第153話
東京・永田町。
首相公邸の地下深くに眠る危機管理センターは、この数ヶ月間、張り詰めた緊張と絶望的な徒労感に支配され続けていた。
だが、この日の空気は少し違っていた。
そこには、嵐の中での操船に慣れてきた船乗りたちだけが共有する、奇妙な落ち着きと、そして微かな希望の光が差し込んでいたのである。
円卓を囲むのは、いつものメンバーだ。
沢村総理。九条官房長官。そして、麻生ダンジョン大臣。
彼らの四つの身体(本体と分身)は、今日も今日とて山積するデータを処理し続けているが、その表情には以前のような悲壮感は薄らいでいた。
「――報告します。今月の経済指標の速報値が出ました」
九条の分身の一人が、手元のホログラムパネルを操作し、メインモニターにグラフを投影した。
右肩上がりに伸びる消費支出。改善傾向にある実質賃金。そして何より、懸念されていた「労働力不足による倒産件数」が、予測よりも低い水準で推移していることを示すデータ。
「……ふむ。悪くない数字だ」
沢村総理が、手元の熱い茶をすすりながら呟いた。
「兼業探索者の制度設計。どうやら、初期の混乱を乗り越えて、社会に定着しつつあるようですな」
兼業探索者。
それは、政府と経済連が激論の末にひねり出した、「会社員を続けながら副業としてダンジョンに潜る」という新しいライフスタイルのことである。
政府は税制面での優遇(経費計上の拡大)を行い、企業は副業禁止規定を撤廃した。その結果、日本社会には、かつてない「二足のわらじ」ブームが到来していた。
「ええ。実に上手く回りつつあります」
九条の本体が、冷静に分析を加える。
「現在のトレンドはこうです。
日中は会社で通常業務をこなす。そして、退社後の夜間あるいは週末に、比較的安全なF級あるいはE級の浅い階層へ、短時間だけ潜る。
実働時間は一日二時間程度。無理はしない。深追いはしない。
それでも、魔石とドロップ品を合わせれば、一日数万円の副収入にはなります」
九条は、都内のサラリーマンのモデルケースを表示した。
「月収30万円の会社員が、ダンジョン副業で月にプラス20万円から30万円を稼ぎ出す。
世帯年収は倍増し、可処分所得は爆発的に増える。
彼らは、その潤沢な資金で少し良いマンションに引っ越し、美味しいものを食べ、子供に習い事をさせ、そして週末には新しい装備を買う。
金が回っています。実体経済に、お金がジャブジャブと流れているのです」
「うむ」
麻生大臣がニヤリと笑った。
「先日、経済連の三田村会長と会食したがね。あの古狸、ドヤ顔をしておったよ。
『大臣ご覧なさい。社員たちの顔色が良くなりましたぞ』とな。
以前は死んだ魚のような目をしていた若手社員が、今は生き生きと働いているそうだ。
まあ、懐が暖かけりゃ仕事のストレスも多少は我慢できるというものだ。
彼も満更ではなさそうだったよ」
「それは重畳」
沢村は頷いた。
「人材不足は相変わらず深刻だが、少なくとも『全員が会社を辞めてダンジョンに突撃する』という最悪のシナリオは、回避できたわけだ。
生活の安定(本業)と、夢と実益。この二つのバランスを取る道を選んだ国民の良識に、感謝だな」
社会は、新しい平衡状態を見つけつつあった。
昼は社畜、夜は戦士。
そのサイクルが、日本の経済を底上げし、閉塞感を打破するエンジンとなっていたのだ。
だが、その明るい話題に、冷や水を浴びせるようなデータもまた存在していた。
「……しかし総理」
九条が、モニターの画面を切り替えた。
そこには、ダンジョンからの「魔石産出量」のグラフが表示されていた。
探索者人口の爆発的な増加に反して、魔石の供給量の伸びは、鈍化しているように見えた。
「この兼業探索者たちですが……。
ダンジョン攻略という観点、すなわち『国家資源の確保』という点においては、実質あまり貢献できていません」
九条は、バッサリと言い切った。
「彼らの行動原理は、『安全第一』『小遣い稼ぎ』です。
F級やE級の入り口付近で、リスクの低いゴブリンやスライムを狩るだけ。
装備は整えていますが、それは『死なないため』であって、『より深く潜るため』ではない。
要は、向上心がないのです」
彼は、厳しい現実を突きつけた。
「彼らはD級以上の危険なエリアには、決して近づきません。
『本業に差し支えるから』と。
結果として、産業界が喉から手が出るほど欲している、高純度の魔石や希少なレアメタル、そして新種のドロップ品の供給には、彼らはほとんど寄与していないのが現状です」
「ふむ……」
沢村が腕を組む。
「まあ責められんよ。彼らはあくまで素人だ。命を賭けろとは言えん。
では、日本のエネルギー政策を支える『本丸』は、誰が担っているのだ?」
「やはり」
九条は別のデータを表示した。
「魔石供給の主力は、前線で戦うE級・D級の『専業個人探索者(ガチ勢)』、そして何より『企業勢』です。
特に、特区制度を活用して参入した大手企業の攻略部隊。
