番外編 断章7話
ペンシルベニア州を横断し、州境を越えた魔導列車『ノアズ・ライン・エクスプレス』は、ニュージャージー州の荒野を北東へとひた走っていた。
その姿は、かつての蒸気機関車を数倍に巨大化させ、漆黒の装甲で覆った鉄の蛇のようだった。
先頭車両からは青白いマナの粒子が噴煙のように立ち上り、その周囲には不可視の結界が展開されている。
線路脇から飛び出してくるゾンビや野犬は、接触した瞬間に弾き飛ばされるか、あるいは車体側面に無数に設置された自動迎撃タレットによって肉片へと変えられていく。
「――ママ見て! また人が乗ってきたよ!」
客車の一つ、かつては貨物車だったスペースを改装した居住区画で、幼い少年が窓の外を指差して叫んだ。
列車が速度を落とし、停車する。
線路脇の廃墟――かつてガソリンスタンドだった場所――から、数人の薄汚れた生存者たちが手を振りながら駆け寄ってくるのが見えた。
「生存者確認。停車します。回収班準備!」
車内放送が響く。
装甲扉が開き、武装した兵士たちが降り立つ。
彼らは手際よく生存者たちの身体検査(感染チェック)を行い、そして温かい毛布と水を手渡して、車内へと誘導する。
「あ、ありがとう……! 噂は本当だったんだ……」
「神の列車が、本当に助けに来てくれた……」
泣き崩れる生存者たち。
この魔導列車は単なる輸送手段ではなかった。
それは、絶望に沈む北米大陸を巡回し、生き残った「魂」を拾い集める巨大な救命艇でもあった。
フィラデルフィアを出発してから数日。
列車は沿線の集落や隠れ家を虱潰しに回り、既に千人近い新たな生存者を収容していた。
最後尾の特別車両。
そこは下界の喧騒とは無縁の、優雅なラウンジだった。
深紅の絨毯、クリスタルのシャンデリア、そして壁一面の窓からは、流れゆく廃墟の景色が一望できる。
「……増えたわねぇ、乗客」
KAMIは窓際の特等席で、ニューヨーク・チーズケーキ(本場のレシピを再現して生成したものだ)をフォークで突きながら言った。
「収容率は?」
対面の席でタブレットを操作していたミラーが答えた。
「現在、乗車率85%。貨物スペースの一部を居住区に転用していますが、そろそろ限界が近いですね。
ピッツバーグからの増援部隊と合わせれば、総勢三千人の大所帯です」
「ふーん。ま、労働力はいくらあっても困らないわ」
KAMIはケーキを口に運び、恍惚の表情を浮かべた。
「ん〜、濃厚。
で? そろそろ見えてくる頃じゃない? 目的地が」
ミラーは窓の外、遥か前方の空を指差した。
そこには、鉛色の雲の下に、かつて人類の繁栄の象徴であった摩天楼のシルエットが、墓標のように霞んで見えていた。
「ああ。見えてきたぞ。
かつての『世界の首都』。眠らない街、ニューヨークだ」
その言葉には、感傷と、そして極度の緊張が含まれていた。
ニューヨーク。人口850万人を擁した巨大都市。
パンデミックが発生した際、最も多くの感染者を出し、最も凄惨な地獄と化した場所。
「850万人……か」
KAMIはフォークを置いた。
「単純計算で、その9割がゾンビになってるとしたら……700万体以上の動く死体が、あの狭い島にひしめき合ってるってことね」
「ああ。それに周辺のニュージャージーやブロンクスを含めれば、その数は倍になるかもしれん」
ミラーは表情を硬くした。
「文字通り、死者の都だ。
これまでの地方都市とはわけが違う。数だけで押し潰される危険性がある」
「でも」
KAMIは不敵に笑った。
「その分、対価も山ほど眠ってるわ。
ウォール街の地下金庫、五番街の宝飾店、メトロポリタン美術館のコレクション……。
世界中の富があそこに集まっていたのよ。
それを回収できれば、私(本体)の目標達成率は一気に跳ね上がるわ」
彼女は立ち上がり、窓ガラスに手を当てた。
「ハイリスク・ハイリターン。
ゲーマーなら、挑まない手はないわよね」
「……全くだ」
ミラーも立ち上がり、戦闘服の襟を正した。
「総員戦闘配備!
