第4話
見えない敵との戦いは、日本政府を確実に疲弊させていた。
首相官邸、地下危機管理センター。そこに設けられた「広域物質消失事象・合同対策本部」の会議室は、もはや何度目か分からない重苦しい沈黙に支配されていた。スクリーンには、この一週間で新たに「消失」が確認された地点を示す、赤い警告マーカーが点滅した日本地図が映し出されている。その数は、先週よりも明らかに増えていた。
「……以上が、最新の状況です」
対策本部の事務局長を務める、環境省の田中が、力なく報告を締めくくった。彼の目の下には、長期間にわたる心労と睡眠不足を物語る、どす黒い隈が刻まれている。
「この三ヶ月で、全国で確認された消失事象は累計で一万件を突破。消失した物質の総量は、推定で百万トンに達します。我々が設置した高感度センサー、監視カメラ、そして現場に配置した人員、その全てが、現象の発生を一度も事前に察知できていません。結論として……我々の取るべき次善の策は、もはや存在しない、と判断せざるを得ません」
「打つ手なしか…」
誰かが、呻くように呟いた。
その言葉は、この場にいる全員の心を代弁していた。
総理大臣の沢村は、固く目を閉じたまま、指でこめかみを強く押さえた。偏頭痛が、ガンガンと頭蓋の内側を叩いている。彼がこの国のトップに就任して以来、これほどまでに無力感を覚えたことはなかった。経済危機、外交問題、自然災害。それらは全て、少なくとも敵の姿が見えていた。対処法はあり、結果がどうあれ、為政者として打つべき手は存在した。
しかし、今回は違う。敵は、いない。いや、いるのかもしれないが、その姿も、目的も、正体も、何もかもが不明なのだ。まるで、巨大で、それでいて透明な、巨大な壁に一人で立ち向かっているような、そんな虚無感。
この数ヶ月、彼らはあらゆる手を尽くした。
消失現場の土壌を分析し、未知の元素やエネルギーの痕跡を探した。何も出なかった。
世界各国の情報機関に極秘裏に接触し、同様の事象が起きていないか確認した。日本以外では、一件も報告されていなかった。
果ては、国内の宗教団体や、自称・超能力者といった、普段なら一笑に付すような情報源まで洗い直した。もちろん、得られたのは荒唐無稽な与太話だけだった。
彼らは、完全に手詰まりだった。
そして、事態はもはや、国内だけで隠し通せるレベルをとうに超えていた。海外のメディアや情報機関が、日本の異常な「クリーンナップ率」に気づき始めていた。環境政策の成功などという、政府の苦しい言い訳を、いつまで彼らが信じてくれるか。
「……諸君」
沢村は、ゆっくりと目を開いた。その瞳には、覚悟と、そして悲壮な光が宿っていた。
「我々は、もう待つことはできない。このまま座して、この国が静かに蝕まれていくのを、ただ眺めているわけにはいかん」
「しかし、総理」と、防衛大臣が口を挟む。「打つ手がない、と、今……」
「だから、発想を変えるのだ」
沢村の言葉を引き継いだのは、これまで沈黙を守っていた、官房長官の九条だった。彼は、怜悧な目を一同に向け、静かに、しかし有無を言わせぬ響きを持った声で言った。
「我々は、これまで『観測』と『捕捉』に失敗し続けてきました。それは、相手が我々とは全く異なる次元、あるいは法則の上で行動しているからです。ならば、我々が取るべき手段は、もはや一つしかありません」
九条は、そこで一度言葉を切り、会議室にいる全員の顔を、一人一人見回した。
「――『対話』です」
「対話、だと?」
「正気か、九条君!」
室内のあちこちから、困惑と反発の声が上がる。
九条は、その反応を意に介さず、続けた。
「この現象には、明確な知性が介在しています。それは、無差別に破壊活動を行うのではなく、『不要物』という特定のカテゴリーの物質だけを選択していることからも明らかです。そして、その知性は、我々の社会を観測している可能性が極めて高い。ならば、我々が呼びかければ、応える可能性がある。ゼロではないはずです」
