第170話
その日、異世界アステルガルドと地球を結ぶ「門」の向こう側、ベースキャンプ・フロンティアの駐機所には、かつてないほどの緊張と異質な空気が張り詰めていた。
日本政府が用意した黒塗りの高級リムジンと、厳重な警備を敷くD-POL、および自衛隊の混成部隊。
彼らが待つ中、ゲートの揺らぎを超えて、歴史的な一行が姿を現した。
先頭に立つのは、案内役を務めるリリアン王国の最高顧問、大魔導師エルドラ。今日の彼女は、地球での活動に適したハイエルフの美しい姿をとっている。
そして彼女に続くのは、アステルガルド大陸の覇権を争う三つの大勢力からの代表団だった。
北の軍事大国『ガルニア帝国』からは、鉄血宰相と恐れられる巨漢ゼギウス将軍。全身を威圧的な軍服に包み、その鋭い眼光は油断なく周囲を観察している。
西の『商業都市連合』からは、連合議長であり大陸一の豪商カルロ・ベネディクト。仕立ての良い服に宝石を散りばめ、計算高い瞳で地球の「価値」を値踏みしようとしている。
そして南の『獣人部族会議』からは、獅子族の族長であり誇り高き戦士ガルーラ。野性味あふれる軽装に身を包み、その獣の耳と鼻は未知の世界の匂いを敏感に感じ取っていた。
彼らは、かつて敵対し、あるいは互いに牽制し合っていた間柄だ。
だが今日、彼らは共通の目的のために、リリアン王国の仲介という屈辱的な、しかし甘美な招待を受け入れた。
すなわち「天上の人」の国、ニホンへの視察である。
「……ここが異界か」
ゼギウス将軍が、コンクリートで舗装された地面をブーツで踏みしめ、低く唸った。
「空気中のマナが……薄い。これでは大規模魔法の行使は困難だな。だが妙な圧迫感がある」
「ふん、殺風景な場所だ」
商人のカルロが鼻を鳴らす。
「だが見ろ。あそこに並んでいる『鉄の馬車』。あれが噂の……」
出迎えたのは、日本の官房長官、九条だった。
彼は完璧な礼儀作法で一礼し、彼らを招き入れた。
「ようこそ日本へ。皆様をお迎えできて光栄です。
本日は我が国の文化と技術、そして『味』を心ゆくまで堪能していただきたい」
一行はリムジンに乗り込み、東京へと向かうハイウェイへと滑り出した。
そして最初の衝撃が、彼らを襲った。
「な、なんだこの速度はッ!?」
車内、革張りのシートに座っていたガルーラが、窓の外を流れる景色を見て毛を逆立てた。
「速い! 早馬どころではない! 最速のワイバーン(飛竜)が急降下する時と同じくらいの速度が出ておるぞ!?」
「しかも揺れぬ……!」
ゼギウス将軍が驚愕の表情で、座席の肘掛けを握りしめる。
「これほどの速度で走れば、普通の馬車なら車輪が砕け散り、乗員は舌を噛むはずだ。
だというのに、まるで空を飛んでいるかのように滑らかだ。
魔法を使っていないだと? 動力は何だ? 魔石か?
いや、内燃機関という科学の心臓か……!」
「それに、この道を見たまえ」
カルロが窓の外の舗装道路を指さした。
「継ぎ目一つない黒い石の道が、地平線の彼方まで続いている。
これほどの街道を整備するのに、一体どれほどの労力と金がかかっているのか……。
この国の『インフラ』とやらは、我が連合の街道整備技術を数百年先んじているぞ」
エルドラは驚く彼らの様子を見て、優雅に微笑んだ。
「ふふふ。驚くのはまだ早いですぞ、皆様。
これは彼らの世界では『日常』の足に過ぎませぬ。
さあ、見えて参りました。あれが東の都、トウキョウです」
ハイウェイがカーブを抜け、視界が開けた瞬間。
車内は完全な沈黙に包まれた。
そこに広がっていたのは、空を突き刺すようなガラスと鋼鉄の摩天楼群。
太陽の光を反射して輝くその威容は、彼らの知るいかなる王城よりも高く、巨大で、そして美しかった。
「……神々の住処か」
ガルーラが呆然と呟いた。
「あれほどの巨塔を、石積みもなしに……。人間が作ったというのか?」
「ガラスだ……」
カルロが震える声で言った。
「城壁一面が高純度のガラスで覆われている……。
我が国では宝石と同等の価値があるガラスを、建材として湯水のように使っているのか……!
