第152話
東京、ワシントン、北京、モスクワ。
四つの首都を繋ぐ最高機密のバーチャル会議室は、これまでになく重苦しく、そして粘りつくような欲望の空気に満たされていた。
今日の議題は、KAMIから提示された「未来技術カタログ」の中でも、最も輝かしく、そして最も毒性の強い果実についてである。
『不老化処置技術』。
円卓を囲む四人の指導者たちの顔には、国家元首としての理性の仮面と、死を恐れる一人の人間としての本能が、激しくせめぎ合っている様子が見て取れた。
「――さて、本題に入りましょう」
議長役の九条官房長官が、いつもの冷徹な声で切り出した。
だが、その手元の資料を握る指には、微かに力がこもっている。
「不老。人類の悲願です。KAMI様からの提示によれば、この技術を用いれば、人間は肉体的な老化を完全に停止させ、理論上は永遠の生を享受することが可能になるとのこと。
……各国の率直なご意見を」
沈黙。
誰もが最初の発言者になることを恐れていた。
「欲しい」と言えば政治家としての見識を疑われる。「要らない」と言えば、それは嘘になる。
「……正直に言おう」
口火を切ったのは、やはりアメリカのトンプソン大統領だった。
彼はグラスの水を一口飲み、渇いた喉を潤した。
「欲しい。めちゃくちゃ欲しい。私だって人間だ。死にたくはないし、若さを取り戻せるなら、悪魔に魂を売ってもいいとさえ思う」
「同感だ」
ロシアのヴォルコフ将軍が、低い声で唸った。
「我々が築き上げた権力、富、そして国家。それらを永遠に統治できるならば、これに勝る喜びはない。皇帝陛下も、この技術には並々ならぬ関心を寄せておられる」
「中国も同様です」
王将軍が頷く。
「長寿は中華文明の究極の理想。それを科学(あるいは魔法)で実現できるなら、党として拒否する理由はない……個人的にはな」
三人の指導者たちの本音が出揃った。
だが、彼らの表情は晴れない。
むしろ欲望を口にしたことで、その先に待つ絶望的な現実がより鮮明になり、顔を曇らせていた。
「……ですが」
沢村総理が、重い口調で言った。
「問題が多すぎますな。多すぎるどころではない。
もしこの技術を導入すれば、現在の社会制度は……いや、人類の文明構造そのものが音を立てて崩壊するでしょう」
「そうです」
トンプソンが、頭を抱えた。
「年金、保険、雇用、相続、家族制度……。
全てが『死ぬこと』を前提に設計されている。
死なない人間が増え続けたら? 人口爆発で地球はパンクし、資源は枯渇し、若者は職を失い、暴徒化する。
不老の楽園どころか、共食いの地獄絵図だ」
「しかし……」
王将軍が、諦めきれないように言った。
「並行世界では導入済みだと言うではありませんか。
KAMI様は仰った。『標準的な技術よ』と。
他の世界の人類に出来て、我々に出来ないはずがない。そう思いませんか?」
その言葉に、他の三人も顔を見合わせた。
そうだ。前例があるなら、解決策もあるはずだ。
彼らは希望にすがるような目で、円卓の中央に視線を向けた。
「――KAMI様!」
九条が呼びかけた。
「お教えください! その並行世界の人類は、一体どうやってこの『不老の毒』を飲み干し、社会を維持しているのですか!?」
その呼びかけに応え、空間が揺らいだ。
いつものように、ゴシック・ロリタ姿の少女KAMIがポップアップする。
今日の彼女は、日本の駄菓子『ブタメン』をすすりながら、呆れたような顔で四人の男たちを見下ろしていた。
「んー? またその話?」
彼女は麺を飲み込むと、フォークをくるくると回した。
「あなたたち、本当に往生際が悪いわねぇ。
まあいいわ。教えてあげる」
彼女は、その「成功例」とされる並行世界のデータを、ホログラムとして展開した。
「まず前提としてね。不老化なんて、私みたいな『因果律改変能力』を極めれば、個人レベルなら誰でも出来るようになるわよ?