「しかし、どうやって呼びかけるというのだ! 相手の居場所も、正体も分からんのだぞ!」
「だからこそ、我々が持ちうる、最大の拡声器を使うのです」
九条は、沢村総理の目を見据えて、はっきりと告げた。
「全世界に向けた、公式な声明発表。緊急記者会見を開き、日本国政府として、この『謎の知的存在』に対話を呼びかけるのです」
その提案は、あまりにも常軌を逸していた。
それは、近代国家としての矜持を捨て、オカルトやSFの世界に足を踏み入れることを意味する。そして何より、自国の無力と、人知を超えた存在の介在を、全世界に公表することになる。その政治的、経済的、社会的なインパクトは、計り知れない。
反対意見が、噴出した。
「馬鹿げている! そんなことをすれば、我が国は世界の笑いものになるぞ! 株価は暴落し、国際社会における信用は地に落ちる!」
財務大臣が、顔を真っ赤にして叫んだ。
「その通りだ。アメリカも、中国も、ロシアも、日本の危機管理能力の欠如を、ここぞとばかりに非難してくるだろう。安全保障上のリスクが大きすぎる」
外務大臣も、厳しい表情で続く。
「そもそも、本当に『知的存在』だと断定できるのか? 未知の自然現象である可能性も、まだ……」
議論は、紛糾した。誰もが、九条の提案を「狂気の沙汰」だと感じていた。しかし、同時に、誰もが心のどこかで理解していた。それが、唯一残された、可能性のある選択肢であるということを。
「……静粛に」
沢村総理の、低く、しかし芯の通った声が、会議室の喧騒を切り裂いた。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、一同を見渡した。
「諸君らの懸念は、もっともだ。私も、数日前までなら、九条長官の提案を一笑に付していただろう。だが、今は違う。我々には、もう時間がない」
彼は、テーブルに置かれた一枚の写真に、指を置いた。それは、先日消失した、とある山村の不法投棄現場の写真だった。ゴミの山が消えた跡地で、数人の子供たちが、数十年ぶりに顔を出した地面の上で、無邪気に遊んでいる。
「この現象は、悪意を持っていない。少なくとも、今のところは。だが、それは、相手が我々を『対話するに値しない、取るに足らない存在』と見なしているからだとしたら? 我々が、道端の石ころと同じようにしか、認識されていないのだとしたら? その気まぐれ一つで、この国の全てが、廃棄物のように『処理』される日が来ないとは、誰にも断言できんのだ」
総理の言葉に、誰も反論できなかった。
「恥をかく? 笑いものになる? 結構じゃないか。私は、この国の、一億二千万人の国民の未来を、正体不明の何かの気まぐれに委ねるつもりはない。たとえ、全世界から狂人と呼ばれようとも、私は対話を試みる。それが、この国の主権と国民の生命を守る責任を負う、私の、最後の責務だ」
沢村は、決然と言い放った。
「緊急記者会見を開く。準備を急がせろ」
その鶴の一声で、日本の、いや、世界の歴史が大きく動き出すことになる歯車が、ゆっくりと、しかし確実に回り始めた。
会見の準備は、極秘裏に、そして急ピッチで進められた。
官邸の記者会見室には、国内の主要メディアと、海外の通信社が「国家安全保障に関する緊急発表」という名目で集められた。記者たちは、何事かと訝しむ顔で、互いに情報を交換しようとするが、誰一人として、これから発表される内容を予測できた者はいなかった。
会見が始まる数分前。
官邸の一室で、沢村は、官房長官の九条と二人きりで、最終的な原稿の確認を行っていた。
「……本当に、よろしいのですな、総理」
九条が、最後の確認のように問う。
「ああ。もう、腹は括ったよ」
沢村は、乾いた笑みを浮かべた。「君こそ、歴史の教科書に『日本を混乱させた狂気の官房長官』として名を残すかもしれんのだぞ?」