これより本列車は、全部隊を展開しつつニューヨーク近郊へ侵入する!
心しろ! 相手は数百万の死者の軍勢だ!」
列車はニュージャージー側のハドソン川沿い、かつてのホーボーケン・ターミナル付近で停車した。
川の向こうには、マンハッタン島のスカイラインが広がっている。
かつて世界を魅了したその夜景は、今は見る影もない。
ビル群は黒く煤け、一部は崩落し、窓ガラスは砕け散っている。
エンパイア・ステート・ビルが折れた槍のように、虚しく天を指していた。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
列車の停車音を聞きつけ、周囲の廃墟から、そして地下鉄の入り口から、おびただしい数の影が湧き出してきたからだ。
「ウアアアアア……」
「ガァアアアッ!」
ゾンビの群れ。
それは波のように、絨毯のように地平線を埋め尽くして押し寄せてくる。
千、万、いや十万。
数えることすら無意味なほどの、圧倒的な「死」の質量。
「……やっぱり多いわね」
列車の屋根の上に立ったKAMIは、その光景を見て顔をしかめた。
「気持ち悪い。掃除しがいがありそう」
「撃てッ!! 撃ちまくれッ!!」
地上ではミラーの号令と共に、展開した部隊が一斉射撃を開始した。
ズドドドドドドドドッ!!!
戦車の主砲が火を吹き、重機関銃が弾幕を張る。
KAMIによってエンチャントされた「爆裂弾」がゾンビの群れの中に着弾するたびに、数十体の死体が挽肉となって吹き飛ぶ。
だが群れは止まらない。
前の死体を踏み越え、後ろから次々と新しい波が押し寄せてくる。
「弾幕を絶やすな! リロード! 予備のマガジンを持ってこい!」
「衛生兵! 左翼が押されている! 火炎放射器だ! 焼き払え!」
戦場は轟音と硝煙、そして腐臭に包まれた。
だがフィラデルフィア軍は負けてはいなかった。
彼らには圧倒的な火力と、KAMIによる加護(防御結界)があった。
ゾンビがどれほど群がろうとも、見えない壁に阻まれ、兵士たちに触れることすらできない。
その隙に、魔法の弾丸が一方的に彼らを屠っていく。
「ふん、雑魚がいくら集まっても雑魚ね」
KAMIは指先を指揮棒のように振るった。
「――ライトニング・ストーム」
空が暗転し、紫色の雷光が降り注ぐ。
バリバリバリバリッ!
広範囲に落ちた雷が、数千体のゾンビを一瞬で消し炭に変えた。
神の力による大量虐殺。
「さあ道は開けたわよ。進みなさい!」
戦車部隊を先頭に、装甲車と歩兵が前進を開始する。
彼らの目標は、ハドソン川にかかる巨大な橋、ジョージ・ワシントン・ブリッジだ。
この橋を渡れば、そこはマンハッタン島。
富と欲望の眠る約束の地。
だが橋の上は、車とバスの残骸で完全に埋め尽くされ、その隙間を埋めるように数万体のゾンビがひしめき合っていた。
「……道が塞がっています! これでは戦車が通れません!」
前線の兵士が叫ぶ。
「どかせばいいのよ」
KAMIは列車の先頭車両――そこに設置された巨大なクリスタル砲塔――を指差した。
「魔導収束砲発射用意。
出力30%。射線上の障害物を、原子レベルで分解しなさい」
ヒュィィィィィン……。
クリスタルが高周波の音を立てて輝き始める。
そして。
ズキュゥゥゥゥゥン!!!!!
