第243話
東京・丸の内、東京駅。
赤レンガ造りの重厚な駅舎は、日本の近代化の象徴であり、同時に過去と未来、そして無数の人々の生活を繋ぐ巨大な結節点である。
その貴賓室から、一人の少女が駅前の広場を見下ろしていた。
リリアン王国第一王女、リシア・ド・リリアン。
彼女の日本滞在、最後の日。
帰国の途に就く前の最後の視察先として、彼女が希望した場所が、ここだった。
「……壮観ですわね」
リシアが感嘆の声を漏らす。
眼下を行き交う無数の人々。スーツ姿のビジネスマン、旅行鞄を引く観光客、手をつなぐ親子連れ。
そして、その足元から絶え間なく響いてくる、重くリズミカルな列車の振動。
それはまるで、この巨大都市の心臓の鼓動、そのもののようだった。
「これが日本の動脈です」
彼女の横に立った麻生ダンジョン大臣が、被っていた帽子を胸に当て、誇らしげに言った。
「北は北海道から、南は九州まで。
この鉄の血管が、人、物、そして情報を運び、国の隅々にまで栄養を行き渡らせている。
日本という国が島国でありながら、一つの巨大な有機体として機能しているのは、この鉄路のおかげと言っても過言ではありません。
最近はゲートに人が流れていますがやはり物流の基礎は鉄道です」
「動脈……」
リシアはその言葉を噛み締めた。
彼女の脳裏に、故郷アステルガルドの地図が浮かぶ。
広大な平原、険しい山脈、そしてそれらに分断された都市と村々。
王都ライゼンは豊かだが、辺境は貧しく、情報は遅れ、助けは届かない。
その「分断」こそが、王国の弱点だった。
「私がこれから敷く『馬車鉄道』も、いずれは国の血流となりますのね」
「ええ、必ずなりますとも」
麻生は太鼓判を押した。
「最初は小さな流れかもしれません。
ですが、一度道ができれば、そこには人が集まり、街ができ、文化が生まれる。
殿下が敷くレールは、単なる移動手段ではありません。
アステルガルドという国を、真の意味で『一つ』にするための縫い糸なのです」
リシアは深く頷いた。
彼女の目には、もう観光客のような浮ついた色はなかった。
そこにあるのは、国家の未来を設計する建築家の、冷静で情熱的な光だった。
***
場所を移し、東京駅構内の特別貴賓室。
ここには沢村総理と九条官房長官も合流し、ささやかながら厳粛な送別会が催されていた。
テーブルには紅茶と、リシアが気に入った日本のスイーツ――ショートケーキや大福など――が並べられているが、誰も手をつけてはいなかった。
別れを惜しむ空気と、未来への約束を交わす緊張感が、そこにあったからだ。
「……リシア殿下」
沢村総理が、一冊の分厚いファイルを差し出した。
その表紙には、日本国政府の金色の紋章と、リリアン王国の国章が並んで刻印されている。
「これは日本政府から、貴国への『贈り物』です」
リシアが受け取り、ページをめくる。
そこに記されていたのは、単なる外交辞令の挨拶文ではなかった。
『リリアン王国鉄道敷設支援計画書』。
レール用鋼材の供給スケジュール、車両設計図、運行管理マニュアル。
そして何より、共に現地へ渡り技術指導を行う、日本の鉄道エンジニア、土木技術者、都市計画プランナーたちの名簿が、ずらりと並んでいた。
「……総理、これは」
「口約束ではありません」
沢村は力強く言った。
「我々は本気です。
リリアン王国に鉄道を通し、貴国の経済を発展させる。
それは単なる援助ではなく、日本にとっても重要な『投資』なのです」
沢村は政治家としての顔で続けた。
「貴国が豊かになれば、日本製品を買ってくれるお客様が増える。
貴国のインフラが整えば、こちらの物資も、よりスムーズに届くようになる。
そして何より……信頼できる友人が隣の世界にいるということは、何物にも代えがたい安全保障になります」
「……投資ですか」
リシアはファイルを胸に抱いた。
「援助」と言われるよりも、その言葉はずっと嬉しかった。
対等なパートナーとして認められた証だからだ。
「ふふ、日本の商売人は抜け目がありませんわね。
ですが、その期待……決して裏切りませんわ。
この投資、必ずや何倍にもして、両国の利益としてお返ししてみせます」
「頼もしいお言葉です」
沢村は目を細めた。
来日した当初の、世間知らずで可愛らしいお姫様は、もうそこにはいなかった。
そこにいるのは、一国の宰相と渡り合う覚悟を持った、若き指導者だった。
「それと、殿下」
九条官房長官が進み出た。
彼の手には、きれいに包装された一つの箱があった。
「これは……KAMI様より、お預かりしたものです。
『見送りに行くのは面倒くさいから、これを渡しておいて』と」
「KAMI様から?」
リシアは目を輝かせて箱を受け取った。
あの気まぐれな神が、最後に何をくれるというのか。
強力な魔法のアイテムか、あるいはまた山盛りの駄菓子か。
彼女がリボンを解き、箱を開けると――。
そこに入っていたのは、濃紺の生地で作られた制帽だった。
金色のモールがあしらわれ、中央にはリリアン王家の紋章と、日本の鉄道のシンボルマークが融合したような、オリジナルの徽章が輝いている。
『名誉駅長帽』。
そしてその横には、銀色に輝くホイッスルと、一枚のメッセージカードが添えられていた。