この都市一つで、我が連合の全財産を合わせても買えまい……!」
彼らの常識は、車窓の向こうで音を立てて崩れ去っていった。
魔法なき世界。
だがそこには、魔法を遥かに凌駕する「科学」という名の奇跡が、圧倒的な質量を持って存在していたのだ。
***
昼食の時間。
九条が彼らを案内したのは、高級料亭ではなく、都内某所にある行列のできるラーメン店だった。
もちろん一般客を締め切った貸切営業である。
「……なんだこの匂いは」
店内に漂う濃厚で複雑な香りに、獣人であるガルーラの鼻がひくひくと動いた。
「獣の脂、魚の干物、香草、そして焦げた穀物の香り……。
嗅いだことのない、だが猛烈に食欲をそそる匂いだ」
出されたのは、特製醤油豚骨ラーメン「全部乗せ」。
黄金色に輝くスープに、極太の麺、トロトロに煮込まれたチャーシュー、半熟の味玉、そして山盛りのネギと海苔。
「……これが彼らの昼食か」
ゼギウス将軍は、箸(彼らのためにフォークも用意されていたが、あえて箸に挑戦した)で麺を持ち上げた。
「庶民の料理と聞いたが、見た目は美しい。
では頂こう」
ズルズルッ。
九条が見本を見せると、彼らも恐る恐る麺を啜った。
その瞬間。
三人の代表団の目が、カッ! と見開かれた。
「――ッ!!??」
「な、なんだこれはァッ!!」
ガルーラが吠えた。
「口の中で旨味が爆発したぞ!?
このスープ……何種類の獣と魚を煮込めば、これほどのコクが出るのだ!?
濃厚なのに、しつこくない。身体の芯まで染み渡るような力強い味だ!」
「麺だ! この麺が素晴らしい!」
カルロが夢中で麺を啜る。
「小麦の香りが強い。そして、この絶妙な弾力!
スープと絡み合い、噛むたびに旨味が溢れ出してくる!
我が国のパスタなど、これに比べればただの小麦粉の塊だ!」
「……チャーシュー」
ゼギウス将軍は、口の中でほどける豚肉に感動していた。
「噛む必要すらない。舌の上で溶けたぞ。
どれほどの時間をかけて煮込んだのだ? 魔法の火でも、これほどの柔らかさは出せまい。
それに、この味玉……黄身が宝石のように輝いている。
美味い……! 武人として恥ずかしながら、言葉を失うほどに美味い!」
彼らは一心不乱に丼と向き合った。
外交交渉も国家の威信も忘れて、ただ目の前の「究極の庶民料理」に食らいついた。
スープの最後の一滴まで飲み干した時、彼らの額には汗が滲み、その顔には恍惚とした満足感が浮かんでいた。
「……恐るべし、ニホン」
ゼギウスが空の丼を置いて呟いた。
「王侯貴族ではなく、街の庶民が日常的にこれほどのものを食しているとは。
この国の『国力』の底知れなさ、胃袋で理解したわ」
***
午後の視察。
彼らが連れて行かれたのは、秋葉原の巨大な家電量販店だった。
壁一面に並べられた最新鋭の4K有機ELテレビの群れ。
そこに映し出されていたのは、鮮やかな自然の風景や激しいアクション映画、そしてニュース映像だった。
「!? ひ、人が! 箱の中に人が閉じ込められているぞ!」
ガルーラがテレビの中のニュースキャスターを見て、戦闘態勢に入った。
「なんと残酷な……! これが科学の刑罰か!?」
「違います、ガルーラ殿」
エルドラが苦笑しながらたしなめた。
「あれは『テレビ』。遠く離れた場所の風景を、光と音に変えて映し出す『遠見の魔道具』のようなものです。
中に人はおりません。ただの光の絵です」
「遠見の……鏡だと?」
カルロが画面に顔を近づけて凝視した。
「だが、あまりにも鮮明だ。まるで窓の向こうに実物があるようだ。
しかも動いている。音も聞こえる。
……これが各家庭にあるというのか?」
九条が説明する。
「はい。我々の世界では、この箱を通じて世界の裏側で起きた出来事をリアルタイムで知ることができます。
情報、娯楽、教育。あらゆる知識が、この箱から得られるのです」
「情報の……支配か」
ゼギウス将軍が軍事的な意味を悟って戦慄した。
「我が国では早馬を使っても、王都の布告が辺境に届くまで数日かかる。
だがこの国では、王(総理)の言葉が瞬時に国民全員に届くのか。
……勝てるわけがない。情報の伝達速度において、我々は赤子同然だ」
