第166話
ワシントンD.C.の朝は、政治家たちの駆け引きよりも早く、そしてウォール街の鐘よりも正確に始まる。
ポトマック川を見下ろす摩天楼の一角。
かつて大手投資銀行の本社ビルだったその威容は、今、アメリカ最大の民間探索者組織『キャピタル・ギルド』の心臓部――通称“ザ・ハイブ(巣)”として生まれ変わっていた。
エレベーターが音もなく上昇し、45階で止まる。
扉が開いた瞬間、そこに広がるのは、もはやオフィスの概念を逸脱した光景だ。
45階から50階までのフロア天井を全てぶち抜き、吹き抜けにした巨大な空間。
壁一面を埋め尽くすのは、幅100メートルにも及ぶ巨大な曲面スクリーンと、空中に浮かぶ無数のホログラム・ウィンドウ。
そこには、全米各地の気象情報ならぬ「魔素流動予報」が、まるでハリケーンの進路図のようにリアルタイムで表示されていた。
「――モーニング、ジェシカ。今日の“天気”はどうだい?」
オペレーション・フロアのデスクについたベテラン・オペレーターのジェシカは、湯気の立つマグカップ――スターバックスのベンティ・サイズ、ブラック、エスプレッソショット追加――を片手に、ヘッドセットのマイクを調整した。
「最悪よ、ボブ。ネバダ州上空に高濃度のマナ溜まり。テキサス方面は魔素の流れが乱れてる。今日はモンスターの機嫌が悪そうね」
彼女の指先が、空中のキーボードを叩くことなく、視線入力とジェスチャーだけで複雑な演算処理をこなしていく。
メインスクリーンには、アメリカ全土に点在する数百のダンジョンゲートのステータスが表示されている。
緑は安定。黄色は注意。赤は危険。
そして、虹色に明滅するアイコンは――「高純度ドロップ予測地域」だ。
「確率変動アルゴリズム、再計算終了。
コロラド州デンバー第4ダンジョン、レアモンスター出現率、12.5%上昇。
フロリダ州マイアミ第2ダンジョン、宝箱生成率の偏り(バイアス)検知。
……ふうん、今日は西海岸より東海岸の方がツイてるみたいね」
ここで行われているのは、単なる部隊指揮ではない。
ビッグデータ解析と魔導工学を融合させた、究極の「確率狩り」だ。
どこのダンジョンに潜れば、どの確率で何が出るか。
神の気まぐれとされるドロップ率を、彼らは数字という暴力で丸裸にしようとしていた。
フロアには数百人のオペレーターが詰めている。
彼ら一人一人に、ダンジョン内部で活動する探索者ユニット(小隊)が紐付けられている。
「目」となるオペレーターと、「手足」となるエクスプローラー。
二身一体のシステムこそが、キャピタル・ギルドが最強たる所以だった。
「――注目ッ!!」
フロア全体を揺るがすようなバリトンボイスが響き渡った。
ざわめきが一瞬で消える。
吹き抜けの上層、ガラス張りの司令バルコニーに一人の男が立っていた。
キャピタル・ギルド作戦本部長、スティーブン・“ホーク”・ミラー。
元海兵隊の伝説的な指揮官であり、今は数千の荒くれ者たちを束ねるビジネスマンだ。
イタリア製のオーダーメイドスーツに身を包んでいるが、その眼光は戦場のそれと変わらない。
「諸君、おはよう。コーヒーの味はどうだ?
昨日のレポートを見たが……お粗末な数字だ」
彼は手元のタブレットをタップし、メインスクリーンに大きく数字を映し出した。
『週間ユニークアイテム獲得数:平均 3.0 個 / 日』
「『3』だ。たったの3つだ!
我々が擁する探索者は全米で5,000人。24時間体制でシフトを回し、最新の解析AIを導入して、このザマだ。
世界中の富豪が、投資家が、そして軍が、我々のユニークアイテムを喉から手が出るほど欲しがっているというのに!」
彼はバルコニーの手すりを強く握りしめた。
「日本の『月読ギルド』はどうだ?
あそこのマスターは一人で深層を歩き回り、昨日はたった一人でユニークを引いたそうだぞ?
中国の『青龍』は? 人海戦術で数を稼いでいる。
我々は効率だ! スマートさだ! データだ!