彼らの働きは、当初の懸念を覆すほどに目覚ましいものがあります」
モニターには、五菱商事や三井物産、トヨタなどが組織した企業攻略隊の活動レポートが映し出された。
そこには、軍隊のように統率され、工場のように効率化された、徹底的な「狩り」の様子が記録されていた。
「企業勢も当初は、『サラリーマンに冒険など無理だ』『事故が多発する』といった懸念がありました。
ですが、蓋を開けてみれば彼らは非常に上手く回っています。
彼らの武器は『数』と『規律』、そして『資本力』です」
九条は解説する。
「彼らは、D級ダンジョンにおいても決して無理はしません。
徹底的な事前偵察、完璧な装備、そしてシフト制による万全の体調管理。
個人の英雄的な活躍に頼るのではなく、システムとしてダンジョンを攻略しています」
そして、麻生大臣が補足した。
「彼らが成功している最大の要因は、『確率の暴力』ですな」
「確率の暴力?」
「ええ。ダンジョンのドロップは運です。
個人であれば、何日潜ってもレアが出ないこともあれば、一日で億万長者になることもある。不安定極まりない。
だが企業は違う。
数百人、数千人の社員を毎日送り込み、何万回という戦闘を行わせる。
そこまで試行回数を増やせば、確率は統計的な数値に収束します」
麻生は、驚くべきデータを提示した。
「現在、日本国内のダンジョンでは、全土合わせて毎日平均2~3個の『ユニークアイテム』がドロップしていると推測されています。
そのうち実に『1個』は、企業勢が確保しています」
「毎日1個!?」
沢村が、驚きの声を上げた。
「ユニーク装備といえば、安くても数億円、物によっては数十億円の値がつく代物だろう!?」
「はい。
個人にとっては一生に一度あるかないかの奇跡ですが、企業にとっては『日々の生産実績』の一部なのです。
彼らは、ドロップ運という不確定要素を、数の試行回数で安定させることに成功しています。
トータルの収支で見れば、一発逆転を狙う個人探索者より、企業勢のほうが遥かに安定して、かつ大規模に儲かっているというデータもあります」
企業は、ダンジョンというカオスを、計算可能なビジネスへと変換してしまったのだ。
それはある意味で、現代資本主義の勝利とも言えた。
「……しかし」
沢村が懸念を示した。
「現場の社員たちは、それに納得しているのか?
自分が拾った数億円のユニークアイテムを、会社に没収されるのだぞ?
モチベーションが維持できるのか?」
「そこは上手くやってますよ」
麻生がニヤリと笑った。
「インセンティブです。
多くの企業が、『レア以上のドロップ品に関しては、売却益の10%~20%を発見したチームに特別ボーナスとして還元する』という規定を設けています」
麻生は、電卓を弾く仕草をした。
「ユニーク装備は、安定して数億しますからね……。
例えば5億円で売れたとして、その10%は5000万円。
これを10人のチームで分けても、一人500万円。
それがボーナスとしてポンと入るわけです。しかも非課税で」
「……なるほど」
沢村が唸る。
「毎日どこかのチームでそれが起きる可能性があると考えれば……やはり大きいですね。
宝くじを買うより、よほど確率が高い。
社員たちが目の色を変えて働くわけだ」
企業は利益を独占するのではなく、適切に分配することで、社員の欲望を管理していた。
安定した高給と一攫千金の夢。その両方を提供できる企業探索者という職業は、今や学生たちの就職希望ランキングでトップを独走していた。
「……ということは」
沢村が尋ねた。
「実力も稼ぎも、企業勢が優勢ということか?」
「いえ、そうとも言い切れません」
九条が首を横に振った。
「稼ぎの『総額』と『安定性』では企業が勝ります。
ですが、『個々の練度』と『突破力』においては、やはり個人勢探索者が優勢でしょう」
モニターに、月島蓮率いる『月読ギルド』の映像が映し出される。
彼らは、企業が決して足を踏み入れないような未踏破エリア、危険なボス部屋、そして隠し通路を、鮮やかな連携と個人の技量で攻略していた。
「企業は、安全マージンを取りすぎるため、どうしても攻略のスピードが遅くなります。
対して、月読ギルドを筆頭とするトップランカーたちは、リスクを恐れず死線をくぐり抜けることで、驚異的な速度でレベルを上げ、プレイスキルを磨いています。
D級の最深部に到達し、ボス『ミノタウロス』を単独パーティで撃破したのは、やはり彼らでした」
質と量。
最前線を切り拓く個人と、占領地を資源化する企業。
その役割分担が、自然と出来上がりつつあった。
「……なるほど。悪くないバランスだ」
沢村は現状を総括した。
「兼業者が裾野を広げ、企業が資源を安定供給し、エリート個人が最前線を押し上げる。
日本のダンジョン攻略は、極めて健全なエコシステムを構築しつつあると言っていい」
だが、政治家としてそこで満足するわけにはいかない。
彼は、九条と麻生に向き直った。
「では政府として動けることは、何かありますか?
