第35話
日本の国家運営の中枢、首相官邸。
その内部は、今や二つの巨大な時限爆弾を同時に抱えた、巨大な精密機械と化していた。一つは、日本国民一億二千万人の欲望とエゴが渦巻く『ゲート構想』。もう一つは、人類の未来そのものを左右する『異世界プロジェクト』。
沢村総理と九条官房長官、そして彼らに率いられた日本の官僚機構は、その二つの戦線で、文字通り寝る間も惜しんで戦い続けていた。一触即発の知事会議を仲裁し、異世界の重鎮の観光プランを練り、メディアからの憶測記事の火消しに奔走する。疲労は、とっくに限界を超えていた。
その日も、沢村と九条は深夜の執務室で、山と積まれた報告書と格闘していた。
議題は、数日後に迫ったリリアン王国の大魔導師エルドラの、歴史的な来日について。警備計画、会談の議題設定、そして何より、この事実をどのタイミングで国民に公表するべきか。議論は、遅々として進んでいなかった。
「……九条君。私は、総理大臣になったはずなんだがな。いつの間にか、旅行代理店の社長と、全国自治会連合の会長を兼任しているような気分だよ」
沢村が、心の底から疲弊しきった声で、冗談とも本音ともつかない言葉を漏らした、まさにその時だった。
空気が、揺れた。
もはや、彼らにとっては馴染み深い、しかし決して慣れることのない、世界の理が歪む感覚。
執務室の中央、何もない空間に、すぅっとあのゴシック・ロリタ姿の少女が、何の兆候もなく姿を現した。
「やあ」
少女――KAMIの分身は、まるで近所のコンビニにでも行くかのような、軽い口調で挨拶した。
「忙しいところ、悪いけど」
「……いえ。滅相もございません」
沢村は、脊髄反射で椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。その動きは、もはや様式美の域に達していた。心の中では、「よりにもよって、今来るか!」と絶叫しながら。
「ちょっと、聞きたいことがあって」
少女は、こてんと首を傾げた。その仕草には、何の悪意もない。ただ、純粋な子供のような好奇心だけがそこにあった。
「あなたたちの世界の『インターネット』で調べてみたんだけど。『太平洋ゴミベルト』っていうのがあるらしいじゃない?」
太平洋ゴミベルト。
人類が生み出した、現代文明の巨大な負の遺産。太平洋の海流によって、プラスチックゴミが巨大な渦を巻いている、あの呪われた海域。
なぜ、今、その話が?
沢村と九条は、顔を見合わせた。
「ええ。まあ、恥ずかしながら、存在しますな」と、九条が慎重に答えた。
「そう。それでね」と、少女は続けた。「あれ、ものすごい量のゴミなんでしょう? 私の対価として、とても良さそうだなって思ったんだけど。あれって、私が貰っても良いの?」
「…………は?」
沢村の口から、間の抜けた声が漏れた。
「いや、だからね」と、少女は少しだけ面倒くさそうに説明した。「インターネットで色々調べてみたんだけど、あのゴミベルトがあるのは、どこの国の領海でもない『公海』っていう場所なんでしょう? 権利関係が、なんだか空白になってるみたいだけど。だから、私が勝手に貰っちゃって良いものなの? それとも、誰かに断りを入れなきゃいけないの?」
その、あまりにも純粋で、そしてあまりにも常識外れな質問。
沢村と九条は、数秒間、完全に思考が停止した。
この神は、何を言っているんだ。
これまで、日本中の不法投棄ゴミを断りもなく消し去り、他国の湾岸倉庫から金属スクラップを密室状態で消失させてきた張本人が。今さら、誰の物でもない海のゴミを前に行儀よく、「これ、貰っていいですか?」と、許可を求めている。
彼女の中で、一体どのような心境の変化があったのか。
おそらく、彼女は彼女なりに、人間社会の『ルール』というものを学び、それを尊重しようとしているのだろう。その健気さにも似た態度は、微笑ましいはずなのに、なぜこれほどまでに厄介な予感しかしないのか。
「……ええと、それは…」
沢村が言葉に詰まった、その瞬間。
彼の隣にいた九条が、完璧な官僚としての反射神経で、一歩前に進み出た。そして、満面の笑みで、即答した。
「はい! よろこんで!」
その、あまりにも威勢のいい返事。
沢村は、ぎょっとして九条の顔を見た。
「もちろんですとも、KAMI様!」と、九条は続けた。「あのゴミベルトは、長年我々人類を悩ませてきた、地球環境の汚点! それを、あなたが対価として引き取ってくださるなど、我々にとっては感謝の言葉もございません! ええ、ええ! どうぞ、ご自由にお持ちください!」
彼は、もはや営業マンのように、必死に頭を下げ続けた。
彼の頭の中では、ただ一つの思考が高速で回転していた。
(ここで下手に「調整が必要です」などと答えれば、面倒なことになる! この神は、面倒を嫌う! 機嫌を損ねて、へそを曲げられたら、何をされるか分からん! 今は、とにかく全力で肯定するしかない!)