なぜ数字が伸びない!」
フロアの空気が張り詰める。
ユニークアイテム。
それは一個で数千万ドル(数十億円)の値がつく、現代の秘宝。
それを一日にいくつ確保できるかが、このギルドの株価を、そして彼らのボーナスを決定づける。
「本日の目標を修正する。
最低でも『4』だ。4つのユニークを持ってこい。
稼働率を上げろ。休憩時間は最小限に。
ドロップ効率を極限まで高めろ。
0.1%の確率の偏りも見逃すな!」
そして彼は最後に、取ってつけたように、しかし真剣な眼差しで付け加えた。
「――ただし。
無理は禁物だ。
死んだ探索者は金を生まない。装備のロストも経費の無駄だ。
生きて帰せ。その上で獲物を狩り尽くせ。
……以上だ。各自、持ち場にかかれ!」
「イエッサー!!」
数百人のオペレーターが一斉に叫び、それぞれのコンソールに向き直る。
巨大なスクリーンに映るマナの地図が、一斉に動き出した。
彼女の担当は『ユニット・ブラボー7』。
リーダーのマイク率いる、D級ダンジョン攻略専門のベテランチームだ。
「――おはよう、ブラボー7。回線良好。
私の声、届いてる?」
イヤホンからノイズ混じりの、しかし頼もしい男の声が返ってきた。
『よう、ジェシカ。今日もセクシーな声だね。
こっちは全員ビンビンだぜ。ゲート前でスタンバイOKだ』
リーダーのマイクだ。
背景には装備のチェックをする金属音や、仲間の笑い声が聞こえる。
ジェシカは口元を緩め、しかし手元のキーボードを叩きながら軽口を返した。
「元気そうね、リーダー。
そっちはどう? 朝ごはんは食べた?」
『ああ、万全さ。
昨日はラスベガスのカジノで一山当ててな。最高級のTボーンステーキを食らってきたところだ。
精がつきすぎて、オークの群れごと捻り潰せそうだよ』
「あら、羨ましいわね。
こっちは不味い社食のベーグルと、酸っぱいコーヒーよ」
『ハハハ! 帰ったら奢ってやるよ。
……で? 今日のボスの機嫌はどうなんだ?
さっきの放送、こっちまで聞こえてたぜ』
「ああ、聞いてた?
『ユニークが毎日3つしか取れてない』って、お説教よ。
もっと働け、もっと稼げってさ」
マイクの豪快な笑い声が聞こえた。
『ハハハ! 3つ取れてるなら充分だろ!
確率考えろってんだ。0.001%の世界だぞ?
上(スーツ組)はこれだから困る。欲深いぜ、まったく』
「そうね。でも、それが私たちの給料になるんだから仕方ないわ。
……で、みんな体調はどう? 万全?」
『ああ。タンクのジョーも、メイジのサラも、スカウトのボブも、全員コンディションはグリーンだ。
装備よし。ポーションよし。
……いつでもいけるぜ、女神様』
ジェシカはメインモニターに、彼らのボディカメラの映像をウィンドウで展開した。
四分割された画面。
それぞれの視点には、ワシントンD.C.のD級ダンジョン『彷徨える湿地帯』の入り口が映っている。
薄暗い霧。腐敗した木の根。
そして遠くから聞こえるモンスターの唸り声。
「了解。
現在そのエリアのマナ濃度は上昇傾向。ドロップ率補正、プラス3.5%。
悪くないわ。
……じゃあ、そろそろダンジョンに行くわよ!
ルート設定、転送!」
『ラジャー! ブラボー7、突入!』
映像が揺れる。
彼らが駆け出したのだ。
ジェシカの仕事が始まる。
彼女は複数のモニターを睨みつけながら、彼らの「第三の目」となる。
「前方30メートル、右側の茂みに熱源反応!
ポイズン・トード(毒ガエル)が2体潜んでるわ!
左のルートへ迂回して、背後を取れる!」
『コピー! 左へ回る!』
画面の中でマイクたちが素早く展開する。
銃声。魔法の炸裂音。
映像越しでも伝わる戦闘の熱気。
だがジェシカの心拍数は変わらない。これは日常だ。
「ナイスキル。
ドロップ確認……魔石(D級)2個、素材少々。
現在の売上換算、約2,000ドル。
……しょっぱいわね。次、行くわよ!」
『へいへい、人使いが荒いねぇ!』
彼らは進む。
泥にまみれ、剣を振るい、魔法を放つ。
リザードマンの群れを『火炎の手榴弾』で焼き払い、
不意打ちしてくるアサシン・ヴァイン(絞殺植物)をマチェットで切り伏せる。
ジェシカは常に最適なルートを指示し、背後の安全を確保し、そして利益を計算し続ける。
「現在、深度第4階層。
経過時間、3時間20分。
現在の売上総額……9万5000ドル(約1000万円)。
あと少しでノルマ達成よ」
『了解。……ふぅ、さすがにキツイな。
D級の湿気は骨に染みるぜ』
マイクの荒い息遣いが聞こえる。
ボディカメラのレンズには返り血(光に変わる前のエフェクト)と泥が付着している。
「休憩する?」
『いや、まだだ。
この奥に……“匂う”んだよ。
俺の勘がな、ビンビン来てるんだ』
マイクの視線の先。
湿地帯の奥深くに、一際古びた苔むした石造りの祠が見えた。
マップデータには存在しない隠しエリア。
「……マナ反応、急上昇。
このパターン……レア・エネミー確定よ!
『カースド・シャーマン(呪術師)』クラスの反応!」
『ビンゴだ!
野郎ども、稼ぎ時だ! 総員、戦闘準備!