自分自身の肉体の時間を固定したり、細胞のコピーエラーを修正したりすればいいだけだし」
「なっ……!」
ヴォルコフが絶句する。
「魔法を極めれば、不老になれると!?」
「ええ。ロシア大統領みたいに才能があればね」
KAMIはさらりと言った。
「でも、それはあくまで『個人』の話。万人が魔法使いになれるわけじゃない。
あなたたちが欲しがってるのは、国民全員、あるいは選ばれたエリート層に安定して供給できる『医療技術としての不老』でしょ?」
「その通りです!」
「その点、今回提示した『不老化処置』は楽よね。
ナノマシンと遺伝子治療を組み合わせたカクテルを注射するだけ。
効果は永続じゃないけど、100年ごとにメンテナンス(再処置)を受ければ、理論上は数千年は生きられるわ」
100年ごとの更新。
それは、管理する側(国家)にとっても、都合の良い条件に聞こえた。
「で、その世界はどうやったかだけど……」
KAMIは少し遠い目をした。
モニターには、高度に発達した未来都市の映像が映し出されている。空飛ぶ車、軌道エレベーター、そして若々しい人々。
「結論から言うとね。
その世界には『先生』が来たのよ」
「……先生?」
「ええ。『介入者』と呼ばれる、銀河文明からやってきた親切な異星人たちよ」
KAMIは、物語を語り始めた。
「ある日突然、巨大な宇宙船団が地球にやってきて、G7……当時の主要国首脳と接触したの。
彼らは言ったわ。『あなたたちは銀河コミュニティに参加する資格がある。でも今のままじゃ早死にしすぎるし野蛮すぎる。だから私たちが教育してあげましょう』って」
それはまさに、黒船来航の宇宙版だった。
「彼らは、いきなり不老不死を与えたわけじゃないわ。順序があったの。
まず『空間折りたたみ技術』と『無限エネルギー炉(対消滅エンジン)』を提供して、資源とエネルギーの問題を解決させた。
次に『高度なサイボーグ化技術』と『ナノマシン医療』を普及させて、病気を駆逐した。
そうやって、衣食住と健康の不安を完全になくすのに、約10年かけたわ」
「10年……たったの10年で?」
トンプソンが驚愕する。
「ええ。宇宙人たちの指導は、スパルタだったみたいよ?
彼らは各国の政府に入り込んで、直接指揮を執ったそうだし。
『年金? 廃止だ。死なないんだから働くのは当たり前だろう』
『保険? 不要だ。病気はナノマシンが治す』
『住む場所? 空間拡張で幾らでも作れる』
……そんな感じで、既存の社会制度を次々と解体・再構築していったの」
KAMIは、当時の議事録データを表示させた。
そこには、地球側の政治家や宗教家の悲鳴と、異星人の冷徹な論理が記録されていた。
「宗教的には、相当揉めたみたいねぇ。
『死なないなんて神への冒涜だ!』って暴動も起きたし、テロもあった。
でも、異星人たちは圧倒的な武力と科学力で、それをねじ伏せたわ。
最終的には『銀河の星々こそが神の国であり、長命は宇宙を知るための準備期間である』みたいな新しい教義を作って、地球の宗教と無理やり折り合いをつけさせたみたい」
「……なるほど」
沢村が唸った。
「外圧、それも圧倒的な『宇宙からの外圧』によって、強制的に進化させられたわけか」
「そうして社会の器が完成したところで、最後に『不老化処置』が解禁された。
彼らは銀河コミュニティの末席に加えられ、今では宇宙の運び屋として元気にやってるわよ」
KAMIの説明を聞いて、会議室には奇妙な明るさが戻っていた。
「……いけるんじゃないか?」
トンプソンが、希望を見出したように言った。
「手順は分かった。エネルギーと資源を解決し、社会制度を変えればいいのだ。
宇宙人はいなくとも、我々にはKAMI君の技術データがある。
10年とは言わずとも、30年、50年かければ、我々自身の力でその『器』を作れるのではないか?」
「そうですね」
王将軍も同意した。
「我々には強い指導力がある。民を導くことは可能だ」
「不老は夢物語ではない。具体的なロードマップが見えた!」
ヴォルコフ将軍が拳を握る。
人類はやれる。
その自信が、彼らの胸に去来した。
だが。
KAMIは、そんな彼らを見て、冷ややかに、そしてどこまでも残酷に言い放った。
「……ふーん。随分と楽観的なのね」
彼女はブタメンのスープを飲み干すと、カップを握りつぶした。
クシャリという音が、会議室の空気を凍らせた。
「あのね、勘違いしないで」
彼女の赤い瞳が、四人の男たちを射抜く。
「その世界が成功したのは、『宇宙人がいたから』よ。