この良好な流れを、さらに加速させるために」
「そうですね……」
九条が、手元の資料をめくった。
「人材の空洞化、いわゆる『20年問題』の前倒しについては、兼業の普及によって、なんとか回避出来る見込みが立ちました。
物流も建設も、人手不足ではありますが、致命的な崩壊は免れています。
ですが、ここで手を緩めるべきではありません」
九条は、経済連との交渉の成果を報告した。
「給与引き上げについても、経済連が『ダンジョン特区』での権益確保を見返りに、かなり前向きに動いてくれています。
大手企業を中心に、ベースアップと初任給の大幅な引き上げが相次いで発表されています。
『毎月昇給がある』『ボーナスが倍になった』といった話が、SNSでもかなり話題になっており、若者の企業回帰を後押ししています」
ダンジョンという「外部圧力」によって、長年停滞していた日本の賃金が、ようやく上がり始めたのだ。
「給料を上げなければ、社員が全員ダンジョンに行ってしまう」という危機感が、経営者たちの財布の紐をこじ開けたのである。
「問題は中小企業です」
麻生大臣が鋭く指摘した。
「大手はいい。ダンジョン事業で儲けているし、体力もある。
だが、地方の中小企業は賃上げ競争についていけず、人材を奪われる一方だ。
彼らにもこの流れに乗って欲しいのですがね……」
「支援が必要だな」
沢村が即断した。
「ダンジョン関連の利益――上納金や税収の一部を原資として、中小企業の賃上げ助成金、あるいは省力化投資への補助金を拡充しよう。
『ダンジョン調整助成金』とでも名付けてな」
「それと」
九条が付け加えた。
「中小企業が、地域のダンジョン(鉱山型や採取型)を活用できるようなマッチング支援も強化すべきです。
彼らの持つ技術――例えば精密加工や食品加工のノウハウは、魔石やダンジョン素材の加工において大きな武器になります。
下請けではなく、ダンジョン産業のプレイヤーとして彼らを引き上げるのです」
「うむ。それで行こう」
沢村は、力強く頷いた。
「兼業、企業、個人、そして中小企業。
全ての国民が、何らかの形でダンジョンの恩恵に浴し、豊かになれる社会。
それが、我々が目指すべき『ダンジョン立国・日本』の姿だ」
会議室の空気は、前向きな熱気に満ちていた。
数ヶ月前の絶望的な調整地獄が嘘のようだ。
人間は適応する生き物だ。
神が与えた理不尽なルールの中でさえ、彼らは知恵を絞り、抜け道を探し、そして自分たちなりの「最適解」を見つけ出しつつあった。
その時。
不意に、会議室の隅の空間が揺らいだ。
「――あら、随分と調子良さそうじゃない」
KAMIだった。
彼女は手にコンビニの新作スイーツ(今回は「生クリームどら焼き」だ)を持ち、四人の男たち(八つの身体)を面白そうに見下ろしていた。
「KAMI様!」
九条たちが、一斉に頭を下げる。
「見てたわよ。
兼業とか、企業のボーナス制度とか。
なかなか面白いシステムを作ったじゃない。
人間って、お金のためなら本当にクリエイティブになるわよねぇ」
彼女は、どら焼きを一口かじった。
「まあ、今のところは合格点をあげてもいいわ。
経済も回ってるし、ダンジョンも攻略されてるし。
私の『対価』も順調に貯まってるわ」
「ありがとうございます」
沢村が恐縮する。
「でもね」
KAMIは、口元のクリームを舐めとりながらニヤリと笑った。
「平和ボケしてると、足元掬われるわよ?
そろそろ次の『刺激』が欲しくなってきた頃じゃない?」
その不吉な予告に、男たちの背筋が凍る。
「D級もだいぶ慣れてきたみたいだし。
そろそろ……『イベント』でも開催しようかしら」
「イベント……ですか?」
「そう。
ただ潜って帰ってくるだけじゃ飽きちゃうでしょ?
だから、世界規模の競争とか、期間限定の強敵とか。
そういうのを考えてるの」
彼女は、楽しそうに目を輝かせた。
「企業も個人も国も巻き込んだ、大運動会よ。
準備しておきなさい。
詳細は……また今度教えてあげるわ」
言い残して、彼女は姿を消した。
後に残されたのは、再び胃の痛みを思い出した沢村と、即座に「イベント対策室」の設置を検討し始めた九条の姿だった。
安定は束の間の夢。
神の気まぐれなゲームは、常に新しいステージへとアップデートされ続ける。
だが今の彼らには、それを迎え撃つだけの「体力」と「経験」が、確かに備わりつつあった。
「……よし、やるか」
沢村が、自分に言い聞かせるように呟いた。
「どら焼きの分まで働かねばな」
日本の夜は今日も眠らない。
だがその夜は、以前よりも少しだけ希望に満ちた明るさを帯びているように見えた。




