第36話
その決定は、東京とワシントンが、北京とモスクワの弱々しい抵抗をねじ伏せる形で、半ば強引に断行された。
人類史上初となる、神への感謝状。
『太平洋ゴミベルト浄化に関する国際社会からの感謝表明式典』。
その開催が、国連総会の緊急決議という形で、全世界に向けて発表されたのだ。
「――これは、我々人類が、国家間の対立やエゴを超え、地球という共通の故郷のために手を取り合う、歴史的な第一歩であります!」
ニューヨークの国連本部で、アメリカのトンプソン大統領が、高らかにそう演説した。
その隣では、日本の沢村総理が、穏やかな、しかしどこか疲労の色を隠せない笑みを浮かべて頷いている。
彼らが語る物語は、完璧だった。
神の御業を、人類の叡智と協調の象徴へと巧みにすり替え、そのイニシアチブを日米両政府が完全に握る。それは、数週間前に世界を分断した情報戦の、見事なまでの再現だった。
だが、世界は、もはや一枚岩ではなかった。
記者会見の席で、中国とロシアの国連大使は、共同で声明を発表した。
「我が国も、地球環境の改善という崇高な目的には、もちろん賛同する。しかし」
彼らは、用意された原稿を、わざとらしく、そして芝居がかった口調で読み上げた。
「『対価と恩恵』という、我々とKAMIとの間に結ばれた神聖な原則について、十分な議論が尽くされないまま、このような政治的パフォーマンスが先行することについては、あーあ、甚だ不本意であると言わざるを得ない」
その、見え透いた牽制球。
しかし、その一言は、世界中に眠っていた火種に、再び油を注ぐ結果となった。
式典のニュースが世界を駆け巡ると同時に、国際社会は賛成と反対、そして新たな要求を叫ぶ者たちの、巨大な怒号の渦に飲み込まれた。
荒れに荒れたのだ。
ヨーロッパの主要国や、海洋汚染に苦しむ島国は、日米のリーダーシップを絶賛した。
「今こそ、人類は一つになるべきだ!」
「これは、新しい時代の幕開けだ!」
環境団体は、トンプソンと沢村の顔写真をプラカードに掲げ、ノーベル平和賞に推薦する運動を始めた。
アメリカ政府を支持する声は、確かに大きかった。
だが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、反対と嫉妬の声が、世界の南半球から、嵐のように巻き起こった。
アフリカ連合の議長国は、緊急の記者会見を開き、涙ながらにこう訴えた。
「なぜだ! なぜ、神の恩恵は、常に豊かな北の国々だけに与えられるのだ! あのゴミベルトには、我々の国から流れ着いたゴミも、少なからず含まれているはずだ! 我々にも、正当な分け前を要求する権利がある! ふざけるな! 我々にも恩恵をくれ!」
南米、東南アジア、中東。
これまで世界のパワーゲームの外側に置かれてきた国々が、一斉に声を上げた。
彼らにとって、神の力は、先進国との絶望的なまでの格差を覆す、唯一にして最後のチャンスだった。そのチャンスが、目の前で奪い去られようとしている。彼らの叫びは、悲痛で、切実だった。
国連本部の前では、各国の大使たちが殴り合いの喧嘩を始める寸前の騒ぎとなり、世界中の日米大使館の前には、抗議のデモ隊が殺到した。
世界は、再び分断された。
神への感謝という、誰も反対するはずのない美名を掲げたはずの式典が、皮肉にも、人類の間に存在する最も醜い格差と嫉妬を、白日の下に晒してしまったのだ。
「……見ろ、九条君。地獄とは、このことだ」
深夜、官邸の執務室。
沢村は、世界中の抗議デモや首脳たちの罵り合いを映し出す、無数のモニターの光を、虚ろな目で浴びていた。
彼の心は、もう限界だった。
ゲート構想を巡る国内の泥沼の調整。
エルドラ来日に向けた、前代未聞の準備。
そして、この世界中から叩きつけられる、憎悪と嫉妬の奔流。
数週間、まともに眠れていない。食事は、喉を通らない。精神は、すり減り、肉体は鉛のように重い。