その、九条の必死の追従が功を奏したのか。
少女は、満足げにこくりと頷いた。
「そう。良かった。じゃあ、あなたたちがそう言うなら、安心だわ」
そして彼女は、いつものように、最も恐ろしい一言を付け加えた。
「でも、念のため、ちゃんと筋は通しておきたいから。日本政府としてというか、あなたたちの仲間の、日本、アメリカ、ロシア、中国の見解も、一応聞いておきたいわ。あなたたち四カ国が『良い』って言うなら、もう文句はないでしょう?」
「……はい。かしこまりました」
九条の顔が、笑顔のまま引きつった。
「じゃあ、よろしくね」
少女は、もう用事は済んだとばかりに、くるりと背を向け、来た時と同じように、ふっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、二人の男。
そして、床に叩きつけられた巨大な外交爆弾だけだった。
数秒後。
沢村は、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
「……九条君。君は、今、とんでもない約束をしなかったかね…?」
「致し方ありません、総理」
九条は、顔面蒼白になりながらも、その完璧なポーカーフェイスだけは崩さなかった。「あれが、現時点での最善手です。ですが…」
彼は、執務室の隅に設置された、四カ国首脳へと繋がる最高機密のビデオ会議システムの端末を、震える指で指さした。
「我々は今、人類史上最も愚かで、そして最も困難な調整会議を開かねばならなくなりました」
その三十分後。
深夜にも関わらず、東京、ワシントン、北京、モスクワを結ぶ、四カ国首脳レベルの緊急ビデオ会議が、招集された。
モニターに映し出された、アメリカのトンプソン大統領、中国の王将軍、そしてロシアのヴォルコフ将軍の顔は、誰もが寝起きらしく、そして怪訝な表情を浮かべていた。
「――皆様、深夜にも関わらず、お集まりいただき感謝申し上げる」
会議のホストを務める九条が、重々しく口を開いた。
彼は、先ほどのKAMIとのやり取りを、脚色することなく、ありのままに三カ国のリーダーたちに伝えた。
「……というわけで、太平洋ゴミベルトに関して、我々の協力者であるKAMIが、それを対価として欲しい、と言い出しました。つきましては、皆様のご意見を伺いたい。どうしましょう?」
九条の説明が終わった後。
数秒の、奇妙な沈黙が流れた。
最初に、その沈黙を破ったのは、アメリカのトンプソン大統領だった。
モニターの向こうで、彼は心底不思議そうな顔で、こう言った。
「……えっ?」
「……は?」
「いや、済まない、九条長官。私の耳がおかしくなったのかもしれん」と、トンプソンは耳を指さした。「KAMIが、あの海のゴミを欲しがっている。そして、ご丁寧に我々の許可を求めている、と。そういう話で、間違いないかね?」
「はい。その通りです」
「……普通に、勝手に貰えば良いんじゃないのか?」
トンプソンの口から漏れたのは、純粋な、そしてあまりにも真っ当な疑問だった。
「いや、待て。これは、素晴らしいことじゃないか、諸君! 我々人類が、何十年も解決できなかった環境問題を、彼女が解決してくれると言っているんだぞ! 我々がやるべきことは、会議などではない! 彼女に感謝状を送り、この歴史的なクリーンアップ作戦を、全世界に向けて大々的にアピールすることじゃないのか!?」
彼は、興奮気味に言った。「我が国の見解は、決まっている。『イエス』だ! 全面的な、イエスだ!」
その、あまりにも楽観的で、アメリカらしい意見。
それに、静かに、しかし冷ややかに水を差したのは、北京のモニターに映る中国の王将軍だった。
「……ふむ。トンプソン大統領の、その純粋なまでの善意には、感服いたしますな」
王将軍は、丁寧な口調で言った。だが、その目の奥は、全く笑っていない。
「うーむ、しかしですよ。ゴミですが、そのゴミは、一体誰が出したのでしょうかな?」
その、一見すると些細な、しかし、本質を突いた問い。
会議の空気が、一変した。
「それは…」と、トンプソンが言葉に詰まる。
「あの公海に浮かぶ『所有者不明』のゴミは」と、王将軍は続けた。「その大半が、我々のような工業国が生産し、そして消費したプラスチック製品の成れの果てです。その中には、我が国、中華人民共和国で製造された製品も、少なからず含まれていることでしょう。それは、アメリカも、ロシアも、そして日本も同じはず」
彼の声が、怜悧な響きを帯びる。
「KAMI様が、我々との間で結ばれた契約の基本原則は、何でしたかな? そう、『対価』と『恩恵』です。我々が『対価』を差し出せば、彼女は『恩恵』を授けてくださる。ならば、です。対価の原則に従うなら、我々が生み出したゴミを彼女が対価として受け取る以上、我々はその見返りとして、新たな力を要求する権利がある。そうは、お考えになりませんか?」
「……えっ? そういう話?」
