ、不満そうな顔で見ていた。
「……えー、アンタ達ねぇ…」
少女は、呆れたように、頬をぷくりと膨らませた。
「そこは、『いえ、我々は生涯をかけて、KAMI様にお仕えします!』とか、そういう忠誠の言葉を述べるところでしょうに…」
その、あまりにもずれた、そして無邪気な不満。
彼女は、本気で、そう思っていたのだ。
自分は、彼らに素晴らしい力を与えた。ならば、彼らは喜んで、永遠に自分に仕えるのが当然だと。
「……そんなに、私が言ってることって、無理難題かしら?」
彼女は、こてんと首を傾げた。
その瞳には、何の悪意もない。ただ、自分とは全く異なる価値観で動く、この奇妙な生き物たちへの、純粋な疑問だけがあった。
その、あまりにも無垢な神の問い。
それに答えたのは、沢村だった。
彼は、先ほどまでの感涙に濡れた顔から一転、全てを達観したような、乾いた笑みを浮かべていた。
それは、あまりにも理不尽な上司の言動に、もはや怒りを通り越して、一種の慈愛さえ感じてしまった、ベテラン中間管理職の、究極の笑顔だった。
「ハハハ。いえ、とんでもない」
彼は、穏やかに言った。
「ただ、KAMI様。我々下々の人間には、神の御心が、あまりにも高尚すぎて、時折分からなくなってしまうことがある。ただ、それだけのことなのですよ。ええ、重々承知しておりますとも。神には、我々下々の心が、お分かりにならないというのは」
その、最大限の敬意を払った皮肉。
少女は、その言葉の真意を理解したのかしないのか、ただ「ふーん」と、つまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
「まあ、いいわ」
彼女は、もうこの話に興味を失ったとばかりに、くるりと背を向けた。「とにかく、仕様変更は伝えたから。あとは、あなたたちで好きにすればいいわ。後継者を探すなり、永遠に働き続けるなり」
その言葉を残して、少女の姿は、すっとその場から消え失せた。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、四人の男。
そして、彼らの頭上に、そして心の中に、新たに投げ込まれた、あまりにも巨大な選択肢。
数分間の、長い、長い沈黙。
やがて、本体の沢村と九条が、同時に、ふーっと長い息を吐いた。
そして、顔を見合わせ、どちらからともなく、くつくつと笑い出した。
最初は、小さな、忍び笑いだった。
だが、それはやがて、腹を抱えて涙を流すほどの、大爆笑へと変わっていった。
「ハハハハハ! 引退! 引退できるぞ、九条君!」
「ええ、総理! 我々にも、老後があったのですな!」
「いやあ、参った、参った! あの神は、時々、本当に良いことをしてくれるじゃないか!」
「全くです! これで、ようやく枕を高くして…いや、三十分ですが、心置きなく眠れますな!」
彼らは、笑った。
この数ヶ月、心の底から忘れていた、人間らしい感情の発露。
だが、その狂ったような笑いが収まった時。
彼らの顔には、先ほどまでの絶望とはまた質の異なる、新たな、そしてより深刻な苦悩の色が、深く刻まれていた。
最初に、その問題の核心に気づいたのは、やはり九条だった。
「……総理」
彼の声は、再び、あの冷徹な官房長官のそれに変わっていた。
「喜んでいる場合では、ありません。事態は、より複雑になりました」
「……分かっている」
沢村もまた、政治家の顔に戻っていた。
そうだ。
出口が見えた。だが、その出口の扉には、世界で最も複雑な鍵が、かかっている。
「『お互いの完全な同意があれば』、と彼女は言いました」と、九条は続けた。「それはつまり、我々が、そして未来の総理や官房長官が、この力を継承していくためには、絶対的な信頼関係で結ばれた後継者を、自らの手で見つけ、育て、そしてその相手の同意を得なければならない、ということです」
彼の目が、鋭い光を宿した。
「これは、新たな、そして最も重要な、政治闘争の始まりです。誰が、次の『不死身の指導者』となるのか。その椅子を巡って、永田町は、これまでにない血で血を洗う権力闘争の舞台と化すでしょう」
「そして、それは我々だけの問題ではない」と、沢村は付け加えた。「プーチンと、習近平もだ。彼らも、いずれこの『仕様変更』に気づくだろう。彼らの、あの鉄の独裁体制の中で、後継者問題は、常に最大のアキレス腱だった。だが、このスキルによって、彼らは自らが認めた後継者にのみ、その絶大な権力を、そして不死性を、直接譲渡できるようになった。それは、彼らの独裁体制を、半永久的に存続させることを可能にする、悪魔的なシステムだ」
「そして、その継承のプロセスに、我々が介入できる隙が、生まれるかもしれない、ということですな」
九条の言葉に、沢村は頷いた。
そうだ。
後継者を巡る、内紛。
その候補者を、水面下で支援し、あるいは失脚させる。
この『譲渡』というルールは、彼らにとっての希望であると同時に、敵国を内部から切り崩すための、究極の戦略兵器にもなりうるのだ。
「……すぐに、アメリカに連絡を」と、沢村は命じた。「トンプソン大統領に、この『仕様変更』を伝えなければならん。彼は、また激怒するだろうがな。だが、この新しいチェス盤のルールを、我々は共有し、新たな戦略を練り直さなければならない」
沢村は、立ち上がった。
その身体は、まだ疲労しているはずなのに、不思議と、力がみなぎってくるのを感じていた。
絶望の淵で、彼は、新たな「ゲーム」を見つけてしまったのだ。
神の気まぐれに振り回されるだけの、哀れな中間管理職ではない。
この世界の未来を、自らの手で、自らの意思で、動かしていくことができるかもしれない。
その、危険で、そして何よりも魅力的な可能性。
「九条君」
彼は、腹心の名を呼んだ。
「引退の話は、少しだけ、先延ばしにするとしようか」
その顔には、もはや疲弊した中間管理職の姿はなかった。
世界の運命を、その双肩に担う覚悟を決めた、一人の為政者の顔が、そこにあった。
「どうやら我々の仕事は、まだまだ、山のように残っているらしいぞ」
その言葉に、九条もまた、静かに、しかし力強く頷いた。
神が与えた、束の間の希望。
それは、彼らを、より深く、そしてより複雑な、人間たちのゲームの盤上へと、引きずり込むための、新たな罠だったのかもしれない。
だが、彼らは、もうそのゲームから降りるつもりはなかった。
この狂った世界の行く末を、最後まで見届けるために。
彼らの、眠らない戦いは、新たな章の幕を、今まさに、開けようとしていた。