極太の青白い光線が、橋の上を一直線に貫いた。
ゾンビも廃車も瓦礫も。
光に触れた全てのものが、音もなく消滅していく。
光が収まった後には、塵一つない、完璧に舗装された道路だけが残されていた。
「……開通よ」
KAMIはにっこりと笑った。
「さあ、ニューヨークへようこそ!」
部隊は歓声を上げて橋を渡り始めた。
人類のニューヨーク奪還作戦の始まりだ。
マンハッタン島に上陸した部隊は、ワシントンハイツから南下を開始した。
ブロードウェイを戦車が踏みしめていく。
かつての繁華街は今やゴーストタウンだ。
ショーウィンドウは割れ、ブランド品は略奪され、路上には白骨化した死体が散乱している。
「……ひどい有様だ」
ミラーは装甲車の窓から街並みを見上げた。
「だが建物は残っている。
このビルの谷間のどこかに、まだ生きている人間がいるはずだ」
KAMIは空中を浮遊しながら索敵を行っていた。
「生体反応……あるわね。
地下鉄の構内、高層ビルの上層階、セントラルパークの茂みの中。
微弱だけど、確かに人間の反応があるわ」
「よし。回収班を向かわせろ。
スピーカーで放送を流せ。『救援部隊だ、食料と水がある』と」
部隊はゾンビを掃討しながら、慎重に進んでいった。
ハーレムを抜け、アッパー・ウエスト・サイドへ。
その時だった。
「――ボス! 3時方向! 高層ビルの屋上から煙が見えます!」
見張り役の兵士が叫んだ。
ミラーが双眼鏡を向ける。
そこには、40階建ての高級マンションの屋上から黒い煙が、規則的に上がっているのが見えた。
SOS信号だ。
「生存者だ! しかも組織的な行動が取れている」
ミラーは判断した。
「あそこまで登るのは骨だが……。
航空支援が必要だな」
「私が行くわ」
KAMIは言った。
「ヘリじゃ着陸できないかもしれないし、屋上にゾンビが溢れてるかもしれない。
私が直接飛んでいって、状況を見てくる」
「気をつけてくれ。何か嫌な予感がする」
ミラーの軍人としての勘が警鐘を鳴らしていた。
このニューヨークの静けさは、どこか不自然だ。
数百万のゾンビがいるはずなのに、上陸してからの抵抗が予想よりも少なすぎる。
まるで何者かがゾンビたちを「統率」して、あえて道を空けているかのような……。
「平気よ。神様に喧嘩を売るバカがいたら、消すだけだもの」
KAMIはふわりと舞い上がり、煙の上がるビルへと一直線に飛んでいった。
ビルの屋上。
そこにはバリケードで固められた小さな陣地があった。
十数人の男女が火を焚き、必死に手を振っている。
彼らはボロボロの服を着て痩せ細っていたが、その目には理性と、そして深い恐怖の色が宿っていた。
KAMIが屋上に降り立つと、彼らは驚きのあまり腰を抜かした。
「……て、天使?」
「空から女の子が……?」
「はいはい、天使でも悪魔でもいいわよ」
KAMIは彼らの前に立った。
「あなたたち、助けを求めてたんでしょ?
下を見てごらんなさい。私の部下たちが、道を掃除してるわ」
彼らは恐る恐る下を覗き込んだ。
通りを埋め尽くす戦車と兵士たち。
そして次々と倒されていくゾンビの群れ。
「……軍隊だ! 軍が来てくれたんだ!」
「助かった……! 本当に助かったんだ……!」
彼らは泣き崩れ、KAMIの足元にすがりついた。
KAMIは手持ち無沙汰にポケットからチョコレートバーを取り出し、一番近くにいた少女に手渡した。
「ほら、食べなさい。
で、事情を聞かせてもらえる?
あなたたち、ここで何をしていたの?
