第164話
『深霧踏破戦線』という、人類史上初の大規模ダンジョンイベントが終了してから、一ヶ月。
季節は冬へと移ろい、東京の街には寒風が吹き始めていたが、世界の「熱」は冷めるどころか、これまでにない種類の熱狂へと変質し、爆発的な広がりを見せていた。
ダンジョン配信(D-Streaming)。
かつては一部の物好きな命知らずや、裏社会の人間が記録用に撮影していたに過ぎなかったダンジョン内の映像。
それが今や、全世界の娯楽の頂点に君臨する、最強のエンターテインメント・コンテンツとなっていたのである。
きっかけは、先のイベントで頭角を現した「ガチ勢」たちだった。
彼らは、イベント中に手に入れたユニーク装備の圧倒的な性能と、死線をくぐり抜けて磨き上げられたプレイスキルを武器に、D級ダンジョンを攻略していく様を、リアルタイムで世界に配信し始めたのだ。
モンスターの断末魔、飛び散る光の粒子(と、その前の生々しい体液)。
極限状態での連携、そしてレアアイテムがドロップした瞬間の、脳髄が溶けるような歓喜。
それら全てが、編集なしのライブ映像として、リビングルームやスマートフォンの画面に届けられる。
作り物の映画やドラマでは決して味わえない、「本物の命のやり取り」と「欲望の成就」。
世界中の人々は、その中毒性の虜になっていた。
***
東京・渋谷。
巨大な街頭ビジョンには、今や国民的英雄となった“剣聖”ケンタの配信が映し出されている。
『――よし、囲まれた! だが問題ない! 見ろ、この「霧渡りの長靴」の機動力を!』
画面の中、ケンタは、D級モンスター『オーク・ジェネラル』の振り下ろす巨大な斧を紙一重で、しかも敵の身体を幽霊のようにすり抜けながら回避する。
そして背後からの、死角なき一撃。
『霧払いの手甲』の効果で倒されたジェネラルが爆発し、周囲の取り巻きを一掃する。
「うおおおおおおおッ!!」
「ケンタ最強! ケンタ最強!」
渋谷の通行人たちが足を止め、歓声を上げる。
同接数(同時接続者数)は、平日の昼間だというのに200万人を超えている。投げ銭の額は、一分間に数百万円という異常な速度で、滝のように流れていた。
だが、この熱狂は日本だけのものではない。
海の向こう、中国とロシアでも、国家の威信をかけた「スター・プレイヤー」が誕生し、世界の注目を集めていた。
***
中国・北京。
国営放送CCTVの特別チャンネルでは、一人の若き英雄の活躍が、壮大なBGMと共に放映されていた。
彼の名は、李 ウェイ(Li Wei)。
まだ19歳という若さながら、その精悍な顔つきと、完璧に統率された動きは、歴戦の兵士を思わせる。
だが彼が注目される最大の理由は、その血筋にあった。
彼は、あの中華人民共和国国家主席の、実の孫だったのだ。
『――見よ! これぞ中華の麒麟児! 李ウェイ同志の華麗なる剣技を!』
実況アナウンサーが絶叫する。
画面の中、李ウェイは真紅の長槍を振るい、D級ダンジョンのボス『ミノタウロス』を単独で圧倒していた。
彼の装備は、中国が国家予算を投じてかき集めた最高級のレアアイテム(オークションで競り落とした日本製の装備も含まれている)で固められている。
そして彼のレベルは、驚異の「20」。
「ハッ!」
鋭い気合と共に、李ウェイの槍がミノタウロスの眉間を貫く。
巨体が崩れ落ちる。
彼はカメラに向かって、涼しい顔で、しかし確かな自信を込めて言い放った。
『……日本のケンタなど敵ではない。
彼が“剣聖”ならば、私は“武神”となる。
次の国際イベントで、中華の力が世界一であることを証明してみせよう』
その挑発的な宣言に、中国全土のネットユーザーが沸き立った。
『さすが主席の孫! 格が違う!』
『日本の個人勢など、国家のエリートの前では無力アル!』
『李ウェイ万歳! 中国万歳!』
彼は「党の威信」そのものだった。
英才教育と、国家バックアップの結晶。
それが、日本の「野良の英雄」を打ち負かすという構図は、中国政府にとって最高のプロパガンダとなっていた。
***
そして北の大地、ロシア。
ここではもっと異様で、そして恐ろしい配信が行われていた。
配信タイトル:【大統領】今日の公務:D級ダンジョン素手制圧【実況】
映っているのは屈強な肉体を誇示するように、上半身裸になった、あのアイス・エンペラー。
ウラジーミル大統領、その人だった。
場所はシベリアのD級ダンジョン『凍てつく監獄』。
「……同志諸君。今日はこの『フロスト・ジャイアント』との、外交交渉を行う」
ボグダノフは、身長3メートルはある巨人の前に、武器も持たずに立ちはだかった。
手には何もない。
だがその全身からは、KAMIから「弟子」として認められ、独自に磨き上げた『因果律改変(魔法)』のオーラが、陽炎のように立ち上っている。
「ウラーーーッ!!」
ジャイアントが氷の棍棒を振り下ろす。
ボグダノフは避けない。
彼は一歩踏み込み、その棍棒を「素手」で受け止めた。
ドォォォン!