『最初の汽笛は、あなたが鳴らしなさい。
その帽子、ドレスにも似合うと思うわよ。
――KAMI』
「……ふふっ、あははは!」
リシアは思わず声を上げて笑ってしまった。
王族の正装であるドレスに、駅長帽。
なんてちぐはぐで、なんて「あの人らしい」贈り物だろうか。
「本当に……あの方は」
リシアは涙を拭うと、迷うことなくその帽子を被った。
ティアラの上に、少し斜めに。
「いかがかしら? 似合います?」
彼女がポーズを決めると、三人の男たちは顔を見合わせ、そして温かく微笑んだ。
「ええ。世界で一番お似合いですよ」
「アステルガルド初の鉄道総裁の誕生ですな」
それは魔法のアイテムではなかったが、どんなマジックアイテムよりも、今の彼女に勇気を与える装備だった。
***
場所を移して、駐屯地。
アステルガルドへと繋がるゲートの前には、黒塗りの車列と、大量の資材を積んだトラック、そして派遣される技術者団のバスが待機していた。
リシアは車の前で足を止め、振り返った。
そこには見送りに来た沢村、九条、麻生、そして滞在中にお世話になったSPや関係者たちが並んでいる。
その背後には、東京の摩天楼がそびえ立っている。
短い期間だった。
だが、その密度は一生分にも匹敵するだろう。
ラーメンの味、秋葉原の喧騒、美術館の静寂、天皇陛下の言葉、そしてKAMIとの語らい。
全てが彼女の血肉となっていた。
「……皆様」
リシアは凛とした声で告げた。
「本当にお世話になりました。
この国で学んだこと、見たこと、感じたこと……。
その全てが私の財産です。
私は日本が大好きになりました」
彼女は深々と頭を下げた。
それは王女としての儀礼ではなく、一人の少女としての感謝の礼だった。
「勉強になりました。
……いいえ、まだ学び足りませんわ。
まだまだ知りたいことが、山ほどあります」
彼女は顔を上げ、ニッコリと笑った。
「鉄道が開通し、国が落ち着いたら。
また必ず参ります。
今度は『視察』ではなく、『友人』として遊びに来させていただきますわ」
「ええ、お待ちしております」
沢村が頷いた。
「その時は、貴国自慢の鉄道の話を、ぜひ聞かせてください。
日本の新幹線にも負けない、素晴らしい鉄道になっていることを期待しています」
「はい! 約束します!」
リシアはドレスの裾を翻し、車へと乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、彼女はもう一度だけ振り返り、駅長帽のつばに手を当てて敬礼した。
そして車列は動き出し、光の渦巻くゲートの中へと吸い込まれていった。
彼女の背中は、来日した時の華奢で不安げな少女のものではなかった。
一つの国を背負い、新しい時代を切り拓く「女王」の風格を纏っていた。
***
リシア一行が去った後の静寂。
ゲートの光が収束し、ただの空間に戻るのを見届けてから、麻生大臣がふぅと息を吐き、ポケットから葉巻を取り出した。
「……ふん。いい顔をするようになった」
彼は噛み砕いたチョコの甘さを味わいながら、独りごちた。
「来た時は、ただの可愛いお飾りかと思ったがな。
最後には、我々と対等に渡り合う目をしておった。
あれなら、あの古狸のセリオン王とも十分に渡り合えるでしょうな。
いや、あの頑固なエルフどもや、ガルニアの軍人たちさえも、彼女なら手玉に取るかもしれん」
「ええ」
九条官房長官も眼鏡の位置を直しながら同意した。
彼の手元には既に、リリアン王国向けの次なる支援計画書――農業改革や教育制度の輸出プラン――が準備されている。
「アステルガルドも変わるでしょう。
鉄道が走り、物流が変われば、人の意識も変わる。
封建的な社会が崩れ、新しい経済が生まれる。
……我々が明治維新で経験したような激動が、向こうの世界でも始まります」
九条は空を見上げた。
「我々も負けてはいられませんね。
うかうかしていると、数年後には『鉄道技術なら、リリアン王国の方が上だ』なんて言われる日が来るかもしれません」
「ハハハ! それは困る!」
沢村総理が笑った。
その笑顔は、久しぶりに晴れやかなものだった。
「だが、競争相手がいるというのは良いことだ。
地球だけでなく、異世界とも切磋琢磨して未来を作る。
……悪くない時代になったものだ」
沢村は背筋を伸ばした。
感傷に浸る時間は終わりだ。
彼のポケットの中の端末は、既に次のトラブル――B級ダンジョンの攻略進捗や、インドからの追加支援要請、そして国内の野党からの突き上げ――を告げる通知で震え続けている。
「さて、戻ろうか。
仕事が山積みだ」
「はい、総理」
三人の男たちは足早に車へと向かった。
彼らは再び、終わりのない調整と決断の日々へと戻っていく。
だが、その足取りは来る時よりも、少しだけ軽く、力強かった。
彼らは知っている。
ゲートの向こう側で、一人の少女が自分たちと同じように、国のために走っていることを。
その事実が、彼ら自身の背中を押していた。
東京の空には、飛行機雲が一本、真っ直ぐに伸びていた。
それはまるで、世界と世界を繋ぐ見えないレールのようにも見えた。
物語は続く。
鉄路の響きと共に、二つの世界は加速していく。




