第26話
あの日、国連総会の壇上から日米両政府が全世界に向けて異世界の存在を公表し、人類を恐怖から希望へと導く壮大な物語を提示してから、季節は一つ巡っていた。
世界は、熱病に浮かされていた。『アステルガルド・ゴールドラッシュ』とでも呼ぶべき熱狂が、地球という惑星を覆い尽くしていた。
未知なるエネルギー源『アステルニウム』。あらゆる病を克服する可能性を秘めた『魔法ポーション』。人類の未来を塗り替える無限の可能性が、光り輝く『扉』の向こう側にある。
そのニュースは、かつて神の力を巡って分裂しかけた世界を、一つの巨大な欲望のるつぼへと変貌させた。世界中の国家、企業、大学、そして野心ある個人たちが、そのフロンティアから得られるであろう莫大な利益のおこぼれにあずかろうと、日米両政府が設立した『超次元フロンティア開発機構(通称:FDA)』の門を叩いた。
そして今日、その熱狂の最前線である異世界『アステルガルド』の前線基地、『ベースキャンプ・フロンティア』に、新たな一団が到着しようとしていた。
「……信じられんな」
ゲートを通過し、二つの太陽が輝く異世界の大地に第一歩を踏み出した外交官、小此木は、目の前に広がる光景に絶句した。
数ヶ月前、彼が最後にこの地を訪れた時、ここにあったのは橘栞の分身が一夜にして建設した、いくつかの滑らかなドーム状建造物が静かに佇むだけの、無機質で殺風景なだけの空間だった。
だが今、彼の目の前にあるのは、全くの別世界だった。
ベースキャンプの周囲には、まるで巨大なキノコが繁殖するかのように、雑然とした、しかし生命力に満ち溢れた巨大な「町」が形成されていたのだ。
様々な意匠のテントや、現地のアースレンガで建てられた粗末な小屋が、ドーム状の基地を取り囲むようにひしめき合っている。その間を、人間、獣人、ドワーフ、エルフといった、多種多様なアステルガルドの住人たちと、地球から来たと思しき作業服姿の技術者たちが、言葉にならない活気と共に闊歩していた。
焚き火の煙と、未知のスパイスで焼かれた肉の香ばしい匂い、そして様々な言語が入り混じった喧騒が、濃密な空気となって小此木の肺を満たす。
それはもはや、極秘の軍事・研究拠点などではなかった。
開拓時代の西部劇にでも出てくるような、無法で、混沌として、そしてどうしようもなく魅力的なフロンティアの交易所。そのものだった。
「……小此木さん。お待ちしておりました」
呆然と立ち尽くす小此木に、日焼けした精悍な顔つきの男が声をかけた。ベースキャンプの警備責任者であり、元陸上自衛隊特殊作戦群の隊長でもある、佐藤一尉だった。
「ようこそ、『フロンティア・タウン』へ。ご覧の有様ですが」
佐藤は、どこか自嘲するように笑った。
小此木は、我に返ると、厳しい外交官の顔つきで佐藤を問い詰めた。
「佐藤一尉。これは、一体どういうことだ。説明してもらおう。ここは、日米両政府が管理する最高レベルの機密区画のはずだ。なぜ、こんな無法地帯のような市場が形成されている? セキュリティはどうなっているんだ!」
彼の背後では、今日彼が引率してきた第一陣の民間調査団のメンバーたちが、目を丸くして周囲の光景に見入っていた。日本のトップクラスの大学から派遣された著名な学者や、巨大企業の研究所から選抜されたエリート研究者たちだ。彼らの瞳は、恐怖よりもむしろ、目の前の未知なる光景への純粋な好奇心で爛々と輝いていた。
「……申し訳ありません」
佐藤は、小此木の剣幕にも動じず、冷静に答えた。「ですが、これには事情が」
彼は、小此木を基地の中央司令ドームへと促した。
「こちらへ。中で、ご説明します」
ドームの内部は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。最新鋭の機材が並び、日米のオペレーターたちが黙々と作業を続けている。
佐藤は、壁に設置された巨大なモニターに、いくつかの映像を映し出した。
「全ては、一人の行商人がきっかけでした」
彼は、語り始めた。