衝撃波が雪を舞い上げる。だが大統領は一歩も引かない。
「……交渉決裂だ」
彼はニヤリと笑うと、握りしめた右拳に、純粋な「破壊」の意思(魔力)を込めた。
KAMI直伝の身体強化。
そして彼独自の解釈による、「衝撃の炸裂」。
「消え失せろ」
ドゴォォォォォォォン!!!!!
拳がジャイアントの腹部にめり込んだ瞬間、怪物の背中側から衝撃波が突き抜け、背後の氷壁を粉砕した。
ジャイアントは声も出せずに崩れ落ち、光の粒子となった。
『強すぎワロタ』
『大統領また素手かよwww』
『武器を使うのは甘え』
『これがロシアの外交(物理)だ』
『支持率120%不可避』
コメント欄はロシア語だけでなく、英語や日本語でも埋め尽くされている。
一国の元首が、半裸でモンスターを殴り殺す配信。
そのあまりにもシュールで、あまりにも暴力的なカリスマ性は、世界中のネットユーザーを惹きつけて止まなかった。
***
世界は、大配信時代の真っ只中にあった。
霧のイベント(初回イベント)を生き残った猛者たちが、今やインフルエンサーとして君臨し、莫大な富と名声を手に入れている。
子供たちの「なりたい職業ランキング」は、日米中露すべてにおいて「探索者」が1位を独占していた。
その熱狂の裏側を管理する、四カ国の首脳会議。
今日の議題は、その「配信」についてだった。
「――というわけで、現状ダンジョン配信市場の経済規模は、既にハリウッド映画産業を抜きました」
議長役の九条官房長官が、淡々と報告した。
彼の四つの身体は、それぞれのモニターで、各国のトップ配信者の動向を監視し続けている。
「広告収入、投げ銭、グッズ販売、そして企業案件。
トップ層の年収は数十億円規模。
この巨大な『注目』の力は、もはや無視できない政治的リソースとなっております」
「ふふふ……」
中国の王将軍が、不気味な笑みを漏らした。
「言ったでしょう? 『配信者が出る』と。
あの時、我が国の代表団の一員、チェンが予想した通りになりましたな。
さすが我が国のアナリスト。先見の明がある」
そのあまりにも露骨な「ドヤ顔」。
「こんなことも予想出来るのです」と言わんばかりの態度。
(……いや、誰でも予想できただろうそれは)
沢村総理、トンプソン大統領、ヴォルコフ将軍、そして九条。
全員の心が、冷めたツッコミで一致した。
カメラ付きのスマホがあり、派手な戦闘があり、金が稼げる。配信者が現れないはずがない。
だが誰も口には出さない。大人の対応だ。
「……そうですね。中国の分析力には感服いたします」
沢村が、棒読みで称賛した。
「ですが将軍、その『予想通り』の展開が、今、新たな、そして厄介な問題を引き起こしております」
沢村は表情を曇らせ、一枚の資料を提示した。
それは、日本国内の教育団体やPTA、そしてBPO(放送倫理・番組向上機構)から政府に寄せられた、山のような抗議文の束だった。
「『グロテスク』の問題です」
沢村が、重い口調で言った。
「ダンジョンの映像は、あまりにも鮮明すぎます。
モンスターとはいえ、首が飛び、内臓がこぼれ(光になる直前の一瞬だが)、悲鳴を上げて死んでいく。
その映像が、何の制限もなく子供たちのスマートフォンに垂れ流されている。
『教育上極めて有害である』『暴力への忌避感を麻痺させる』『PTSDの原因になる』……。
連日、抗議の電話が官邸に鳴り止みません」
日本だけではない。
アメリカのトンプソン大統領も、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「我が国も同様だ。
キリスト教保守派の団体が、『悪魔的儀式の生中継だ』と騒ぎ立てている。
