番外編 断章12話
カンザス州西部。
かつては大平原が広がり、小麦の黄金色が地平線まで続いていたその場所は、今や乾ききった赤土と、枯れた植物の茎が風に揺れるだけの荒野となっていた。
州間高速道路70号線の脇、半壊したガソリンスタンドの地下備蓄庫。
そこがデイビッドとその家族――妻のサラ、そして8歳になる息子のレオ――の、この5年間の「世界」だった。
「……パパ、お腹すいた」
暗闇の中で、レオの弱々しい声が響く。
デイビッドは、懐中電灯の切れかけた明かりを頼りに、リュックサックの底を探った。
指先に触れたのは、カビの生えかけた乾パンの欠片と、底にわずかに水が残るペットボトルだけだ。
「……もう少しだ、レオ。あと少しで朝になる。そうしたらまた探しに行こう」
嘘だった。
この周辺の廃墟はもう何十回も漁り尽くした。ネズミ一匹、ゴキブリ一匹残っていない。
昨日は隣町のスーパーマーケット跡地まで足を伸ばしたが、そこは既にミュータントの巣窟と化していた。
命からがら逃げ帰るのが精一杯だった。
限界だった。食料も、水も、そして生きる気力も。
ジジッ……ザザッ……。
部屋の隅に置かれた古い短波ラジオが、突然ノイズを吐き出した。
デイビッドは反射的にスイッチを切ろうとした。
電池の無駄だ。
どうせ聞こえてくるのは、5年前から繰り返される自動放送の避難勧告か、あるいはただのホワイトノイズだけだ。
『――繰り返す。こちらはアメリカ合衆国政府……』
手が止まる。
声が違う。機械的な合成音声ではない。しわがれた、だが力強い生きた人間の声だ。
『……我々は、ワシントンD.C.、フィラデルフィア、ピッツバーグを含む東海岸エリアを「絶対安全圏」として確保した。
ここには食料がある。水がある。安全な住居がある。
市民諸君。諦めるな。東へ来い。政府は君たちを見捨ててはいない』
「……デイビッド?」
サラが身を起こした。痩せこけた頬に、微かな赤みが差している。
「今の……聞いた?」
「ああ……。だが、罠かもしれん」
デイビッドは慎重だった。
この5年間、「安全な場所がある」という噂に釣られて出て行った生存者たちが、野盗の餌食になったり、ミュータントの群れに飛び込んでしまったりするのを、嫌というほど見てきた。
「政府なんて、とっくに全滅したはずだ」
『……我々は新たな同盟者「KAMI」の力を得て、ミュータントを駆逐した。
信じられないかもしれないが事実だ。
魔導列車が走り、光が灯る街がここにはある。
待っている。全ての国民を、我々は待っている』
ラジオの声は、切々と訴えかけてきた。
そこには、嘘つき特有の甘言ではなく、地獄を見てきた者だけが持つ、重く、そして真摯な響きがあった。
「……行こう、あなた」
サラがデイビッドの手を握りしめた。
その手は骨と皮ばかりになっていたが、力強かった。
「ここにいても、座って死ぬだけよ。レオを見て。あの子に、もう一度だけ青い空を見せてあげたい」
デイビッドは息子の寝顔を見た。
飢えで腹が膨らみ、手足は枯れ木のように細い。
このままでは冬を越せない。
いや、来週までもたないだろう。
「……そうだな」
デイビッドは、最後の決断を下した。
「賭けよう。東へ行く。もしそれが嘘だったとしても……夢を見て死ぬなら、この暗闇で腐るよりはマシだ」
旅は想像を絶する過酷さだった。
車は燃料切れで動かない。徒歩での移動だ。
灼熱の太陽が肌を焼き、夜になれば氷点下の寒さが襲う。
そして何より、常に付きまとう「捕食者」の気配。
「……隠れろ!」
デイビッドが叫び、家族を瓦礫の陰に引きずり込む。
数メートル先を、腐乱した野犬の群れが鼻を鳴らしながら通り過ぎていく。
彼らは息を殺し、震えながらその場をやり過ごした。
そんな日々が一週間、二週間と続いた。
持っていた水は尽き、彼らは泥水をすすり、虫を食べて命を繋いだ。
ミズーリ州を越え、イリノイ州に入った頃には、もう歩くことさえ困難になっていた。
「……パパ、もう歩けないよ……」
レオが道端に座り込む。
「ごめんな、レオ。もう少しだ、もう少しで……」
デイビッドは息子を励ますが、自分自身、もう一歩も足が出ないことを悟っていた。
ここまでか。
東の楽園など、やはり幻だったのか。
その時だった。
遠くから重低音の振動が伝わってきた。
地響き? 地震か? それとも巨大なミュータントの足音か?
