第171話
日本での歴史的な視察を終え、異世界アステルガルドへと帰還した直後のことである。
リリアン王国の王都ライゼン、シルヴァリオン宮殿の最も格式高い「円卓の間」には、重苦しい沈黙と、そしてそれ以上に熱っぽい欲望の残り香が充満していた。
円卓を囲むのは、この大陸の運命を握る四つの巨大勢力の長たち。
議長席には、リリアン王国の老王セリオン四世。
その左右には、北の軍事大国『ガルニア帝国』の鉄血宰相ゼギウス将軍。
西の経済を支配する『商業都市連合』の議長カルロ・ベネディクト。
そして南の広大な沃野を統べる『獣人部族会議』の族長ガルーラが座している。
彼らの表情は一様に呆然としていた。
無理もない。つい数時間前まで、彼らは「異世界」という名の未来都市にいたのだ。
空を突くガラスの塔。
音もなく滑る鋼鉄の馬車。
夜を昼に変える魔法の灯り。
そして――。
「……あの『ラーメン』という料理の味。未だ舌に残っておるわ」
ガルーラが夢見るような瞳で呟いた。
「あのスープの黄金の輝き。とろけるような肉。……あれが彼らの世界の『庶民の味』だというのか。
我が部族の宴で出す最高のご馳走さえ、あれに比べれば泥水のようなものだ」
「味だけではない」
ゼギウス将軍が武骨な拳をテーブルに置いた。
「あの『通信機』。そして『映像箱』。
情報の伝達速度が違いすぎる。
彼らは世界の裏側の出来事を、瞬きする間に知ることができるのだ。
あの技術があれば、軍の指揮系統は神の如き速さとなる。……勝てん。
正面から戦って勝てる相手ではない」
「資源もだ」
カルロ議長が商人の目で虚空を睨む。
「鉄、紙、ガラス、布……。
彼らの製品は質において我々の最高級品を凌駕し、価格においてゴミのように安い。
もし彼らが本気でこの世界に商品を流し込めば、我々の産業は三日で崩壊するぞ。
……だが逆に考えれば、彼らと手を組めば莫大な富が転がり込んでくるということだ」
彼らは理解していた。
もはや「天上の人」との関わりなしに、この世界の覇権を語ることはできないのだと。
そしてその「天上の人」との唯一の窓口を握っているのが、目の前に座る好々爺然とした老王セリオンであることを。
セリオン王は、彼らの動揺と渇望を、静かな笑みを浮かべて見守っていた。
(……かかったな)
彼は内心で独りごちた。
エルドラに案内させた日本観光は、完璧な「デモンストレーション(威圧)」として機能した。
彼らは今、地球の圧倒的な国力に心折られ、そしてその恩恵にすがりつきたいという衝動に駆られている。
機は熟した。
「――さて、皆様」
セリオン王が静かに口を開いた。
その声は穏やかだが、部屋の空気を一瞬で支配する王者の響きを持っていた。
「夢のような時間は終わった。
これよりは現実の話をせねばなるまい。
我らが大陸アステルガルドの未来についての話をな」
三人の視線が王に集中する。
「九条殿……日本国政府の代表は申された。
『リリアン王国を窓口として、大陸全土と友好的な関係を築きたい』と。
これは我々に対する最大限の譲歩であり、そして慈悲でもある」
王はテーブルの上に一枚の羊皮紙を広げた。
そこには事前に王国の文官たちが練り上げた、新たな国際条約の草案が記されていた。
「単刀直入に言おう。
わしはここに、新たな同盟の結成を提案する。
我がリリアン王国、ガルニア帝国、商業都市連合、そして獣人部族会議。
この四大勢力が手を取り合い、天上の人々との窓口を一元管理する組織。
名付けて――『天上の人交流同盟』じゃ」
「同盟……だと?」
ゼギウスが眉をひそめた。
「それはつまり、貴国が盟主となり、我々を従えるということか?