さらに、『動物愛護団体』までが便乗して、『モンスター虐待を見世物にするな』とデモを行っている始末だ。
……モンスターに人権などないというのに」
「ロシアでも一部の親たちが懸念を示している」
ヴォルコフ将軍が肩をすくめた。
「まあ、我が国では『強い子供を育てる教材』として推奨する声も多いがな。
だが、国際的な配信プラットフォームを使う以上、世界的な批判は無視できん」
問題の核心は、ダンジョンの「映像権」にあった。
KAMIが定めたルールにより、ダンジョン内で撮影された映像の権利は、探索者個人と、その映像を管理・配信するプラットフォーム(実質的に政府が関与する公式ギルドのサーバー)が「折半」することになっている。
つまり政府は、配信の「胴元」なのだ。
だからこそ、批判の矛先は探索者個人ではなく、管理責任者である政府へと向かう。
「『政府が子供たちに殺戮ショーを見せている』……。
野党やマスコミにとっては、格好の攻撃材料です」
九条が冷静に分析する。
「このまま放置すれば、ダンジョン事業全体への逆風になりかねません。
何らかの規制、あるいは『配慮』が必要です」
「配慮か……」
麻生大臣(オブザーバー参加)が、嫌そうな顔をした。
「モザイクでも掛けるか?
アダルトビデオじゃあるまいし、モンスターの断面にモザイクなど興ざめもいいところだがな」
「ですが、それしかありません」
沢村が言った。
「自動認識AIを使って、過激なゴア表現(流血・切断)をリアルタイムで遮蔽する。
あるいは年齢制限を設ける。
技術的には可能でしょうが……」
彼らが懸念しているのは、技術的な問題ではない。
「あの御方」の反応だ。
ダンジョンという、最高の「ショー」を提供している主催者が、その映像に無粋な修正を入れることを許すかどうか。
「……呼びましょう」
九条が決断した。
「KAMI様のご判断を仰ぐしかありません。
これはダンジョンの『見せ方』に関わる重要な仕様変更ですから」
***
数分後。
バーチャル会議室の円卓に、いつものようにKAMIがポップアップした。
今日の彼女は、プロゲーマーのようなヘッドセットを装着し、手にはエナジードリンク『ZONe』を持っている。
「なになに? 配信の話?」
KAMIは開口一番、楽しそうに言った。
「盛り上がってるわねぇ、ダンジョン配信。
私、ケンタ君のチャンネル登録してるわよ。昨日のワイバーン戦の立ち回り、なかなか良かったわ」
神がチャンネル登録者。
その事実に目眩を覚えつつ、沢村が恐る恐る本題を切り出した。
「ええ、KAMI様。盛り上がっているのは喜ばしいのですが……。
その映像の『過激さ』について、人間社会の方から少々苦情が出ておりまして……」
沢村は、教育団体や宗教団体からの抗議内容を、オブラートに包みつつ、しかし切実に伝えた。
子供への悪影響。倫理的な問題。グロテスクな表現への嫌悪感。
「……というわけでして。
つきましては、配信映像に何らかの『修正』を掛ける機能を実装できないかと、ご相談申し上げた次第でして……」
沢村の提案に、KAMIはストローをくわえたまま、つまらなそうに目を細めた。
「えー? モザイク?」
彼女は、心底嫌そうな顔をした。
「やよ、そんなの。ダサいじゃない」
一蹴された。
「せっかくの高画質、高フレームレートで命の煌めきを配信してるのに。
そこにモザイクなんて入れたら、迫力が台無しよ。
クリティカルヒットで首が飛ぶ瞬間の、あのカタルシスが良いんじゃない。
それを隠すなんて、芸術への冒涜だわ」
神の美学(あるいは性癖)は、人間の倫理観とは相容れない場所にいた。
「で、でもですねKAMI様!」
トンプソン大統領が食い下がる。
「我々人間には『耐性』というものがありまして!