モニターの向こうで、トンプソンが素っ頓狂な声を上げた。
「そういう話でしょうな」
今度は、それまで黙って議論の行方を見守っていた、モスクワのヴォルコフ将軍が、にやりと笑いながら口を挟んだ。
「王将軍の仰ることは、実に論理的だ。あのゴミは、我々四カ国、いや、世界中の国々が生み出した『共有資源』と見なすこともできる。それを、KAMIへの対価として捧げるのであれば、その見返りは、正当に分配されるべきだ。実に、面白い提案だ」
「待て、待て、待て!」と、トンプソンが激昂した。「君たちは、正気か!? あれは、資源などではない! 汚染だ! 負の遺産だ! それを片付けてもらうのに、なぜ我々がさらに力を要求するんだ! 本末転倒だろう!」
「お言葉ですが、大統領」と、王将軍は涼しい顔で言った。「価値を決めるのは、我々ではありません。KAMI様ご自身です。彼女がそれを『良質な対価』だと判断された以上、それは我々にとって、紛れもない価値ある『資産』なのです。その資産の権利を、我々が主張するのは、当然のことでは?」
議論は、完全に泥沼化し始めていた。
ただの環境美化の話が、いつの間にか、神の力を巡る新たな利権争奪戦へと、その姿を変えていた。
沢村と九条は、もはや胃がキリキリと痛むのを感じながら、その醜い応酬を黙って聞いていることしかできなかった。
やがて、ヴォルコフ将軍が、さらに事態をややこしくする、悪魔的な提案を口にした。
「……そもそも、だ。このゴミ問題は、我々四カ国だけで決めて良い話なのかな? あのゴミベルトには、東南アジアの国々から流れ着いたゴミも、南米から流れ着いたゴミも、含まれているだろう。我々だけで勝手に『対価』として捧げ、その見返りを独占したと知れれば、彼らは何と思うだろうな。国際社会に、この問題を問いかけてみますかな?」
その一言に、九条の背筋が凍った。
(……まずい! 最悪のシナリオだ!)
「しかし、それはあまりにも大きな論争を巻き起こしますぞ!」
九条は、思わず声を張り上げた。「もし、国連の場でこの問題を提起すれば、どうなるか! 発展途上国や小国のどもが、自分たちの出したゴミの分け前として、『我々にも身体能力強化を!』『限定的未来予知をよこせ!』と、一斉に言い出すかもしれません! 神の力が、全世界に野放図に拡散することになる! それが、どれほど危険なことか、お分かりか!」
「だからこそ、だ」と、ヴォルコフは冷ややかに笑った。「そうなる前に、我々四カ国としての、公式見解をきちんと決めておいた方が良い、ということですようーむ」
「……ゴミだぞ?」と、トンプソンはもはや呆れ果てたように言った。「所有権など、あるわけがなかろう! 神が好きにしたらいい! それが、我が国の最終見解だ!」
「いや、だから、その『神が好きにしたらいい』という決定を、我々四カ国だけで下して、本当によいのか? というのが、議論の核心なのですよ、大統領」
王将軍が、静かに、しかし、決定的な一言を言った。
会議は、完全に暗礁に乗り上げた。
アメリカの『善意で押し進めろ』という単純明快な意見。
中国とロシアの『ゴミの権利を主張し、見返りを要求しろ』という強欲な意見。
そして、その背後にある、『この決定を、我々だけで下していいのか』という、根源的な統治の正当性に関する問い。
三つの意見は、決して交わることなく、ただ虚しくモニターの中を飛び交うだけだった。
「……本日のところは、これまでにしましょう」
最終的に、ホストである九条が、疲労しきった声で会議の打ち切りを宣言した。
「各国の皆様には、本日出された意見を持ち帰り、再度ご検討いただきたい。そして、可及的速やかに、二回目の協議の場を設ける。それまでに、KAMI様には、我々の方から『現在、関係各国と鋭意調整中です』と、時間を稼いでおきますので…」
モニターが、一つ、また一つと、消えていく。
後に残されたのは、東京の官邸の一室で、頭を抱える沢村と九条の姿だけだった。
「……九条君」
沢村が、呻くように言った。
「私は、もう疲れたよ」
「同感です、総理」
九条は、その完璧なポーカーフェイスさえも崩れかけた、ぐったりとした顔で答えた。
「神は、ただ純粋な疑問を我々に投げかけただけなのでしょう。ですが、その純粋な疑問が、我々人間の、どうしようもなく醜い欲望と、複雑な国家間のエゴという名の算盤にかけられた結果、世界を揺るがす大問題へと発展してしまった。全く、喜劇ですな。いや、悲劇か」
彼らは、改めて思い知らされていた。
神の力は、確かに世界を変える。
だが、その世界を、より良くするか、より悪くするか。
その最終的な責任は、いつだって、その力を使う人間自身に委ねられているのだという、あまりにも重い、現実を。
そして、その責任を負うには、自分たちはあまりにも無力で、そして他の国のリーダーたちはあまりにも強欲すぎるという、絶望的な事実を。
彼らの、眠れない夜は、またしても、その深さを増していくばかりだった。