我ら帝国が小国リリアンの下風に立つなど、プライドが許さんぞ」
「下風ではない。パートナーじゃよ」
セリオン王はさらりと受け流した。
「だが窓口が一本化されている以上、物流の拠点が我が国になるのは必然。
そこは認めていただかねば話は進まん。
嫌ならご自分で日本と交渉してみるか?
『KAMI様』の怒りを買うリスクを冒してまで」
「ぐっ……」
ゼギウスが言葉に詰まる。
彼らも知っている。KAMIという絶対者が、リリアン王国以外の勝手な干渉を禁じていることを。
「まあ待て、ゼギウス」
カルロが割って入った。
彼は商人だ。実利の匂いには敏感だった。
「形式上の盟主がどこであれ、重要なのは『中身』だ。
セリオン王よ。その同盟に入れば、我々にはどのようなメリットがあるのですかな?
単に貴国が高い関税をかけて我々に商品を売りつけるだけならば、同盟など結ぶ意味はない」
「うむ。そこじゃ」
セリオン王は我が意を得たりと頷いた。
彼はエルドラと財務卿ギデオンに目配せをした。
ギデオンがうやうやしく、一枚の価格表を配る。
「これをご覧いただきたい。
これは日本から輸入される予定の主要物資――インスタント食品、医薬品、鉄製品、そして魔石製品のリストじゃ」
三人がリストを覗き込む。
そこには二種類の価格が記されていた。
『同盟国特別価格』
『通常取引価格』
その差は歴然としていた。
例えば『即席麺』一食分。
同盟国価格:銅貨 5枚。
通常価格:銀貨 1枚(銅貨100枚相当)。
実に20倍の価格差である。
「な、なんだこの差は!?」
ガルーラが目を丸くした。
「銅貨5枚だと!? そんな安値で、あの神の料理が手に入るというのか!?
我々の国では堅焼きパン一つ買うのにも、銅貨10枚はするぞ!」
「その通りじゃ」
セリオン王は悪魔的な微笑みを浮かべた。
「日本国は、大量生産という魔法によって驚くべき低コストで物資を供給してくれる。
我が国は同盟に参加する『兄弟国』に対しては、利益を度外視した、ほぼ原価に近い手数料のみで、これらの物資を融通することを約束しよう。
これが『同盟国特別価格』じゃ」
「……では、この『通常価格』というのは?」
カルロが震える声で尋ねた。
「ああ、それはな」
王は窓の外、遥か彼方の空を仰いだ。
「この大陸には我々以外にも多くの小国や部族が存在する。
あるいは将来、この同盟に加わりたいと願う国が現れるかもしれん。
そういった『部外者』に対して販売する際の価格じゃよ」
その一言で、三人の代表の脳裏に電撃が走った。
彼らはセリオン王が描いた、あまりにも巨大で、そしてあまりにも狡猾な絵図の全貌を理解したのだ。
これは単なる互助組織ではない。
大陸全土を経済的に支配するための巨大なカルテル(独占連合)なのだ。
「……つまり」
ゼギウス将軍が呻くように言った。
「我々四カ国が『創設メンバー(ファウンダー)』となり、地球の物資を独占的に、かつ極めて安価に入手する。
そして、それ以外の国々には、我々が決定した高値で売りつける……。
その差額は全て、我々の利益となるわけか」
「ご名答」
セリオン王は頷いた。
「我々が安く仕入れ、高く売る。商売の基本じゃな。
もちろん周辺諸国も、あのラーメンの味を知れば高くても買わざるを得まい。
安価で高性能な鉄の農具、夜を照らす魔法の灯り、病を治す薬。
それらを握っているのは、我々『同盟』だけなのだから」
王は彼らの顔を一人一人見つめた。
「どうじゃ?
この『甘い汁』を、我々四カ国だけで分け合おうではないか。
それとも……」
王の声が氷点下まで下がった。
「同盟への参加を拒否し、そちら側も『通常価格』、あるいはそれ以上の関税を払って客として買いに来るかね?