「……違う」
デイビッドは顔を上げた。
「エンジン音だ。それも一つじゃない」
地平線の向こうから砂煙を上げて現れたのは、巨大な車列だった。
装甲板で補強されたトラック、重機関銃を搭載したバス、そして武装したバギー。
数十台に及ぶその隊列は、まるで『マッドマックス』の世界から抜け出してきたようだが、決定的に違う点があった。
車両が綺麗なのだ。
泥汚れこそあるが錆びついていない。
エンジンは快調な音を立て、荷台にはうず高く積まれたコンテナが見える。
「……おい! あそこに人がいるぞ!」
先頭の車両が急停車した。
武装した男たちが降りてくる。
デイビッドは最後の力を振り絞り、家族の前に立ちはだかった。
「……来るな! 俺たちには何もない! 肉だって食えるほどついてないぞ!」
男たちの一人――日に焼けた巨漢の男が、デイビッドを見てニカッと笑った。
「おいおい、落ち着けよ兄弟。俺たちゃ野盗じゃねえ。
フィラデルフィア所属、西部方面交易キャラバン隊だ」
「フィラデルフィア……?」
「ああ。ラジオを聞いて出てきたクチか?
運が良かったな。俺たちはちょうど帰還ルートに乗ったところだ。
拾ってってやるよ。乗んな」
男はデイビッドに水筒を放り投げた。
デイビッドはそれを受け取り、震える手で一口飲んだ。
腐った泥水ではない。
甘く冷たく、清潔な水の味。
「……ああ……!」
「ほら、子供にはこれをやんな」
別の男がレオに包み紙を渡した。
中にはチョコレートバーが入っていた。
レオはそれをむさぼるように食べた。
口の周りをチョコだらけにして、この世で一番幸せそうな顔をして。
「……ありがとう。ありがとう……」
サラが泣き崩れる。
「礼は『KAMI様』に言いな。
さあ出発だ! 東へ戻るぞ!」
キャラバンのトラックの荷台は、デイビッドたちにとって天国だった。
揺れる車体の上だが屋根があり、毛布があり、そして定期的に食料が配られる。
彼ら以外にも、道中で保護された十数人の生存者が同乗していた。
「あんたたちも放送を聞いたのかい?」
隣に座った老婦人が話しかけてきた。
「ああ。半信半疑だったが……。このキャラバンを見る限り、嘘じゃなさそうだ」
「そうさね。この人たち、凄く強いんだよ。昨日の夜もゾンビの群れを、あっという間に追い払っちまった」
キャラバンの護衛たちは、一見すると粗野な傭兵崩れに見えた。
だが彼らの持っている武器は、どこか奇妙だった。
古びたライフルやショットガンなのだが、その銃身には赤い紋様が刻まれ、微かに発光しているのだ。
「……おい、あれを見ろ」
数日後、インディアナ州の廃墟地帯を通過中、監視役が叫んだ。
前方の瓦礫の山が、突然爆発したかのように吹き飛んだ。
土煙の中から現れたのは、トラックほどもある巨大な猪のような怪物。
変異体『レイザーバック』だ。
その背中からは鋭い棘が生え、皮膚は戦車の装甲のように分厚い。
「出やがったな、ミュータント!」
キャラバンのリーダー、ハンクが無線で叫ぶ。
「総員戦闘配置! KAMI様印の『魔法銃』の出番だ!