バフをかけろ! 一番高い弾(属性弾)を使え!』
激しい戦闘が始まった。
呪いを撒き散らす強力なモンスターに対し、ブラボー7は訓練された連携で挑む。
タンクが攻撃を受け止め、スカウトが弱点を突き、メイジが火力を叩き込む。
そしてマイクが愛用のユニーク・ショットガン『サンダー・ストーム』を、ゼロ距離で撃ち放つ。
ズドンッ!!!
雷光が炸裂し、シャーマンが絶叫と共に光の粒子となって崩れ落ちた。
カラン……。
静寂が戻った祠の中に、一つのアイテムが落ちる音が響いた。
それは魔石ではなかった。
ありふれた装備品でもなかった。
地面に転がっていたのは、黄金色の光を放つ古めかしい「腕輪」だった。
『…………』
マイクが震える手でそれを拾い上げる。
ジェシカのモニターに解析結果が表示される。
【鑑定中……】
【レアリティ:ユニーク(橙)】
【アイテム名:巨人の抱擁(Titan's Embrace)】
『――ホーリーシット!』
マイクの絶叫がイヤホンを突き破った。
『ジェシカ! 見たか!?
幸運の女神が微笑んだようだぜ?
ユニークだ! 正真正銘のユニークアイテムだ!』
ジェシカも思わず立ち上がり、ガッツポーズをした。
「やったわね!
今日は、うちのチームがユニークゲットね!
今月で何個目だっけ……5個目かしら?」
『ああ! ツキまくってる!
効果は……「筋力+20%」に、「物理ダメージ15%カット」のパッシブ付きか!
タンク垂涎の逸品じゃねえか!』
「とにかく高く売れることを祈るわ。
推定市場価格……安く見積もっても、3000万ドル(約50億円)クラスよ!
これで今月のノルマは達成、ボーナスも確定ね!」
『ハハハ! そりゃそうだ!
今夜はまたステーキ……いや、寿司でも食いに行くか!』
マイクの声は弾んでいた。
だが、その声の端々に、微かな、しかし隠しきれない羨望の色が混じっているのを、ジェシカは感じ取った。
『……あーあ。
そろそろ金も溜まったし、俺も自費でユニークアイテム装備したいなぁ……。
こんなすげえ腕輪、俺が使えば、もっと深層に行けるのによ』
それは全ての「雇われ探索者」が抱く共通のジレンマだった。
命がけで手に入れた宝。
だがそれは会社の資産であり、彼らのものではない。
彼らはそれを会社に納め、給料とボーナスを貰うだけ。
その装備を使って「最強」を目指すのは彼らではなく、
それをオークションで競り落とす「Tier1チーム(トップランカー)」たちなのだ。
「……無理よ」
ジェシカは努めて明るく、しかし現実的な声で言った。
「Tier1チームが落札するでしょ。
国家予算レベルの金を持ってる『アークエンジェル』や、中国の『青龍』が黙ってないわ。
私たちみたいな中堅チームには、まだ速いわよ」
『……ちっ、分かってるよ』
マイクは苦笑した。
『俺たちは所詮、マイナーリーグの選手ってことか。
メジャーリーグ(Tier1)は、まだ遠いか……』
彼は腕輪を厳重なセキュリティケースへと慎重にしまった。
その手つきは、愛しい恋人と別れる男のように名残惜しそうだった。
「でも、ボーナスで300万ドルのユニークくらいは買えるんじゃない?」
ジェシカが慰めるように言った。
『そうだなそれくらいのユニークでも、戦力も上がるしな!』
マイクは気持ちを切り替えた。
プロフェッショナルの顔に戻る。
『よし、回収完了!
だが、まだ時間は残ってる。もう一周いけるな?
ノルマは達成したが、稼げる時に稼ぐのがキャピタル流だ』
「ええ、その意気よ。
次のルート、計算済みよ。
北東のエリアにリザードマンの集落があるわ。そこを潰して上がりましょう」
『ラジャー!
よし野郎ども、次の周回に行くぞ!
ジェシカ、ナビゲーション頼む!』
「了解。
……死なないでね、パートナー」
通信が途切れ、モニターの中の彼らが再び走り出す。
ジェシカはマグカップの冷めたコーヒーを一口すすった。
苦い。
だが、その苦さが今の彼女には心地よかった。
窓の外、ワシントンの空はまだ明るい。
このビルの下では観光客たちがF級ダンジョンでキャーキャーと遊んでいる。
だが、この45階の司令室では、そしてモニターの向こうの深淵では、
命と金を賭けた、もっとヒリヒリするような「日常」が続いている。
「メジャーリーグか……」
彼女は呟いた。
いつか自分たちのチームが、自分たちの拾ったユニークを装備して、
SSS級ダンジョンの最深部に到達する日を夢見て。
彼女の指先が再び光のキーボードを叩き始めた。
次の確率変動を、一秒でも早く見つけ出すために。