「三ヶ月ほど前、我々のベースキャンプの噂を聞きつけたらしい獣人の行商人が、恐る恐るこの森の端までやって来たのです。彼は、我々の兵士が捨てたレーションの空き袋を拾い、それを宝物のように抱えて帰っていきました」
モニターに、遠距離カメラで撮影された、猫のような耳を持つ獣人の姿が映し出される。
「次の日、彼は仲間を連れて戻ってきました。そして、彼らが持っていたのは、奇妙な光を放つ鉱石でした。対価として、彼らが要求したのは、レーションの袋に入っていた『固形スープの素』でした」
佐藤は、別の映像に切り替えた。それは、富士の地下研究施設の分析室からの緊急報告を記録したものだった。
『――佐藤一尉! そちらから送られてきた鉱石の分析結果が出た! 信じられん! これは、アステルニウムではない! だが、常温で自己冷却する性質を持っている! まさに夢の冷却材だ! もっとだ! もっとサンプルを送ってくれ! 対価がスープの素なら、コンテナで送ってやる!』
興奮しきった老科学者の、絶叫にも似た声が司令室に響き渡る。
「……ご理解いただけましたかな」と、佐藤は静かに言った。「最初は、ただの偶然でした。ですが、その噂は瞬く間にこの地方に広まった。『森の奥の奇妙な鉄の家に行けば、奇跡のような品物と交換してくれる』と。一人、また一人と行商人が現れ、彼らが持ち込む品々は、我々の想像を遥かに超えるものばかりでした。自己修復能力を持つ木材、水を一瞬で浄化する粘土、一度燃やすと一週間燃え続けるという薪……」
「我々は当初、厳格なセキュリティ規定に従い、彼らを追い返そうとしました。ですが、富士の、そしてワシントンの研究施設からの矢のような催促の前では、それも限界がありました。上層部の命令は、こうでした。『手続きよりも、成果を優先せよ』と」
小此木は、言葉を失った。
つまり、この混沌とした状況は、現場の暴走ではなく、東京とワシントンが、そのあまりにも大きな成果の前に、意図的に黙認した結果だというのか。
「今や、このベースキャンプはアステルガルドのこの地方における、最大の交易拠点となっています」と、佐藤は続けた。「彼らは、我々が持ち込む工業製品――鉄のナイフ一本、ライター一つ、インスタントラーメン一袋でさえ、金貨数枚に匹敵する価値があると見なしてくれます。そして、その対価として、我々の科学の常識を覆すような未知の資源を、喜んで提供してくれる。この物々交換によって、我々が得ている利益は、もはや国家予算規模に達しようとしています。この状況で、彼らを力ずくで排除しろと?」
小此木は、深いため息をついた。
外交官としての彼の常識や理性が、目の前で起きているあまりにも巨大な現実の前に、ガラガラと崩れ落ちていくのを感じた。
そうだ。ここは、もはや常識の通用する場所ではないのだ。
フロンティアとは、こういうものなのだ。
混沌の中から、新しい価値と秩序が生まれる場所。
「……分かった。状況は、理解した」
彼は、疲れた声で言った。「だが、今日からここに、民間の調査団が入る。彼らの安全だけは、何としても確保してくれ。彼らは、兵士ではない。ただの、好奇心の塊のような学者たちだ」
「承知しております」
佐藤は、力強く頷いた。「基地の周囲には、既に目に見えない防衛フィールドを展開済みです。危険な魔物や、悪意を持った者の侵入は、物理的に不可能です。そして、外の市場での交易も、基本的には我々の兵士が仲介し、安全を確保しています。ですが…」
佐藤は、そこで少しだけ言い淀んだ。
「ですが、小此木さん。一番厄介なのは、外敵ではありません。我々自身の内なる『欲望』です。特に、あの方々のような…」
佐藤の視線の先には、ドームのガラス窓の向こうで、既に目を輝かせながら外の市場を指さし、何事か議論を始めている民間調査団の学者たちの姿があった。
その日の午後。
小此木は、早速その「厄介さ」を身をもって体験することになった。
彼は、民間調査団のメンバー全員をブリーフィングルームに集め、このベースキャンプにおける行動規範について、厳しく説明していた。