特に子供たちは、まだ刺激に弱いのです!
あまりにリアルな殺戮映像を見続けると、精神に異常をきたす恐れが……」
「知らんがな」
KAMIは冷たく言い放った。
「見たくないなら、見なきゃいいじゃない。
強制的に見せてるわけじゃあるまいし。
チャンネルを変える権利は、あなたたちにあるのよ?」
「それはそうですが……」
九条が困り顔で言う。
「ネット社会では、意図せず目に入ってしまうこともありますし、子供が親の目を盗んで見ることも……」
「過保護ねぇ」
KAMIは溜息をついた。
「昔の人間は、公開処刑とかコロッセオとか、家族で楽しんで見てたじゃない。
なんで現代人って、そんなにひ弱になっちゃったのかしら」
彼女はエナジードリンクを飲み干し、空き缶を握りつぶした。
クシャリという音が、会議室に響く。
「……まあいいわ」
KAMIは、少しだけ譲歩の姿勢を見せた。
「あなたたちがそこまで言うなら、対策してあげなくもないわよ。
政府への抗議がうるさくて、ダンジョン運営に支障が出るのも面倒だしね」
「おお! ありがとうございます!」
沢村が顔を輝かせる。
「では、モザイク処理を……?」
「いや、モザイクは却下」
KAMIは、頑として譲らなかった。
「私の作ったモンスターのデザインが見えなくなるのは、許せないわ。
その代わり……そうね」
彼女は指先で空中にウィンドウを描いた。
そこには、ウェブサイトのアクセス時によく見る、あのポップアップ画面が表示されていた。
『WARNING: このコンテンツには暴力・流血・グロテスクな表現が含まれています』
『あなたは18歳以上ですか?』
【 YES 】 【 NO 】
「これよ」
KAMIは得意げに言った。
「『年齢確認』。
配信を見る前にこの画面を出して、同意させる。
18歳未満は【NO】を押して退出。18歳以上なら【YES】を押して視聴開始。
これなら、見たくない人は見なくて済むし、子供も見れない(建前上)。
完璧な解決策でしょ?」
その、あまりにも原始的で、そしてインターネット黎明期から存在する「ザル」なシステム。
四カ国の首脳たちは、一斉に脱力した。
「……KAMI様」
麻生大臣が、呆れたように言った。
「あのですね……。こんなボタン一つで、子供たちが『はいそうですか』と引き下がるとお思いですか?
エロサイトの入り口と同じですよ。
『はい、私は18歳以上です』と嘘をついてクリックするだけです。
実効性など、皆無に等しい!」
「あはは! 知ってるー!」
KAMIはケラケラと笑った。
「みんな【YES】押すに決まってるじゃない!