彼は、自分が今、立っているのか座っているのかさえ、時々分からなくなることがあった。
「……もう、無理だ…」
ぽつりと、彼の口から本音が漏れた。
「私は、もう…疲れたよ。総理大臣など、辞めたい。いや、もういっそ、このままここで、意識を失ってしまえたら、どれだけ楽か…」
その、あまりにも弱々しい、悲鳴にも似た言葉。
その隣で、同じように死人のような顔色で報告書を読んでいた九条も、さすがにペンを置いた。
「……総理」
彼が、何か慰めの言葉をかけようとした、その時だった。
空気が、揺れた。
執務室の中央に、何の前触れもなく、あのゴシック・ロリタ姿の少女が、すぅっと姿を現した。
彼女は、部屋の隅で狂ったように明滅する世界中のニュースモニターと、机に突っ伏すようにしてぐったりとしている日本のトップリーダー二人を、興味深そうにきょろきょろと見比べていた。
「あら。大変ね」
少女は、まるで疲れて動かなくなったおもちゃを眺めるかのように、平坦な声で言った。
その声に、沢村は、もはや顔を上げる気力さえ残っていなかった。
(……ああ、来たか。我らが、気まぐれな神よ。最高に、最悪のタイミングで…)
「あなたたち、見てると面白いけど、ちょっと効率が悪いわね。すぐに壊れてしまいそうだわ」
少女は、二人のすぐそばまで歩み寄ると、こてんと首を傾げた。そして、まるで最新のガジェットでも紹介するかのように、とんでもない提案を口にした。
「あなたたちのために、いくつか便利なスキルを、おすすめするわよ?」
「……スキル…?」
かろうじて顔を上げた九条が、かすれた声で聞き返した。
「ええ」と、少女は頷いた。「まず一つは、『30分睡眠で8時間分の熟睡効果を得られる安眠能力』」
その一言が、死にかけていた二人の男の脳髄を、直接揺さぶった。
睡眠。
熟睡。
三十分で、八時間分。
それは、今の彼らにとって、どんな金銀財宝よりも、どんな神の御業よりも、甘美で、魅力的な響きを持っていた。
「そして、もう一つ」と、少女は続けた。「あなたたち自身の**『分身スキル』**。物理的な実体を伴う、もう一人の自分を作り出す能力よ。本体のあなたたちが眠っている間、分身が仕事をしてくれる。あるいは、二つの会議に、同時に出席することもできるわ。便利でしょう?」
それは、悪魔の囁きだった。
いや、今の彼らにとっては、天使の福音そのものだった。
疲労でちぎれかけた思考の糸を、必死で手繰り寄せながら、沢村は想像した。
三十分眠るだけで、心身ともに完全にリフレッシュできる。
そして、自分が眠っている間も、もう一人の自分が、あの終わりのない会議や、うんざりするほどの電話対応を、全て片付けてくれる。
それは、天国だった。
失われた平穏と、健康と、そして人間らしい生活を、取り戻せるかもしれない。
「……マジで、ほしい…」
沢村の口から、心の底からの、偽らざる本音が、呻き声となって漏れた。
隣の九条も、その鉄仮面のような表情の下で、必死に欲望と戦っているのが分かった。その目が、血走っている。
だが、次の瞬間。
沢村の脳裏に、冷徹な政治家としての理性が、最後の力を振り絞って警鐘を鳴らした。
(……待て。待て、待て、待て!)
彼は、必死でその甘い誘惑を振り払った。
(駄目だ。もし、このスキルを手に入れたら、どうなる?)
(流石に、これを貰ったら、さらに働くハメになるだけじゃないのか?)
(私の稼働時間が、事実上、一日二十三時間半になる。分身も使えば、実質四十七時間だ。そうなれば、アメリカも、国内の連中も、そしてこの神自身も、今の二倍、三倍の仕事を私に押し付けてくるだけじゃないのか?)
(休息のためのスキルではない。これは、私という人間を、より高性能な、二十四時間稼働の『政治マシーン』へと改造するための、ただのアップグレードパーツじゃないのか?)