「――よろしいですか、先生方。ここは大学の研究室ではありません。我々は、未知の文化、未知の生態系の中にいるのです。第一に、単独行動は絶対に禁止します。必ず、我々が指定する護衛兵を伴ってください。第二に、現地の住人との直接的な交渉や物品の交換は、原則として禁止します。全ての交易は、我々FDAの専門交渉官を通して行ってください。特に、地球から持ち込んだ物品の価値は、我々が厳格に管理しています。勝手な判断で…」
「おおおおおい! 小此木くーん!!」
小此木の説明を遮って、ブリーフィングルームの扉が勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、日本の地質学の権威であり、今回の調査団の最高顧問でもある、白髪の須田教授だった。御年七十歳を超えているとは思えない、子供のような好奇心に満ちたその目は、今や狂気と言ってもいいほどの光を宿していた。
「大変だ! 大変なものを見つけてしまったぞ!」
須田教授は、息を切らしながら小此木の元へ駆け寄ると、彼の両肩を掴んでガクガクと揺さぶった。
「あそこの! あのドワーフの行商人が持っている石だ! あれは、ヤバい! ヤバいぞ、小此木くん!」
「はあ…? 石、ですか?」
「そうだ! 私がこの日のために開発した、新型の広域アステルニウム探知機が、とんでもない数値を叩き出したんだ! だが、アステルニウムの反応パターンとは違う! 未知の、全く新しい高エネルギー反応だ! あれを、あれを今すぐ手に入れなければ、私は死んでも死にきれん!」
須田教授のそのただならぬ様子に、小此木は慌てて彼と共に外の市場へと向かった。
市場の一角。屈強な体格をした、見事な髭を蓄えたドワーフの商人が、いくつかの鉱石をござの上に並べていた。その中の一つに、一見すると何の変哲もない、ただの黒い石があった。
だが、須田教授が懐から取り出した探知機の針は、その石に近づけるにつれて、振り切れんばかりの勢いで激しく振動していた。
「これだ! これだよ、小此木くん!」
「……分かりました、教授。落ち着いてください。私が、交渉します」
小此木は、ため息を一つついてから、ドワーフの商人に向き直った。自動翻訳スキルが、彼の言葉を滑らかな現地語へと変換してくれる。
「失礼、ご主人。こちらの黒い石を、我々に譲っていただけないだろうか」
ドワーフの商人は、無骨な顔で小此木と須田教授を交互に見比べると、にやりと笑った。
「ほう。あんたたち、『天上の人』も、石の価値が分かるのか。いいだろう。だが、こいつは見てくれこそ悪いが、そこらの鉄の三倍は硬え、特別な『黒鋼石』だ。安くはねえぞ」
彼は、値踏みするように言った。
「金貨…そうだな、五十枚は貰わねえと、割に合わん」
金貨五十枚。それは、この世界の一般市民にとっては、数ヶ月分の生活費に相当する大金だ。
だが、小此木にとっては何の問題もない額だった。
「分かりました。金貨五十枚で…」
彼がそう言いかけた、その時だった。
「待った!」
叫んだのは、須田教授だった。
「小此木くん、金では駄目だ! 金で買えるということは、他の誰かも買えてしまうということだ! こんな歴史的な大発見の第一発見者となる栄誉を、他の誰かに譲るつもりか!? 我々は、彼が絶対に断れない対価を提示するんだ!」
「はあ…? ですが、何を…」
「あれだ!」
須田教授が指さしたのは、他の行商人が腰に提げていた、小さな銀紙の包みだった。
チョコレートだ。
「おい、ドワーフの旦那!」と、須田教授は自ら交渉を始めた。「お前、あれが欲しいんだろう? あの、口の中でとろける、神々の甘い食べ物が!」
その言葉に、ドワーフの商人の目の色が変わった。
「……チョコ・レートか。確かに、噂には聞いている。天上の人々が持ち込んだ、王侯貴族でさえ口にしたことのない、究極の菓子だと。だが、あれはあんたたちの間で厳重に管理されていて、中々手に入らねえと聞いたが」