我が国としては、それでも構わんが」
それは究極の脅しだった。
「仲間になれば天国。敵(あるいは他人)になれば地獄」。
もしここで同盟を拒否すれば、自国だけが取り残される。
隣国が激安の食料と鉄で富み栄える中、自国だけが飢えと貧困に喘ぐことになる。
そんな未来を許容できる指導者は、ここにはいなかった。
「……くくっ、はははは!」
突然、カルロ議長が笑い出した。
「恐れ入りました、セリオン陛下。
あなたは賢王と呼ばれていましたが、これほどの古狸(古強者)だとは。
商人である私でも、これほどあくどい……いや、素晴らしい商談は思いつきませんよ」
彼は真っ先に手を差し出した。
「乗りましょう。
商業都市連合は喜んで『天上の人交流同盟』に参加いたします。
この巨大な利権、指をくわえて見ているわけにはいきませんからな」
「……ふん」
ゼギウス将軍も腕を組んだまま、重々しく頷いた。
「帝国としても兵站の充実は最重要課題だ。
安価な食料と鉄が手に入るなら、形式上の盟主の座などくれてやる。
実利を取らせてもらおう」
「我ら獣人族も同じだ!」
ガルーラがテーブルを叩いた。
「民を飢えさせないことが族長の務め。
あのラーメンを村の子供たちに腹いっぱい食わせてやりたい。
そのためなら悪魔とでも手を組むさ!」
合意は成った。
セリオン王の描いたシナリオ通り、大陸の四大勢力が一つの巨大な経済ブロックとして統合された瞬間だった。
「よろしい。賢明な判断に感謝する」
セリオン王は満足げに立ち上がった。
「では直ちに調印式を行おう。
そして日本政府に伝えようではないか。
『アステルガルドは一つにまとまった。これより本格的な大交易時代を始めよう』と」
***
その夜、シルヴァリオン宮殿では同盟結成を祝う盛大な宴が開かれた。
テーブルには日本から持ち帰った「お土産」と、王国ご自慢の料理が所狭しと並べられている。
かつての敵同士が日本のビールで乾杯し、肩を組んで笑い合っている。
その光景は一見すれば平和そのものだった。
だが宴の喧騒から離れたバルコニーで、セリオン王とエルドラは夜風に当たりながら静かに語り合っていた。
「……見事な手腕でしたな、陛下」
エルドラが感嘆の声を漏らした。
「『仲間価格』と『他人価格』。
その二つを使い分けるだけで、これほど容易くあの頑固者たちを籠絡するとは。
魔法よりも鮮やかな手並みでございました」
「ふん、何のことはない」
セリオン王はグラスのワインを揺らした。
「人間の欲望など、どこへ行っても変わらんということさ。
得をしたい、損をしたくない。
自分だけが特別な輪に入りたい。
その心理を突いただけじゃよ」
王は眼下に広がる王都の灯りを見つめた。
その光の中には今や、多くの地球製品が溢れている。
「それにの、エルドラよ。
この『価格差』は、単に彼らを釣り上げるための餌ではない。
これからのアステルガルドの『秩序』を作るための、最強の武器となるのじゃ」
「秩序、ですか?」
「うむ。考えてもみよ。
この同盟に入れば豊かさが約束される。
入らなければ貧困が待っている。
となれば周辺の小国はどうする?