彼らが圧倒的な力で管理し、強制し、そして『守った』から、人類は自滅せずに済んだの」
彼女は別のウィンドウを開いた。
そこには、廃墟と化した地球の映像が、いくつもいくつも並んでいた。
「見て。これ、他の並行世界の地球よ」
荒廃した大地。無人の都市。生物の気配がない死の星。
「この世界の人類はね、宇宙人の介入なしに、自力で『不老化技術』や『無限エネルギー』を発見しちゃったの。
……結果は見ての通り」
KAMIは、淡々とその滅びの歴史を語った。
「不老不死を手に入れた独裁者が、永遠の支配を確立しようとして核戦争を起こした世界」
「人口爆発で資源を食いつぶし、最後は共食いで滅んだ世界」
「不老の富裕層と短命の貧困層の間の戦争で、ウイルス兵器が撒かれて全滅した世界」
「死ななくなったことで精神が腐敗し、文明を維持する気力を失って、静かに衰退していった世界」
彼女は言った。
「パターンは違っても結末は同じ。
『精神の成熟』と『社会の許容力』が追いついていない段階で過ぎた力を手に入れた文明は、例外なく自滅するわ」
「……これが『グレート・フィルター』ってやつ?」
彼女は皮肉っぽく笑った。
「宇宙に出る前に、不老不死なんていう『エンドコンテンツ』に手を出すとどうなるか。
社会のOSが旧式のまま、アプリだけ最新鋭にしても、バグってクラッシュするだけよ。
技術ツリーの順番を間違うと即・滅亡。
……現実って、本当にバランス調整のシビアな『クソゲー』よね」
その言葉は、重いハンマーのように指導者たちの頭を殴打した。
技術ツリーの間違い。即ちゲームオーバー。
彼らが今、手に入れようとしているのは、まさにその「禁断の果実」だったのだ。
会議室は、完全な沈黙に包まれた。
先ほどまでの希望は消え失せ、底知れない恐怖だけが残った。
我々はまだ「子供」なのだ。
刃物を持たせれば自分を傷つけてしまう幼児なのだ。
「……KAMI様」
沢村総理が震える声で尋ねた。
「では我々には……まだ早いと?」
「ええ、早すぎるわ」
KAMIは即答した。
「今のあなたたちに不老を渡すのは、猿に核ミサイルの発射ボタンを渡すようなものよ。
……まあ渡してもいいけど?
滅びゆく様を観察するのも、それはそれで一興だし」
その悪魔の誘惑。
だが四人の男たちは、首を横に振った。
彼らは権力者であり強欲だが、同時に人類の生存本能を背負う代表者でもあった。
自滅は選べない。
「……分かりました」
トンプソン大統領が、苦渋の決断を下した。
「不老化技術の導入は……無期限延期とする。
基礎研究データとして保管はするが、実用化には手をつけない」
「賢明ね」
KAMIは頷いた。
「まずは宇宙に出ることね。
『空間折りたたみ』と『亜光速エンジン』。
こっちは比較的安全よ。外の世界を知って、資源の問題を解決して、文明の器を大きくする。
不老不死を考えるのは、それからでも遅くないわ」
「……そうですね」
九条がホッとしたように息を吐いた。
「まずは月へ。そして火星へ。
人類の活動領域を広げ、社会システムをアップデートしていく。
順序を守って、一歩ずつ進むしかありません」
不老不死という夢は、遠い未来へと棚上げされた。
だがそれは諦めではない。
「いつかその資格を得る日のために」という、人類全体の長期目標として再設定されたのだ。
「まあ、頑張りなさいな」
KAMIは立ち上がった。
「宇宙開発も、それはそれで問題山積みだけどね。
コロニーの独立戦争とか、宇宙海賊とか。
……ま、全滅するよりはマシな『イベント』でしょうよ」
彼女は楽しそうに笑った。
「じゃあ私は帰るわ。
あ、そうそう。不老不死はダメだけど『若返りのポーション』くらいなら、たまにはドロップさせてあげるから。
ガス抜きに使いなさい」
その慈悲深い(?)言葉を残して、神は姿を消した。
後に残された四人の指導者たちは、モニターの向こうで互いに疲れ切った顔を見合わせた。
「……命拾いしたな、我々は」
ヴォルコフ将軍が、ウォッカを一気飲みした。
「ええ。危うく技術ツリーの罠にハマるところでした」
沢村が、冷たい茶をすすった。
彼らは知った。
進化には手順がある。
飛び級は許されない。
神の力は、それを御するだけの「魂の器」が出来上がって、初めて祝福となるのだ。
眠らない夜は続く。
だがその視線の先は、もはや手元の小瓶ではなく、窓の外に広がる無限の星空へと向けられていた。
次の戦場は宇宙だ。
人類は滅亡の罠を回避し、次なるステージへと進む切符を手に入れたのだった。