「そうだ!」と、須田教授は胸を張った。「だが、俺はこの男の上司だ! 俺が命令すれば、いくらでも手に入る! どうだ、この石と、あのチョコ・レート。交換しないか!」
「おい、須田教授! ちょっと待ってください!」
小此木は、慌てて教授を制止した。「チョコの流通は、現在厳しく制限されています! あれは、今後の外交交渉における重要なカードなんです! そんな、石ころ一つと簡単に交換するわけには…!」
「石ころだと!? 馬鹿者! これは人類の未来だぞ!」
須田教授は、本気で怒鳴り返した。
二人の日本人が、異世界の市場の真ん中で、チョコレートを巡って本気の口論を始める。その奇妙な光景を、周囲の行商人たちが面白そうに遠巻きに眺めていた。
「あー、もう!」
最終的に根負けしたのは、小此木だった。彼は、頭を抱えた。
「……分かりました、分かりましたよ! 交換しましょう! ですが、一個だけですよ! たった一個だけ! それ以上は、絶対に駄目ですからね!」
彼は、近くにいたFDAの物資管理担当官に、苦虫を噛み潰したような顔で命令した。
「彼に、最高級のトリュフチョコレートを一つ、支給してやれ…。経費は、私の裁量で処理する…」
こうして、人類の未来を左右するかもしれない未知の鉱石は、たった一粒の高級チョコレートと引き換えに、日本の科学者たちの手に渡った。
小此木は、その一部始終を見ながら、深い、深いため息をついた。
(……全く。学者たちの、お守りをするのも楽じゃない…)
その日の夕暮れ。
ベースキャンプの外の市場は、さらにその賑わいを増していた。
あちこちで焚き火が焚かれ、仕事を終えた行商人たちが、車座になって酒を酌み交わしている。
小此木が、その日の報告書をまとめるために司令ドームの中を歩いていると、彼の隣を歩いていたライトノベル作家の沢渡恭平が、呆れたように外を指さした。
「おいおい、小此木さん。見てみろよ。あいつら、完全にここで宴会を始めちまってるぜ」
沢渡が指さす先では、昼間に日本酒を数本手に入れたらしい獣人の商人たちが、大声で歌いながら、陽気に踊っていた。完全に酒盛りの様相だ。
「あー、はいはい…」
小此木は、もはや何も言う気力も残っていなかった。彼は、近くにいた警備兵に、力なく指示を出した。
「佐藤一尉。申し訳ないが、彼らに伝えてくれ。『酒盛りは結構だが、せめて自分たちの野営地でやってくれ』と。ここは、一応、我々の施設内なんだから…」
「了解しました」
佐藤は、苦笑しながら敬礼した。
司令ドームに戻った小此木は、自らの執務デスクにどさりと身体を預けた。
窓の外では、混沌としたフロンティアの夜が始まろうとしている。
ここは、外交官が儀礼とプロトコルで物事を進める場所ではない。
科学者が、純粋な探究心で暴走し。
商人が、剥き出しの欲望で取引をし。
そして、様々な種族が、文化の違いを乗り越えて、酒を酌み交わす場所。
管理など、不可能だ。
だが、この混沌の中から、確かに新しい何かが生まれようとしている。
その熱気だけは、彼にも感じられた。
(……やれやれ。私の平穏な外交官人生は、一体どこへ行ってしまったんだか)
彼がそう一人ごちた時、デスクの通信端末が甲高い音を立てた。
ディスプレイには、狂喜乱舞する須田教授の顔が映し出されていた。
『小此木くーーーーん! やったぞ! やった! やったぞぉぉぉ! あの石の、一次解析が終わった! これは、アステルニウムじゃない! だが、もっと凄いものだ! あの石は、周囲のアステル粒子を吸収し、内部で超高純度のエネルギーへと変換、そして半永久的に蓄積する性質を持っている! まさに、天然の永久機関! 『賢者の石』だ! これさえあれば、人類は、エネルギー問題から、完全に解放されるぞぉぉぉ!』
その、歴史を揺るがす大発見の報告。
それを聞いた小此木の口から漏れたのは、しかし、喜びの声ではなかった。
「……はあ。そうですか。それは、良かったですね」
という、どこまでも疲労しきった、中間管理職の、深いため息だけだった。
彼の、そして人類の、眠れない夜は、まだ始まったばかりだった。