ビビるなよ! 今の俺たちの武器なら、あんな豚野郎はただのベーコンだ!」
「グモオオオオッ!!」
レイザーバックが突進してくる。
その蹄がアスファルトを砕き、猛烈な速度で車列に迫る。
通常ならパニックに陥って逃げ惑う場面だ。
だが護衛たちは、ニヤニヤと笑いながら愛銃を構えただけだった。
「ようし、狙え……撃てッ!」
ドパンッ! ズドンッ! バシュッ!
一斉射撃。
だがその音も光も、普通ではなかった。
銃口から放たれたのは、鉛の弾丸ではない。
燃え盛る火の玉、空気を切り裂く風の刃、そして紫電を纏った雷撃。
「――エンチャント・ファイア!」
「――ピアシング・ショット!」
魔法の弾丸が、レイザーバックの巨体に吸い込まれる。
かつてはロケットランチャーでも傷つかなかった硬い皮膚が、まるで紙のように貫かれ、肉が弾け飛ぶ。
着弾した傷口からは炎が吹き出し、あるいは氷漬けになり、怪物の再生能力を阻害する。
「ブヒイイイイイッ!?」
怪物が悲鳴を上げる。
「効いてるぞ! 徹甲弾(AP)装填! トドメだ!」
ハンクが巨大なリボルバー(KAMIによって魔改造された対物マグナムだ)を構えた。
銃身が赤熱し、魔力が充填される音が響く。
「あばよ!」
ドォォォォォン!!!
放たれた一条の紅蓮の光線が、レイザーバックの眉間を貫いた。
怪物の頭部が内側から爆発し、巨体がズズンと倒れ込む。
砂煙が晴れると、そこには動かなくなった肉塊だけが残されていた。
「……す、すげえ……」
荷台からその光景を見ていたデイビッドは、言葉を失った。
「なんだあの武器は……。魔法か? 映画の中の話じゃないのか?」
「へへっ、驚いたかい?」
近くにいた護衛の若者が、自分のライフルを愛おしげに撫でながら言った。
「こいつはKAMI様が力を授けてくれた『聖遺物』さ。
俺たちのマナを吸って弾丸に変える。弾切れの心配もねえし、威力は戦車砲並みだ。
これがありゃあ俺たちはもう、逃げ回るだけの獲物じゃねえ。狩る側なんだよ」
「KAMI様……」
デイビッドはその名を反芻した。
ラジオで聞いた謎の存在。
この圧倒的な力、そしてこの豊かな物資。
本当に神がいるのかもしれない。
旅は続いた。
オハイオを抜け、ペンシルベニア州に入ると、景色が変わり始めた。
線路だ。
荒れ果てた大地の上に、真新しい銀色に輝く線路が一直線に伸びている。
そして時折、その線路の上を黒い疾風のような物体が駆け抜けていく。
「あれは……列車か!?」
「魔導列車『ノアズ・ライン』だ」
ハンクが誇らしげに言った。
「フィラデルフィアと各地を結ぶ大動脈さ。あいつが物資を運び、人を運ぶ。
もうすぐだぞ。俺たちのホームは近い」
そして、出発から三週間後。
ついにその瞬間が訪れた。
夕暮れ時。
丘を越えた車列の目の前に、信じがたい光景が広がっていた。
巨大な白亜の城壁。
高さ20メートルはあろうかという壁が地平線の彼方まで続き、その内側からは温かい光が溢れ出していた。
城壁の上にはサーチライトが旋回し、武装した兵士たちが見張りをしている。
だがその光は威圧的ではなく、迷い人を導く灯台のように優しかった。
「着いたぞ……! フィラデルフィアだ!」
「『ノアズ・シティ』だ!」
荷台の生存者たちが歓声を上げる。
デイビッドはサラとレオの手を握りしめた。
「……着いた。本当にあったんだ」
涙で視界が滲む。
正門の前には長蛇の列ができていた。
だが混乱はない。
入国審査官たちが手際よく人々を誘導し、簡易的な検査を行っている。
「ようこそノアズ・シティへ」
受付の女性が、デイビッドたちに微笑みかけた。
彼女の肌は艶やかで、制服は清潔だった。
「辛い旅でしたね。もう大丈夫ですよ。
まずはシャワーをどうぞ。そして、食事を用意してあります」
「シャワー……」
サラが、夢を見ているような声で呟いた。