だって見たいんだもの! 禁止されればされるほど見たくなるのが、人間の心理でしょ?」
彼女は悪魔的な笑みを浮かべて続けた。
「でもね、麻生さん。
これは『儀式』なのよ。
『警告はしましたよ』『同意したのはあなたですよ』という、責任の所在を明らかにするための儀式。
ボタンを押した時点で、それは『自己責任』になる。
見た結果トラウマになろうが、夜泣きしようが、それは嘘をついてボタンを押したその子の責任、あるいは管理しきれなかった親の責任。
政府や私の責任じゃないわ」
責任転嫁のためのシステム。
それこそが、KAMIの提示した「解決策」の本質だった。
「……なるほど」
九条が深く頷いた。
「実効性よりも、『法的な免罪符』としての機能ですか。
確かに政府としては、『厳格な警告システムを導入した』と主張できますし、批判をかわす盾にはなります」
「でしょ?」
KAMIはウインクした。
「それに、AIで自動的に『グロ度』を判定して、あまりに酷い映像(内臓ドバドバとか)の時だけ、画面全体を赤く染めるとか、警告音を出すとか、そういう演出面での配慮はしてあげるわ。
『恐怖演出』として、逆に盛り上がるかもしれないしね」
彼女はあくまで、ダンジョン配信を「エンターテインメント」として捉えていた。
「というわけで決定ね。
全世界のダンジョン配信プラットフォームに、この『年齢確認ボタン』と『グロ注意アラート』を強制実装するわ。
これ以上、文句は言わせないわよ?」
「……承知いたしました」
沢村が、力なく返事をした。
根本的な解決にはなっていない。子供たちはこれからも血飛沫を見るだろう。
だが政治的には、これで「手を打った」ことになる。
それが、大人の世界の汚い解決法だった。
「じゃ、私は帰るわ」
KAMIは楽しそうに手を振って、姿を消した。
残された四人の男たち。
モニターには、KAMIが残していった【あなたは18歳以上ですか?】のボタンが、虚しく点滅している。
「……ふん。茶番だな」
ヴォルコフ将軍が吐き捨てた。
「だがこれで、うるさい親たちを黙らせる口実はできた」
「そうですね……」
王将軍も同意した。
「我が国では、このボタンを押すと同時に、公安にログが残るように設定しておきましょう。
誰が何を見たか、全て把握できるように」
(中国らしい恐ろしい追加機能だ)
「アメリカは……まあ、訴訟対策にはなるか」
トンプソンが肩をすくめた。
「『警告を無視した』という事実は、裁判で有利に働く」
結局、誰も子供たちのことなど本気で心配してはいなかった。
彼らが守りたかったのは、自分たちの立場と、ダンジョンという金のなる木だけだったのだ。
***
その夜。
全世界のダンジョン配信サイトに、一斉にアップデートが入った。
画面を開くと、黒い背景に厳めしい警告文と、二つのボタンが現れる。
【 WARNING:R-18G 】
【 この配信には過激な暴力表現が含まれています。あなたは18歳以上ですか? 】
日本のとある子供部屋。
小学生のツヨシ君は、その画面を見て一瞬だけ躊躇した。
だが次の瞬間。
彼は迷うことなく、マウスのカーソルを動かした。
カチッ。
【 YES 】
画面が切り替わり、鮮血と爆発、そしてモンスターの咆哮が、彼の瞳に映り込む。
「うわっ、すげえ! 首飛んだ!」
彼の顔は、興奮で紅潮していた。
同じ瞬間、世界中で何億回となく、そのクリックが繰り返された。
嘘と欲望のクリック。
その小さな音の集合体が、今の時代のBGMだった。
官邸の地下で九条は、そのアクセスログを見ながら静かにコーヒーを啜った。
「……クリック率99.8%。
【NO】を押した者は、誤差の範囲ですね」
「まあ、そんなものだろう」
沢村が苦笑した。
「パンドラの箱は、一度開けたら二度と閉まらない。
人々は見てしまったのだ。本当の世界の姿を。
今更、綺麗な蓋をしたところで、誰も納得はしないさ」
モニターの中では、今日も探索者たちが血を流し、命を奪い、そして富を得ている。
その残酷で、しかし生き生きとした映像は、平和ボケした現代人の本能を、確実に呼び覚ましつつあった。
グロテスク? 残酷?
いや、これこそが「生」だ。
世界中の人々が【YES】のボタンを押すたびに、そう肯定しているようだった。
ダンジョン配信の狂乱は、年齢制限という薄っぺらい盾を突き破り、さらに加速していく。
そしてその先には、単なる映像視聴を超えた、より直接的な「参加」への衝動が待ち受けていることを、彼らはまだ知らなかった。