こぞって『仲間に入れてくれ』と頭を下げてくるじゃろう」
王の目が鋭い光を帯びた。
「我々はその時、審査をする。
『同盟の規約』を守れる国かどうかをな。
無益な争いをしないこと。
人権を守ること。
そしてKAMI様の意に沿うこと。
それを条件に加盟を認める。
そうすれば武力を使わずとも、経済の力だけで、この大陸から戦争をなくすことができるかもしれん」
エルドラは息を呑んだ。
王が見据えていたのは、単なる自国の利益ではなかった。
「安いラーメン」を武器にして、大陸全土に平和な秩序を敷くという、壮大なグランドデザインだったのだ。
「……恐れ入りました」
エルドラは深く頭を下げた。
「陛下こそ真の賢王。
天上の人の知恵を借り、それをこちらの流儀で使いこなす。
あなた様ならば、この激動の時代を必ずや良き方向へと導いてくださるでしょう」
「よせよせ、買いかぶりじゃ」
王は照れくさそうに笑った。
「わしはただ、美味しいものを皆で食べて笑って暮らしたいだけの、欲張りな老人じゃよ。
……それに一番の功労者は、あの気まぐれな女神様(KAMI)じゃろうて」
王は夜空を見上げた。
二つの月が輝くアステルガルドの空。
その向こう側にいるはずの日本の神に向かって、心の中で杯を掲げた。
「感謝するぞ、KAMIよ。
お主のくれた『不平等』という名のプレゼント、最大限に活用させてもらう。
この世界が少しでもマシな場所になるようにな」
宴は続く。
だがそれは単なる終わりのない宴ではない。
リリアン王国を中心とした巨大で強固な経済圏の誕生を告げる、産声の宴だった。
『天上の人交流同盟』。
その名はやがて、アステルガルドの歴史において最も偉大で、そして最も強大な組織として長く語り継がれることになるだろう。
大陸の勢力図は今夜、書き換えられた。
剣ではなく、商談と、そして「お仲間価格」という名の最強の魔法によって。
***
バルコニーで夜風に吹かれながら、セリオン王は手にしたワイングラスを静かに回した。
眼下に広がる王都の灯りは、かつてないほどの輝きを放ち、宴の広間からは同盟の成功を祝う歓声が絶え間なく聞こえてくる。
我が国の未来は明るい。
誰もがそう信じている夜だった。
だが、その光が強ければ強いほど、王の心に落ちる影もまた濃くなるようだった。
「……エルドラよ」
王は隣に立つ盟友にだけ聞こえるような低い声で呟いた。
「懸念と言えば、やはりアレじゃ」
「アレでございますか?」
エルドラが怪訝そうに小首をかしげる。
「うむ。後継者がおらぬからのう……」
セリオン王の表情に為政者としての仮面が剥がれ落ち、一人の老人の苦悩が浮かび上がった。
彼は優秀な王だったが、直系の世継ぎには恵まれなかった。
あるいは何らかの事情で、それを失っていた。
現在の繁栄は、彼という一個人のカリスマと、老獪な政治手腕によって辛うじて支えられている砂上の楼閣でもある。
「この老骨が、いつまで持つか分からん。
そしてこの激動の時代じゃ。
ダンジョン、天上の人、そして周辺諸国との危うい均衡……。
並の王では、この舵取りは到底不可能じゃろう」
王は夜空に浮かぶ二つの月を見上げた。
その瞳の奥には、ある一つの決断への迷いがあった。
「……そろそろ、王位を『女王』に戻す時が来たのかも知れん」
その言葉に、エルドラが息を呑んだ気配がした。
女王。
それは現在の王家における「正統なる血筋」を持つ、ある人物を指していた。
セリオンが中継ぎとして王座を守り続けてきた、その本来の主。
だが王はすぐに首を横に振った。
「しかし……王家はまだ力が足りないのでは?」
彼は自問した。
「彼女にこの重荷を背負わせるには、まだ早すぎるのではないか?
同盟は成ったが、それはまだ紙切れ一枚の約束に過ぎん。
地球との関係も、KAMI様の気まぐれ一つでどうなるか分からぬ。
そのような不安定な盤面を、若き女王に渡して良いものか……」
もし失敗すれば、リリアン王国は空中分解する。
あるいは強大化した周辺国に飲み込まれるか、地球の経済植民地となるか。
その責任の全てが、彼女にのしかかることになる。
「育てるべきか、守るべきか。
あるいは、わしが死ぬまでこの椅子にしがみつき、道筋を完全に固めてから渡すべきか」
王はグラスの中の液体を飲み干した。
苦い味がした。
「……判断に迷うのう……」
その呟きは夜風にさらわれ、誰の耳にも届くことなく消えていった。
賢王と呼ばれた男の、最後にして最大の宿題。
華やかな宴の裏で王国の未来を憂う老人の孤独なシルエットだけが、月明かりの下に長く伸びていた。