そしてこの街の状況はどうなってるの?」
リーダー格の男――元ニューヨーク市警の刑事だという男が、震える声で答えた。
「……ありがとう、お嬢ちゃん。いや、神様。
俺たちはこのマンションに立てこもって3年になる。
備蓄も尽きて、もうダメかと思っていた……」
彼は一口チョコをかじり、その甘さにむせび泣いた後、深刻な顔で言った。
「だが、あんたたち、気をつけたほうがいい。
この街はただの廃墟じゃない。
ゾンビだけが敵じゃないんだ」
「どういうこと?」
「……奴らがいるんだ」
男は声を潜めた。
周囲の生存者たちもその言葉を聞いて、怯えたように身を寄せ合う。
「『ミュータント』だ。
だが、ただの怪物じゃない。
奴らは……知能を持っている」
「知能?」
KAMIの眉が動いた。
フィラデルフィアで聞いた話とは違う。ミュータントは強力だが、あくまで本能で動く獣だと聞いていた。
「ああ。奴らは徒党を組んでいる。
言葉のようなものを話し、武器を使い、そして……人間を狩っている。
食うためだけじゃない。
奴隷にするために、あるいは……もっと恐ろしい『実験』のために」
男は南の方角、ミッドタウンにそびえ立つかつてのエンパイア・ステート・ビルを指差した。
「あのビルが奴らの巣窟だ。
『キング』と呼ばれる個体が、ニューヨーク中のミュータントとゾンビを支配している。
奴らは組織化されているんだ。
軍隊のような規律を持って」
「……知性あるミュータントねぇ」
地上に戻ったKAMIから報告を受けたミラーは、険しい顔で腕を組んだ。
「厄介だな。ただの害獣駆除だと思っていたが、どうやら『戦争』になりそうだ」
「ええ。生存者たちの話だと、その『キング』ってやつは人間の言葉を解し、戦術を理解し、さらにはゾンビたちを操る能力まで持ってるらしいわ」
KAMIは面白そうに笑った。
「進化したのかしらね。
ウイルスの突然変異か、あるいは極限環境での適応か。
どちらにせよ、興味深いサンプルだわ」
「悠長なことを言ってる場合じゃないぞ、ボス」
ミラーは地図を広げた。
「相手が知性を持っているなら、こちらの動きも読まれている可能性がある。
これだけの派手な行軍だ。奴らが気づいていないはずがない。
待ち伏せ、奇襲、あるいは包囲攻撃……。
奴らが組織的な反撃に出てきたら、市街地戦は泥沼になるぞ」
「そうね。じゃあこっちも本気を出しましょうか」
KAMIは指を鳴らした。
「全軍停止。
ここを前線基地とするわ。
まずはこのエリアを完全に制圧して、足場を固める。
そして生存者たちを保護して、情報を集めるの」
彼女はエンパイア・ステート・ビルの方角を見据えた。
「相手が『王』を名乗るなら、敬意を表して真正面から叩き潰してあげるわ。
私の『神の軍団』と、どっちが強いか勝負よ」
その時。
廃墟のビルの陰から、奇妙な音が響いた。
それはゾンビのうめき声ではなかった。
金属を叩くような規則的なリズム。
カンカンカン……。
まるで何かの合図のような。
「……来たか」
ミラーが銃を構える。
ビルの屋上、窓の隙間、マンホールの下。
無数の影が一斉に姿を現した。
それらはミュータントだった。
だが全裸の怪物ではない。
彼らは廃材で作った粗末な鎧を身に着け、手には鉄パイプや奪った銃器を持っていた。
そしてその中央に立つ、一際巨大な個体が、低く唸るような声で吠えた。
「――侵入者を殺せ」
はっきりとした英語だった。
「……本当に喋った」
KAMIは嬉しそうに目を細めた。
「いいわね。知性があるなら交渉の余地もあるかもしれないし……。
あるいは、絶望の味もより深く理解できるでしょうね」
「総員、撃ち方始めッ!!」
ミラーの絶叫と共に、ニューヨーク攻略戦の本当の幕が上がった。
それは、人類と新人類による、この星の覇権をかけた最初の組織的な戦争の始まりだった。