彼らは家電製品の一つ一つに驚嘆した。
氷を作り続ける箱(冷蔵庫)。
服を勝手に洗う桶(洗濯機)。
そして手のひらサイズの万能の魔導書。
「魔法だ……」
カルロが力なく呟いた。
「我々が魔法と呼んでいるものより、よほど魔法らしい。
この世界には召使いも奴隷もいらないわけだ。
機械という忠実な下僕が、全てをやってくれるのだから」
彼らは圧倒的な文明の格差を、骨の髄まで思い知らされていた。
リリアン王国が、なぜあそこまで急速に力をつけたのか。
その理由が、痛いほどによく分かった。
この「巨人」の肩に、彼らは乗ったのだ。
***
そして夜。
迎賓館『赤坂離宮』。
日本の粋を集めた最高級の晩餐会が催された。
昼のラーメンとは対照的に、今夜のメニューは日本が世界に誇るフレンチの巨匠によるフルコースだ。
シャンデリアが輝く大広間。
正装に着替えた代表団たちが、緊張した面持ちで席に着く。
テーブルには銀の食器とクリスタルのグラス。
そして芸術品のような料理が、次々と運ばれてくる。
『オマール海老のジュレとキャビア カリフラワーのクレーム』
『フォアグラのポワレ トリュフのソース』
『特選和牛フィレ肉のロティ 赤ワインソース』
「……美しい」
カルロが皿の上の小宇宙に見惚れた。
「食べるのが惜しいほどだ。
これが料理なのか?」
一口食べた瞬間、彼らの表情が変わった。
昼のラーメンが「暴力的な旨味の衝撃」だったとすれば、今夜のフレンチは「繊細かつ重層的な味のハーモニー」だった。
「……なんと」
ゼギウス将軍が静かにナイフを置いた。
「複雑だ。様々な素材の味が口の中で混ざり合い、変化し、そして一つにまとまる。
これは味覚の音楽だ。
王宮の料理人たちに食わせれば、彼らは絶望して包丁を置くかもしれん」
「美味い……。昼のラーメンも捨てがたいが、これもまた別格の良さがある」
ガルーラがワインを傾けながら唸った。
「王宮料理としてはこちらが上だな。洗練の極みだ。
だが民衆が毎日食べる料理としては、昼のラーメンの方が腹に溜まって良いかもしれん」
その言葉を聞いて、九条がグラスを置いた。
ここからが本番だ。
観光気分を終わらせ、冷徹な外交交渉の時間。
「……皆様。お食事、お気に召していただけたようで何よりです」
九条が静かに切り出した。
「本日の視察で、我が国の、そして地球という世界の力の一端をご理解いただけたかと存じます」
三人の代表は無言で頷いた。
否定しようがなかった。
彼らの国力、技術力、文化力。全てにおいてアステルガルドは敗北している。
「さて」
九条の目が外交官のそれに変わった。
「皆様がここへ来られた目的は、我が国およびアメリカなどの『天上の人』との直接的な国交、そして技術供与を求めてのことと理解しております」
「その通りだ」
ゼギウスが身を乗り出した。
「我が帝国も、リリアン王国のように強くなりたい。
貴殿らの技術、そして物資を、我々にも直接売っていただきたい」
「我が商業連合もです」
とカルロが続く。
「中間マージンなしで、直接取引したいのです」
だが九条は静かに、しかし断固として首を横に振った。
「残念ながら、それはできかねます」
「なっ……なぜだ!?」
「我が国の基本方針として、アステルガルドとの窓口は、あくまで『リリアン王国』に一本化させていただいております」
九条は隣に座るエルドラを示した。
「KAMI様も、その秩序を望んでおられます。
無秩序な直接取引は、貴方の世界に混乱をもたらすだけです。
我が国としては、リリアン王国を通して貴国と友好的に接したいと考えております」
「あくまでリリアン王国を通してですか……」
カルロが悔しげに唇を噛む。
それはつまり、リリアン王国の覇権を認め、その下風に立つことを意味する。
「ですが」
九条はアメを提示した。
「直接の取引はできませんが、リリアン王国経由での『食料援助』および『物資提供』については、我々も最大限の協力を約束します。
そしてその価格についても、貴国が納得できる安価な設定にできるよう、我々からリリアン王国に働きかけましょう」
九条は手元のリストを読み上げた。