「光栄ですな。ですが、私は、総理が『神と対話した最初の為政者』として名を残す未来の方を、信じておりますよ」
九条は、表情を変えずに、そう言った。
時刻は、午後七時。
ゴールデンタイムの、全てのテレビ番組が中断され、官邸の記者会見室からの生中継に切り替わった。
青いバックパネルの前に立った沢村総理は、無数のフラッシュを一身に浴びながら、ゆっくりと頭を下げた。そして、意を決したように顔を上げ、マイクに向かって、静かに語り始めた。
「国民の皆様、そして、世界の皆様。本日は、緊急でお伝えしなければならないことがあります」
その声は、日本中の、そして世界中の家庭やオフィス、街頭のビジョンに響き渡った。
「現在、我が国、日本において、人知の及ばない、科学的に説明のつかない事象が、連続的に発生しております。政府は、これを『広域物質消失事象』と名付け、調査を続けてまいりました。その結果、我々は、これが特定の国家や組織によるものではなく、我々の理解を超えた、極めて高度な『知的存在』による干渉である、という結論に達しました」
記者会見室が、大きくどよめいた。なんだ、総理は、何を言っているんだ。
しかし、沢村は、その動揺を意に介さず、カメラのレンズの奥にいるはずの「何か」に向かって、語りかけるように続けた。
「我々、日本国政府は、この現象を引き起こしている、その知性に対して、公式に対話を呼びかけます」
その言葉は、雷鳴のように世界を打ち抜いた。
「我々に、敵意はありません。あなたの行動が、結果として、我が国の長年の懸案であった環境問題を解決している側面があることも、承知しています。しかし、あなたの存在と、その意図が不明である限り、我々はこれを静観し続けるわけにはいきません。もし、この放送を、このメッセージを見ているのなら、何らかの形で、我々に応答を願います。我々は、あなたを理解したい。そして、あなたとの間に、建設的な関係を築きたいと、心から願っています。繰り返します。我々は、対話を望みます」
沢村は、全てを言い終えると、深く、深く、頭を下げた。
数秒の沈黙の後、会見室は、怒号にも似た記者たちの質問の嵐に包まれた。
「総理、それは本気ですか!」「知的存在とは、宇宙人のことですか!」「政府は、ついに狂ったんですか!」
その頃、世界中の主要都市も、前代未聞の発表に、大混乱に陥っていた。
ニューヨークのタイムズスクエアでは、全ての電光掲示板が、日本の総理大臣の顔を映し出し、道行く人々が呆然とそれを見上げていた。ワシントンのホワイトハウス、モスクワのクレムリン、北京の中南海。各国の首脳たちは、即座に自国の情報機関トップを呼び出し、緊急会議を招集していた。
SNSは、「#日本政府」「#知的存在」「#GodIsReal」といったハッシュタグで埋め尽くされ、サーバーがダウンするサイトも相次いだ。
日本国政府は、サイコロを投げた。
それは、自国の尊厳と国際的信用を賭けた、乾坤一擲の大博打。
官邸の一室に戻った沢村は、モニターに映し出される世界中の混乱を、官房長官の九条と共に、静かに見つめていた。
「……世界中を、敵に回したかもしれんな」
沢村が、ぽつりと呟く。
「ですが、同時に、たった一人の『味方』を得るための、唯一の手段でした」
九条が、冷静に答える。
「……応えて、くれるだろうか」
「さあ。それは、我々が『神』と呼ぶべき存在にしか、分かりませんな」
人類の歴史が、新たなページを開いた瞬間だった。
その引き金を引いたのが、日本の、一人の疲れた中年男性であったことを、未来の歴史家たちは、驚きと共に記すことになる。
そして、その呼びかけの本当の相手が、都心のマンションで、この世紀の記者会見を「なんだか、大げさねぇ」と、ポテトチップスをかじりながら眺めている、一人の女性であることなど、この時点では、まだ、誰も知らなかった。