彼は、戦慄した。
それは、救済などではない。
人間性の、完全なる放棄。
自らを、国家という祭壇に捧げる、生贄の儀式そのものだった。
(だが…)
彼の視界の端に、机の上に積まれた、あの絶望的なまでの書類の山が映る。鳴り止むことのない、世界中からの電話の着信ランプ。
(いや、しかし、これを貰わないと、もうやっていけない…!)
(このままでは、私は、本当に壊れてしまう。過労で倒れ、全てを投げ出すことになる。それは、総理大臣としての、責任の放棄だ。それだけは、許されない)
(ならば、人間であることをやめてでも、この責務を全うするべきなのか…?)
「…………良いのか?」
沢村の口から、再び、問いかけの言葉が漏れた。
それは、目の前の神にではなく、自分自身の魂に問いかける、最後の、そして最も重い問いだった。
「人間で、なくなるぞ…」
彼は、隣の九条の顔を見た。
九条もまた、同じ地獄の中で、同じ葛藤に身を焦がしていた。その目は、羨望と絶望、そして諦観が入り混じった、見たこともない色をしていた。
「……KAMI様」
やがて、沢村は、絞り出すような声で、目の前の少女に問いかけた。
「もし、我々が、そのあまりにも魅力的で、そしてあまりにも恐ろしいスキルを、受け取るとしたら」
彼は、最後の、そして最も重要な質問をした。
「……その『対価』は、一体、何ですかな?」
その問いに、少女は、初めて、少しだけ、楽しそうな、意地悪な笑みを浮かべた。
それは、面白い実験の結果を、心待ちにしている科学者のような、無邪気で、残酷な笑みだった。
「対価?」
彼女は、こてんと首を傾げた。
「そんなもの、いらないわよ」
「……え?」
「言ったでしょう? これは、あなたたちへの『おすすめ』だって。いわば、福利厚生みたいなものよ。いつも私の面倒な雑用を押し付けられて、頑張って働いてくれている、あなたたち二人への、私からのささやかなプレゼント。感謝して、受け取ればいいのよ」
プレゼント。
福利厚生。
その、あまりにも場違いな、そしてあまりにも慈悲深い言葉。
しかし、その言葉こそが、何よりも恐ろしかった。
対価がない。
それはつまり、これが純粋な「善意」であるという、証明。
そして、その「善意」によって、自分たちは、永遠にこの神の掌の上で、より効率的に、より休むことなく、踊り続けることを、運命づけられるのだ。
それは、奴隷の首にかけられた、黄金の首輪だった。
「……」
沢村は、九条と顔を見合わせた。
二人の目には、同じ色が浮かんでいた。
絶望。
そして、諦観。
もはや、彼らに、選択肢はなかった。
この地獄を生き延びるためには、悪魔が差し出したこの甘い毒杯を、飲み干すしかないのだ。
「……ありがたく、拝受、いたします」
沢村の声は、もはや何の感情も乗らない、乾いた音にしか聞こえなかった。
「よろしい」
少女は、満足げに頷いた。
そして、彼女が指をぱちんと鳴らした、その瞬間。
沢村と九条は、何か冷たいものが、自らの魂に直接インストールされるような、奇妙な感覚に襲われた。
同時に、この数週間、彼らの全身にまとわりついていた鉛のような疲労感が、すぅっと嘘のように消え去っていく。思考が、クリアになる。世界が、鮮明に見える。
ああ、これでまた、戦える。
いや、戦い続けなければ、ならなくなったのだ。
永遠に。
沢村は、自らの執務室の窓から、白み始めた東京の空を見上げた。
美しい、夜明けだった。
だが、その美しさが、今の彼には、どこまでも空虚なものにしか見えなかった。
自分は、今、確かに人間であることを、やめたのだ。
この国の、そしてこの世界の平和という、あまりにも重い十字架を背負い続けるために。
そのことに、果たしてどれほどの価値があるのか。
その答えを、彼はまだ、知らなかった。
ただ、神の気まぐれな善意によって、彼の、そして九条の、人間としての物語は、今まさに、その最初の終わりを告げたのだった。