案内されたのは、巨大な公衆浴場『極楽湯』だった。
湯船から立ち上る湯気。石鹸の香り。
デイビッドはレオと一緒に湯に浸かった。
熱いお湯が、体中の垢と、そして数年分の疲れを溶かしていくようだった。
「……パパ、あったかいね」
「ああ……。あったかいな、レオ」
男たちは皆、子供のように泣いていた。
背中を流し合い、生き延びたことを称え合った。
風呂上がりの彼らを待っていたのは、広場に設営された巨大な食堂だった。
長テーブルには、信じられないほどのご馳走が並んでいる。
ローストチキン、ビーフシチュー、焼きたてのパン、サラダ、パスタ。
湯気を立てるそれらの料理は、KAMIの能力によって無限に供給され続けているという。
「さあ、遠慮しないで食ってくれ! おかわりは自由だ!」
給仕の男たちが、皿に料理を盛っていく。
デイビッドたち家族はテーブルの隅に座り、目の前の食事に手を合わせた。
「……いただきます」
シチューを一口すする。
濃厚なデミグラスソースの味。
柔らかく煮込まれた牛肉。
パンをちぎり口に運ぶ。
外はカリッと、中はふんわりとした食感。小麦の甘い香り。
「……うッ、ううっ……」
サラがフォークを握りしめたまま嗚咽を漏らした。
「美味しい……。美味しいよ……」
「ああ、美味いな……。本当に美味い……」
デイビッドも涙で味が分からなくなりそうになりながら、必死で咀嚼した。
これはただの食事ではない。
彼らが人間としての尊厳を取り戻すための、儀式だった。
周囲を見渡せば、同じような家族が何十組もいた。
泥だらけの服を着たまま、高級レストランのような料理を食べている。
誰もが泣き、そして笑っていた。
その時。
「よう、坊主」
一人の兵士がレオのところに歩み寄ってきた。
手には冷気を放つカップを持っている。
「食後のデザートだ。食えるか?」
差し出されたのは、バニラアイスクリームだった。
白く冷たく、甘い匂いのするあのアイスクリーム。
「……アイス?」
レオは目を丸くした。
「食べていいの?」
「ああ。KAMI様からのプレゼントだ。
アイスなんて久々だろ? 美味いぞ!」
レオはスプーンでひとすくいし、口に入れた。
ひんやりとした冷たさが舌の上で溶け、濃厚なミルクとバニラの香りが広がる。
彼の目がキラキラと輝いた。
かつての世界で、公園で食べたあの味。
平和だった頃の、幸せな記憶の味。
「……おいしい!」
レオの顔に、満面の笑みが咲いた。
この数年間一度も見せたことのない、子供らしい屈託のない笑顔。
それを見たデイビッドとサラは、抱き合って号泣した。
救われたのだ。
この地獄のような世界で、彼らはついに安息の地を見つけたのだ。
「……見てみろよ、あいつらの顔」
食堂のバルコニーからその光景を見下ろしていたミラーが、静かに言った。
「これを見るために、俺たちは戦ってきたんだな」
「そうね」
隣に立つKAMIが、自分もアイスを舐めながら答えた。
「悪くない気分だわ。
対価はきっちり貰うけど、その分の仕事はしてあげないとね」
彼女は、広場を埋め尽くす人々の笑顔を見渡した。
「人間って単純ね。
ご飯とお風呂と、ちょっとの甘いもので、こんなに幸せになれるんだもの」
「それが人間さ」
ミラーは笑った。
「ありがとう、KAMI。あんたは最高のボスだ」
「ふん、お世辞はいいわよ」
KAMIはそっぽを向いたが、その耳は少し赤くなっていた。
「さあ、明日はもっと忙しくなるわよ!
西海岸からの難民も増えてるし、新しく見つかった鉱脈の採掘も始めなきゃ。
働いてもらうわよ、人間たち!」
「了解だ!」
夜空には満天の星が輝いていた。
城壁の中は、笑い声と食器の触れ合う音、そして希望の熱気に満ちていた。
こんな風景が今、アメリカ中の拠点で、あちこちで起きていた。
絶望の冬は終わり、人類は奇妙な神と共に、新しい春を迎えようとしていた。
(続く?)