「例えば皆様が昼に召し上がった『ラーメン』。
あれを誰でも簡単に、お湯を注ぐだけで食べられる『インスタント麺』として、大量かつ安価に提供することが可能です。
これを支援物資のリストに追加しましょう」
「インスタント……麺?」
ガルーラが耳を疑った。
「あのご馳走が、お湯だけで出来るのか!? しかも安く!?」
「はい。さらに『レトルト食品』と呼ばれる、温めるだけで食べられるカレーやシチューなどもございます。
これらは保存も効き、軍隊の糧食としても、飢饉の際の備蓄としても極めて優秀です」
ゼギウス将軍の目の色が変わった。
保存食。軍隊にとってそれは武器弾薬と同じくらい重要な戦略物資だ。
それがあの美味さで、しかも安く手に入るなら。
リリアン王国を経由するという屈辱を飲み込んででも、手に入れる価値はある。
「……なるほど」
エルドラが助け舟を出すように口を開いた。
「我が国としても独占して利益を貪るつもりはございません。
我々の望みは、大陸の安定と平和です。
日本からの支援物資は適正な価格で、皆様の国へ流通させることをお約束しましょう。
関税も最低限に抑えます。
友好的に他国と接したいのです。その方向でご検討いただけませぬか?」
それはリリアン王国による「事実上の大陸経済圏の支配宣言」だった。
だがその支配は武力ではなく、「豊かさの分配」によって行われる。
拒否すれば自国だけが飢え、衰退する。
受け入れればプライドは傷つくが、国は富む。
三人の代表は顔を見合わせた。
そして長い沈黙の後、ゼギウスが重々しく頷いた。
「……分かった。
我が帝国は、リリアン王国を『窓口』とすることを認めよう。
その代わり、食料と、そしてあの『魔石バッテリー』の供給を保証していただきたい」
「商業連合も同意します」
「部族会議もだ。民を飢えさせないことが族長の務めだからな」
合意は形成された。
九条は安堵の息を、心の中でついた。
これでアステルガルドでの無用な戦争は回避され、日本の経済的影響力は大陸全土に及ぶことになる。
「ありがとうございます。賢明なご判断に感謝します」
九条は礼を述べた後、最後に一つの、しかし現代日本にとって極めて重要な条件を付け加えた。
「ただし一つだけ、お願いがございます。
今回提供するプラスチック製品、ビニール袋、包装容器などの『ゴミ』についてです」
彼は真剣な眼差しで言った。
「我々の世界の素材は自然には戻りません。腐らず、土に還らず、環境を汚染し続けます。
ですので使用済みの容器や包装は、決してそちらの世界に捨てないでください。
全て分別し、回収ルートに乗せて、我が国へ返却していただきたいのです」
「ゴミを……返すのか?」
カルロが不思議そうに聞いた。
「なぜ、わざわざ?」
「KAMI様との契約でもあります」
九条は神の名を出した。
「『美しい異世界をプラスチックで汚すな』と。
回収されたゴミは、KAMI様の力、あるいは我々の技術でリサイクル、または処分されます。
これを守っていただけない場合、輸出を停止せざるを得ません」
「……神の命令とあらば、従うほかあるまい」
ガルーラが頷いた。
「分かった。ゴミは返す。約束しよう」
こうして歴史的な食事会兼日本観光は幕を閉じた。
彼らは多くの衝撃と、美味い飯の記憶と、そして「日本とリリアン王国には逆らえない」という冷徹な現実を土産に、アステルガルドへと帰還していった。
ゲートの向こうに消える彼らの背中を見送りながら、九条とエルドラは並んで立った。
「……上手くいきましたな、エルドラ殿」
「ええ。これでしばらくは大陸も平和になりましょう」
エルドラは夜空を見上げた。
「科学と魔法。二つの世界の知恵が、正しく使われることを祈ります」
「同感です。……さて、次は国内の調整ですね」
九条は苦笑した。
「インスタントラーメンの輸出量増大に伴う小麦の確保と、工場ラインの増設。
また忙しくなりそうです」
二つの世界の歯車は、ガッチリと噛み合った。
その回転はもう、誰にも止められない。
ラーメンと魔法が交差する、新しい時代の交易が本格的に始まろうとしていた。




